(見落されがちなクリティカルシンキングは重要です。)
1)多様性
筆者は、多様性とディベートに、価値を感じませんが、どうして、多様性とディベートが必要な根拠を小宮信夫氏が説明していますので、ここから、多様性の検討を始めます。
小宮信夫氏は、多様性の必要性について以下のように主張しています。(筆者要約)
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太平洋戦争を敗戦で終えた日本は、復興を目指し、先進国へのキャッチアップに取り組んだ。正確な時間、几帳面な生産管理、律儀な営業活動など、「画一性」が得意な分野が社会を主導し、日本はあっという間に欧米諸国に追いつく。
キャッチアップが完了すると、見本がなくなり、自らの力で、新規分野を開拓していかなければならない。「画一性」から、日本は「多様性」の推進に舵を切った。
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<< 引用文献
日本がずっと放置してきた「宿題」...「文化」が変われば「防犯対策」も変わる 2024/0/12 Newsweek 小宮信夫
https://www.newsweekjapan.jp/komiya/2024/01/post-20.php
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他にも「多様性」が必要な根拠はありそうですが、今回は、小宮信夫氏の説明をフォローします。
なお、
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「画一性」から、日本は「多様性」の推進に舵を切った。
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という部分には、ドキュメンタリズムを感じます。
「ゆとり教育」のときに、授業時間とカリキュラムの内容を減らしました。
そこには、「ゆとり」というドキュメンタリズムがあります。
カリキュラムを変えることによって、「ゆとり」がうまれ、創造性が高まるのであれば、「ゆとり」は、カリキュラム改訂の原因ではなく、結果です。
「ゆとり教育」を因果モデルで考えれば、「ゆとり」は、目的達成のための評価関数になります。
「授業時間とカリキュラムの内容を減らす」ことが、評価関数の「ゆとり」を増加させる有効な手段であることは、検証されていない仮説にすぎません。
しかし、「ゆとり教育」は、因果モデルではなく、非科学的なお祓いの悪霊モデルでした。
ラベルを「ゆとり」に貼り得て、審議会でお祓いをすること自体に目的があったと解釈できます。
筆者には、「多様性の推進」も、悪霊モデルに見えます。
因果モデルで考えれば、「新規分野の開拓」の評価関数があれば、手段に制限はありません。
「多様性の推進」が、「新規分野の開拓」の評価関数のスコアを上げるという主張も、検証されていない仮説にすぎません。
これが、筆者が、「多様性の推進」を評価しない理由です。
この問題は、脇に置いて先に進みます。
2)ディベート
小宮信夫氏の説明の要約を続けます。
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日本は「多様性」の推進に舵を切り、その切り札としてディベートに注目した。NHK教育テレビの上級英語講座を務めていた松本道弘(後のホノルル大学教授)氏が、ディベート教育の伝道師として輝いていた。
ディベートを導入した学校や企業も多かったが、そこでは、議論ではなく、人格攻撃が生まれ、ディベートの普及を断念せざるを得なかった。同調圧力の強い日本では、ディベートを導入すると、自分の「ものさし」を押し付けようとするため、人格攻撃が始まってしまう。科学よりも精神論、論理よりも感情がディベートを支配するのだ。
過去のディベート導入の失敗の原因は、日本の「文化」に洗脳されたためだ。
今後も、「多様性」推進の切り札になるのはディベートだ。
(小宮信夫氏が参加している)Polimill株式会社が提供するSNS「Surfvote」では、キャリーオーバー効果を排除するため、課題(イシュー)に対し、「中立的な」「誘導しない」賛成理由と反対理由を3つずつ考え出す。(小宮信夫氏は)これは大変だと感じる。
本来、ディベートでは、参加者が、賛成側と反対側のどちらに入るかをランダムで決める。要するに、自分の意見など、どうでもいいのだ。自分の「ものさし」を捨てることこそ、ディベートの目的なのである。今の日本で、もてはやされている「論破」とは真逆の発想だ。「論破」は、自分の「ものさし」を相手に持たせようとするもの。しかし、それは「画一性」と同義である。「多様性」は、一人一人の「ものさし」が違うことを認めることだ。
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論点は2つあります。
第1は、多様性が目的になっている点です。
「自分の『ものさし』を捨てることこそ、ディベートの目的」であれば、文化的多様主義になってしまいます。
科学は、文化的多様主義ではありません。
科学のリテラシーがあれば、ディベートも「論破」は、馬鹿馬鹿しくて、取り上げるに値しません。
ディベートや「論破」するまでもなく、仮説検証のプロセスは、既に体系化されています。
例えば、消費税を上げるべきか、否かという議論はナンセンスです。
消費税率x(0<x<100)%を変化させた場合に、予測される経済成長率を最大化するxを求めればよいだけです。
賛成と反対の2分法は、バイバリーバイアスが大きすぎ、使うメリットはありません。
もちろん、温暖化予測が、モデルによって幅があるように、経済成長予測も、モデルによる差があります。
だからといって、将来、地球が温暖化するかしないかをディベートする人はいません。
温暖化を批判する場合には、モデルの信頼性や、パラメータのとり方にバイアスがあるという議論をします。
ディベートの目的が、「自分の『ものさし』を捨てること」であれば、ディベートは何も生み出しません。
もちろん、ディベートには、認知バイアスを取り除くという効果があります。
しかし、認知バイアスを取り除く手段は、ディベートだけではありません。
座禅のようにひとりでもできる、よりエネルギー消費の少ないエコな方法もあります。
第2に、「課題に対し、賛成理由と反対理由を3つずつ考え出すことが大変」という点は、クリティカルシンキングの問題です。
科学の進歩は、仮説に対するクリティカルシンキングによって起こされます。
ニュートン力学に対するクリティカルシンキングがなければ、相対性理論は生まれません。
「同調圧力の強い日本では、ディベートを導入すると、自分の『ものさし』を押し付けようとする」という説明は、クリティカルシンキングができないことを意味しています。
つまり、科学のリテラシーの欠如と科学教育の失敗に原因があると思われます。
3)脇田晴子氏のこと
小宮信夫氏は、1970年代に導入に失敗したディベートを再度導入すべきであると主張します。その理由として、脇田晴子氏の文化の機能を引用しています。
ウィキペディアによると脇田晴子氏(1934年3月9日 - 2016年9月27日)は、日本の歴史学者です。脇田氏は、2005年に文化功労者を、2010年に文化勲章を受章しています。
中世史を専攻し、商工業論、都市論等から、女性史、芸能史に及びます。網野善彦氏の中世非農業民が天皇直属であったという説に反対し、遊女の地位をめぐって論争しました。また外国の日本学者との共同作業も多くあります。
小宮信夫氏は、出典を書いていませんが、小宮信夫氏の引用と同じ文章がある脇田晴子氏の「文化の政治性」を引用します。
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歴史をやるようになって つくづく思いますのは、文化や思想が人の心を左右でき、操作できるということであります。だから。恐ろしいものだということです。もうあの戦争中のように刷り込まれたくないのです。自分の心に刷り込まれていって、自分でもそれがわからないというのは、やはりそれは文化のもう一つの効果だと思う訳です。要するに、人間が思想操作の中で戦争の時のように自ら死地に飛び込んでいく、私は文化とか思想のせいであろうと考えております。
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<< 引用文献
文化の政治性 大谷學報 第84巻第3・4合併号 脇田晴子
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脇田晴子氏は、以前に書いた論文を解説した「天皇と中世文化」を2003年に出版しています。
1980年代以前、戦国時代というのは、室町幕府が衰退した間隙を縫って、各地の戦国武将が実力で覇権を争い、天皇や朝廷はすっかり零落したと見なされていました。
しかし、この解釈では、天皇制延命の理由が説明できません。
1980年代以降、脇田晴子氏は、中世後期には、天皇の権威は増加していたという仮説を提示します。脇田晴子氏は、天皇制のソフトパワーと戦国武将のハードパワーが共存したと考えています。
宗教では、ハードパワーよりも、ソフトパワーが優先しますが、膨大な寄進をあつめて、権力を実現します。
最近のカルト宗教の集金能力も大きいです。
科学の本体は仮説(アルゴリズム)であり、ソフトパワーです。最近のデータサイエンスでは、科学の本体が、仮説(アルゴリズム)と情報(データ)に変化しています。
進化論と天地創造が相容れないように、科学と宗教の間には、ソフトパワーの間の対立があります。
小宮信夫氏は、次のように言っています。
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終戦から20年以上経った筆者が小学生のとき、松方弘樹が歌う「同期の桜」が大ヒットした。その歌詞は特攻隊を賛美するものだ。前出の脇田教授は、「自分の心に刷り込まれていって、自分でもそれがわからないというのは、やはりそれは文化のもう―つの効果だと思うわけです」と指摘しているが、筆者も「文化」に飲み込まれていたのかもしれない。
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実は、小宮信夫氏は、脇田晴子氏の発言の「人間が思想操作の中で戦争の時のように自ら死地に飛び込んでいく、私は文化とか思想のせいであろう」の部分は引用していません。
脇田晴子氏の発言に従えば、「『同期の桜』の大ヒット」は、「戦争の時のように自ら死地に飛び込んでいく思想操作」の一部になります。
フランス文学者の水林章氏は、日本には、封建制度の法度制度が残っていて、日本語が、法度制度を温存させているといいます。
<< 引用文献
水林章著『日本語に生まれること、フランス語を生きること――来たるべき市民の社会とその言語をめぐって』(春秋社)
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水林章氏のコンテキストで考えれば、「『同期の桜』の大ヒット」は、日本語による法度制度の温存であり、人権思想の無視の継続になります。
「画一性」あるいは、同調圧力の原因は、脇田晴子氏の天皇制の文化、あるいは、水林章氏の日本の封建制度温存機能にあるように見えます。
小宮信夫氏は、論考を、最後に次の文で記事をまとめています。
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「失われた30年」については、処方箋が様々な専門家から提案されている。しかし、小手先の対策では、どうにもならないところまで日本は来ている気がする。高度経済成長を支えた「画一性」のように、文化が主導するしかないのではないか。
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脇田晴子氏の文献を検索すると、脇田晴子氏を引用した文献ばかりがヒットします。
これは、脇田晴子氏の論文や著作が、権威として引用されていることを意味します。
小宮信夫氏も、脇田晴子氏の発言を権威として引用しています。
脇田晴子氏の論文や著作は、訓詁学の対象になっています。
脇田晴子氏の研究は、訓詁学が中心の日本の人文科学研究では異端です。
脇田晴子氏の研究は、クリティカルシンキングから始まり、仮説やデータの信頼性を疑う、自然科学と同じ発想です。
脇田晴子氏の研究には、外国の日本学者との共同作業も多くありますが、筆者は、それが可能になった原因には、脇田晴子氏のクリティカルシンキングがあると考えます。
脇田晴子氏は、研究を始めた頃について、次のように言っています。
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当時はマルキシズム全盛の時代で、農業は生産そのものだけれど、商業は流通だけだからつまらんという考えがはびこってました。「商品経済が入ってその農村がどう変わるか、ということしかやったらあかん」とまで言われたものです。それを押しきって商業をやったんですが、古い時代からの町の商売の調査も必要だと感じて、大和そして京都に研究対象を拡げました。
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<< 引用文献
近江中世の「むら」を探る うみんど 24号 2002年6月26日 琵琶湖博物
https://www.biwahaku.jp/publication/umindo/
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これは、従来の学説に対するクリティカルシンキングです。
脇田晴子氏が、空気を読んで、同調していたら、商業の研究はしなかったことになります。この点で、脇田晴子氏は、海外ではともかく、日本では、異端です。
脇田晴子氏は、次のようにも言っています。
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神社やお寺の由来書には、聖武天皇や行基に始まっているものがたくさんありますが、ほとんどが中世の作りごとです。安居院や三條西實隆などが作っていますが、實隆の日記を見れば、頼まれてどのようにでっち上げたか、はっきりと書いています。お能だって、平安時代を素材としたものが、室町時代的に作りかえられているのです。
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これは、データの信頼性を疑うクリティカルシンキングです。
クリティカルシンキングは、訓詁学とは対立するので、明らかに異端です。
このように、脇田晴子氏は、クリティカルシンキングをすることで、「自分の心に刷り込まれていって、自分でもそれがわからないという」思想操作の問題を回避しています。
脇田晴子氏は、2005年に文化功労者を、2010年に文化勲章を受章しました。それは、喜ばしいことではありますが、水林章氏のコンテキストで考えれば、脇田晴子氏も、法度制度の中に組み込まれてしまったように見えます。
脇田晴子氏は、「文化とか思想のせいで、人間が思想操作の中で戦争の時のように自ら死地に飛び込んでいく」思想操作を避けたかったのだろうと思います。
しかし、脇田晴子氏の論文や著作は、訓詁学の対象になっていて、引用者には、クリティカルシンキングはなく、脇田晴子氏の論文や著作は、思想操作の一部になっています。
水林章氏は、思想操作の回避には、日本語を止める必要があると考えて、フランス語で書いています。
筆者は、科学教育の推進と年功型雇用の解消で、思想操作が回避できると考えます。