(責任の評価には、デザイン思考が不可欠です)
1)責任とは何か
政治の意思決定過程は、目に見えません。
教育を含む政治過程では、結果が判明するまで、数十年かかることもあります。
そうなると、因果モデルは複雑になり、失敗の判定や、原因(失敗を作った意思決定)がどこにあったのかは、見えなくなります。
ここでは、責任とは、誰かをスケープゴートにすることではありません。責任とは、問題の所在を明らかにして、失敗を繰り返さないためのプロセスの一部です。
このような複雑な組織マネジメントは、ある程度単純化したモデルを使わないと脳の容量を超えて考えることができません。
因果がネットワークになっている場合には、影響力の大きな要素に因果モデルを集中して、それ以外の要素は、観測データでは説明できないノイズとして分析を対象外にする必要があります。
因果モデルの原因は、1つではありませんが、データの精度と量に限界があるため、余りに数多くの原因を考えると、過学習になって、正しい結論が得られません。
こうしたエビデンスと因果モデルの世界観は、データサイエンスの基本です。
データサイエンスでみれば、エビデンスと因果モデルの世界観に基づかない人文科学の推論のエラー率は、100%と推定されます。
経済学を含む社会科学のエラー率もかなり高いと思われます。
理系の経済学は、エビデンスと因果モデルの世界観に基づく必要があります。
以下では、考えやすいエビデンスと因果モデルの世界観として、サッカーチームを考えます。
2)サッカーチームのモデル
有力なサッカーチームが連敗して、監督がクビになることがあります。
大統領と首相は、任期の途中で、クビになることはありません。制度上のリコールが設けられている場合もありますが、実施のハードルは高く、リコール投票がなされることはまれです。
サッカーチームの分析をすれば、大統領と首相が、クビになるべき条件がわかります。クビに出来るわけではありませんが、条件がわかれば、検討する価値があります。
サッカーチームの監督がクビになった直接の原因は、連敗ですが、連敗だけでは、クビにはなりません。
弱小の連敗を続けているチームもあります。
サッカーではありませんが、よく名前が知られている弱小チームには、東京大学の野球部があります。東京大学の野球部は連敗しても、監督がクビになることはありません。
サッカーチームの監督がクビになった根本的な原因は、チームが期待された戦績をあげられなかったことにあります。
つまり、背景には、個々の選手の能力、選手、監督などのチームメンバーに払う給与に見合った能力発揮ができなかった結果、連敗が起こったという因果モデルがあります。
その因果モデルのなかで、監督の寄与分が大きかったと判断されれば、監督がクビになります。
過去には、サッカーチームの主要メンバーが飛行機事故で亡くなったこともあります。
その後の戦績は、悪化したと思われますが、監督はクビにはならなかったでしょう。
以上の検討からわかることは、「責任には、デザイン思考に伴う期待値が必要である」ということです。
ジョブ型雇用における監督の給与は、「デザイン思考に伴う期待値」に対して支払われます。
「デザイン思考に伴う期待値」が監督の能力評価の初期値です。
この監督の能力評価の値は、対戦を繰り返す毎に更新されます。
この更新値が、給与を査定した時の「デザイン思考に伴う期待値の初期値」を大きく逸脱した場合には、責任が生じます。
以上のように考えると、「デザイン思考のない年功型雇用には、責任が存在しない」ことになります。
意思決定(ブリーフの固定化)は、個人ではなく、集団で行なう場合もあります。
その場合には、意思決定プロセスは複雑になりますが、「デザイン思考に伴う期待値」モデルの基本は変わらないと考えます。
3)デザイン思考と年功型雇用
成果主義で、成果の評価に、社員が上司と相談して、1年間の達成目標を設定しています。
大学では、研究者は、毎年1本以上のレビュー付き論文の執筆が達成目標になっています。
これらは、デザイン思考ではなく、ここには、評価と責任の回避があります。
ジョブ型雇用では、雇用する前に、「デザイン思考に伴う期待値」が議論され、それによって給与が査定されています。
サッカーチームの監督であれば、勝率がいくら以上、大きな大会で、ベストいくつ以内といった数字です。この数字は公開されていませんが、契約時に話し合われているはずです。
総理大臣は、首相になったあとで、政策を検討します。
これは、デザイン思考でなく、ここには、責任は存在しません。
総理大臣のポストは、年功型雇用ではありませんが、与党の人事ルールは、年功型雇用(法度制度)を準用しているため、デザイン思考がなく、責任は存在しません。
自動車メーカーで不正があり、新社長が就任した場合を、デザイン思考で考えれば、新社長は、不正を回避するデザイン思考が出来る人になっているはずです。
しかし、年功型雇用の新社長は、不正を回避するデザインについては、何も語りません。
これは、ジョブ型雇用ではあり得ません。
不正を回避優先すれば、短期的には、売り上げが減少するかもしれません。
これは、選択(優先順位)の問題です。
ジョブ型雇用では、不正を回避するデザイン思考の出来る新社長が1、2年で、成果をあげれば、その時点で、売り上げ中心のデザイン思考に優れた新社長に交替します。
人間でいえば、重病になれば、ともかく、入院して治療に専念します。
お金を稼ぐのは、治療が終ってから考えることです。
問題発生後の最初の新社長に求められる資質は、組織の治療ができることです。
手術をすれば、血がでます。麻酔が切れてくれば、痛みもあります。
年功型雇用は、痛みを避けて、病気の治療を放棄しています。
世界の経済と学問(知の世界)は、データサイエンスによって、情報化社会にレジームシフトしています。
ジョブ型雇用で、デザイン思考をしている責任のあるのある社会では、情報化社会にレジームシフトが進んでいます。
法度精度の年功型雇用を維持して、責任を問わない日本社会では、情報化社会へのレジームシフトは停止しています。
世界の中で、日本社会だけが、時計が止まっているような世界です。
ジム・ロジャーズ氏は、「捨てられる日本」(2023)の中で、アベノミクスは、事前に予想された通り失敗であったと評価しています。
野口悠紀雄氏は、アベノミクスは、帰納法で、結果を分析すれば失敗であったと評価しています。
この2つの評価は似ていますが、野口悠紀雄氏の方法では、仮に第2アベノミクスが出てきた場合でも、結果が出るまでは、評価ができません。
ジム・ロジャーズ氏は、アベノミクスは、計画段階で、事前に評価が可能であり、その方法を使って、結果をみれば、予想された通り失敗であったと評価しています。
つまり、ジム・ロジャーズ氏の方法は、デザイン思考になっています。
英語版のウィキペディア「アベノミクス」では、特に、「アベノミクスの評価がなされていない」と書かれています。
これは、日本では、政策責任が存在しないことを指しています。
太平洋戦争の意思決定では、「失敗の本質;日本軍の組織論的研究」が良く知られています。
デザイン思考をするジム・ロジャーズ氏は、太平洋戦争の開戦、つまり、真珠湾攻撃の意思決定の責任分析がなされていないことを問題にしています。
2国間双方に経済的損失を与える開戦は、経済学でみれば、政策が経済合理性を逸脱したプロセスになります。そこで、どうして、経済合理性から逸脱する政策決定がなされたのか、その責任は、どこにあるのかが、課題になります。
経済問題を抱えていなければ、戦争を行なうメリットは少ないです。戦争を行なえば、経済は破壊されます。
ウクライナと同じように、仮に、台湾戦争が起こるとしたら、政策が経済合理性を逸脱したプロセスになった場合です。
中国の経済が毛沢東時代に逆戻りしない限り、中国が戦争をしかけることはあり得ません。
台湾戦争は、台湾、中国、日本にとって経済的にマイナスですが、ウクライナの場合と同じように、アメリカの軍事産業にとってはプラスになります。
まとめます。
デザイン思考のない年功型雇用には、責任がありません。
真珠湾攻撃の意思決定の責任分析はなされていません。
責任のない日本社会では、太平洋戦争のように、戦争が再発するリスクが取り除かれていません。
シビリアンコントロールで、戦争が回避できるというエビデンスはありません。