政治倫理審査会をめぐって

政治倫理審査会が開かれました。

 

衆議院の説明は以下です。

 

政治倫理審査会は、政治倫理の確立のため、議員が「行為規範」その他の法令の規定に著しく違反し、政治的道義的に責任があると認めるかどうかについて審査し、適当な勧告を行う機関です。

 本審査会は、国会法に基づき、(ロッキード事件を機に、筆者注)第104回国会の1985年12月から設置されています。



国会で議員らに事情を聞く仕組みは「参考人招致」や「証人喚問」もあります。政倫審は証人喚問とは異なり、虚偽の説明をした場合に罰する偽証罪に問うことができず、出席を拒否することもできます。

 

政治倫理審査会は、ロッキード事件を機に作られていますから、その目的はお祓いをすることにあります。

 

「偽の説明をした場合に罰する偽証罪に問う」ことは法律の問題です。

 

しかし、「偽の説明をした場合に」は、法的な問題がなくとも、倫理的な問題が生じます。

 

一般には、倫理的な責任は、法的な責任よりも範囲が広いです。

 

ところが、政治倫理審査会では、倫理と法律の、この関係が逆転しています。

 

つまり、政治倫理審査会を違和感なく開くことができる国会議員には、倫理がないことになります。

 

先進国で、これほど有権者を無視した規定を作っている国はないと思います。

 

一神教の世界では、仮に、「偽の説明をした場合に」無罪になっても、神様がお見通しであると考えます。そこに倫理が、生じます。

 

政治倫理審査会では、虚偽の説明をした場合に対する制約はゼロです。

 

したがって、ここには、倫理がありませんので、「ウソつき大会」とでも呼ぶべきです。

 

政治倫理審査会に限りませんが、国会は、エビデンスを無視した建前の議論に終始しています。

 

霞が関文学と呼ばれる表現は、建前だけで、中身はありません。

 

主権は国民(有権者)にあります。

 

従って、政治家は、建前ではなく、本音を説明する責任があります。

 

建前を許容すれば、利権が永久に温存されます。

 

そこには、民主主義はありません。