黄金のガチョウの死(3)金融機関の投資能力

(3)金融機関の投資能力

 

3-1)高度成長期の金融機関の投資能力

 

日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期は、1954年12月(日本民主党の第1次鳩山一郎内閣)から1973年(昭和48年)11月(自民党の第2次田中角栄内閣)までの約19年間でした。

 

高度成長期の例に、ホンダを取り上げます。

 

ホンダの経営危機は、1955年前後と1965年前後の2回あります。 1度目は二輪車が絶不調だった時で、2度目はホンダが乗用車に進出して量産工場を立ち上げた時です。

 

1948年に、本田技研工業株式会社が浜松に設立されます。資本金100万、従業員20人でスタートし、原動機付き自転車を考案して二輪車の研究を始めます。

 

当時金融取引をしていた静岡銀行浜松支店に、本田宗一郎氏は、本田技研工業の東京進出の資金的援助を期待して訪れます。応対に出た静岡銀行の融資審査部長へ本田宗一郎氏が東京進出に多大な夢や期待をプレゼンしたところ、「東京進出なんて、貴方、会社を潰す気か?」と1つ1つ数字を挙げながら、当時新興の中小企業だった本田技研工業がいかに中途半端な会社かを説明されます。これに激高した本田宗一郎氏は、この出来事が切っ掛けで静岡銀行との取引を解消します。

 

ホンダは、1950年代前半、資本金600万円の時代に総額4億円の外国製工作機械を購入します。しかし1955年には、経済不況により二輪車の売れ行きが低迷して、100社を超えるオートバイメーカーが撤退します。ホンダも、減収減益に転落します。ダイヤモンド誌に「高い金を出して機械を買っても使い切れていない」と過剰な設備投資を批判されます。ホンダの借入金の返済計画(短期借入金が大半)の履行が難しくなり債務超過の危機に陥ります。自己資本比率は10.7%に低下しました。

 

このため、ホンダの工場および設備を、競合の東京発動機に売却する案も浮上します。東京発動機は当時国内2位の二輪車メーカーで、業界の有力企業でした。

 

この状況に対して、融資銀行である三菱銀行・京橋支店はホンダの融資継続を決定します。借入金返済を免れたことによりホンダは倒産危機を回避しました。



1948年の静岡銀行浜松支店、1955年の三菱銀行京橋支店は、企業のリスクを評価しながら、融資を進めていました。1950年代の最盛期には、浜松には、200社を超えるオートバイメーカーがあったと言われていますので、オートバイメーカーへの融資は、高いリスクを伴うものでした。

 

3-2)安定成長期の金融機関の投資能力

 

1973年10月の第四次中東戦争をきっかけに原油価格が上昇し、日本はオイルショック(第1次オイルショック)に陥り、高度成長期は終ります。

 

高度成長期の末期の、1967年には公害対策基本法が制定され、1971年には環境庁が発足しています。1972年には、日本列島改造論を掲げて、田中内閣が、地方への公共投資を増やし、その結果、都市への人口移動が減速していきます。

 

日本列島改造論以前に、1962年に制定された全国総合開発計画や新産業都市建設促進法は、地方への工場移転を目指していましたが、地方に工場移転する経済合理性がない上に、公害問題を発生する工場誘致に反対する住民や革新首長が台頭していたこともあり、工場移転は進みませんでした。

 

高度成長期には、都市への人口移動は、農業から、工業への産業間人口移動に対応し、大きな労働生産性の変化を生み出します。

 

高度成長期の終了の原因は、第1次オイルショックではなく、産業間人口移動の減少であったと思われます。

 

田中内閣が、都市の公共投資を減少させた結果、1940年代末から1973年までの時期のように、都市の工業用地や宅地が量的に大きく拡大しなくなります。その結果、1974年から1991年まで、都市では、地価の上昇が続きます。

 

安定成長期には、地価が上昇したと整理されることが多いですが、地価の問題はより複雑です。

 

金融機関は、ホンダのような製造業に融資することもできますし、不動産開発をしている会社(土地)に融資することもできます。

 

どちらに融資するかは、期待される利回りとリスクで決まります。

 

高度成長期には、土地に融資するよりも、製造業に融資する方が、高いリターンを見込めました。製造業の一部が倒産するリスクを勘案しても、製造業への融資が有利でした。

 

1973年までの金融マンは、企業の成長とリスクの評価ができました。

 

続く、1974年から1991年は、安定成長期と呼ばれます。

 

安定成長期になると、期待リスクの低い企業に融資するよりも、値上がり期待のある土地に融資する方が有利な場合が出てきました。その結果、資金は有望な土地に向い、地価の上昇が始まりました。

 

土地の価格上昇傾向が明確になると、金融機関は、ベンチャー企業には、融資しなくなり、ベンチャー企業が出来なくなります。

 

野口悠紀雄氏は、年功型賃金体系は、戦時経済でできた制度であるといいます。

 

筆者は、年功型賃金に、天下りと政治献金と利益誘導型の投票を組み合わせた護送船団方式は、田中内閣の時に完成したと考えています。

 

1985年のプラザ合意で、変動為替レートがとられ、急速な円高が起きます。低金利政策が継続されることで不動産の過剰流動性がおき、不動産バブルが引き起こされます。

 

野口悠紀雄氏は、バブルの原因は、1985年のプラザ合意以降の過剰な資金を金融機関が運用出来なかった点に由来すると言います。金融機関が、土地に投資するのではなく、リターンの期待できる企業を見極めて、有望な企業に投資していれば、バブルにならなかったはずだが、そのスキルの習得は、レベルが高いので、安易に土地投資に流れたことがバブルの原因であると分析しています。

 

しかし、プラザ合意以降ほどの量ではありませんが、1974年には、企業融資と土地への投資の競合問題の萌芽が見られます。つまり、バブルが発生して、日本経済が失われた30年になった分岐点は、一般に言われている1991年、野口悠紀雄氏の1985年だけでなく、高度経済成長の終った1973年にまで、遡ることが可能です。

 

日本列島改造は、ソ連の5か年計画と同じように、社会主義政策で、市場経済に介入しました。介入が過度になると、働いて市場で利益を得るよりも、政治的な口利きの方が、所得を増やし易くなります。

 

こうなると技術革新が止まってしまい、製造業に融資するよりも、土地に融資する方が有利になります。その結果、労働生産性が上がらなくなります。

 

このプロセスはフィードフォワードループになっていて、一旦技術革新が止まると、資金が益々、土地に流れます。

 

統計データでは、日本の労働生産性の伸びは、1991年頃に停止していると言われます。

 

しかし、「わが国の生産性動向」の前年比の増改率でみると1970年から1980年に生産性の伸びは急激に落ちています。

つまり、安定成長期に入って、企業の高いリターンが、徐々に見込めなくなって、資金が、土地に流れ始めたと考えられます。

 

これから、変曲点は、1991年頃にあるという解釈が一般的ですが、安定成長期には、労働生産性の伸びは、高度経済成長よりも緩やかなので、安定成長期を成長の減速期と見ることは可能です。

 

また、PCやインターネットが、普及したのは、1990年代なので、生産性の伸びの停止は、DXに乗り遅れたことと解釈することも可能です。

 

1992年以降は、地価が下落していますので、失われた30年は、バブルの後遺症であるという解釈が一般的ですが、それ以外の解釈も可能です。

 

1977年には、Apple IIが出ています。1981年には、IBM-PCが出ています。

 

パソコンがビジネスに使えるようになったのは、IBM-PC以降です。

 

パソコンが出てきて、半導体は量産品になります。

 

1968年に創業したインテルは、1978年に、16ビットのCPUである8086を販売しています。

 

1975年には、マイクロソフトが創業しています。

 

つまり、安定成長期には、アメリカでは、IT関連企業が創業しています。

 

かって、日本の半導体には、世界的なシェアがあったので、日本には、技術があったと思われています。

 

しかし、この評価は話半分だと思います。

 

日本は、インテルのCPU のような複雑な半導体は作れませんでした。

 

1980年代に、日本の技術レベルは高いと評価されましたが、それは、QCを中心とした、不良品率が少ないという点であって、CPUのようなオリジナル製品は少なかったです。

 

日本は、欧米以外に、アジアで初めて工業化に成功したため、アジアの国の中では、圧倒的に、高い技術レベルでした。しかし、これは、アジアの国の中ではという制約付きです。欧米の企業も含めれば、人並の技術レベルにすぎません。

 

安価な労働力と安い円に支えられて、安定成長期の日本企業の輸出競争力は高かったです。

 

しかし、日本企業は、オリジナルな製品を作れないという認識がありました。

 

ホンダは、世界的なモータースポーツにチャレンジして、世界レベルでの技術評価を得ましたが、ホンダのような企業は例外でした。

 

1980年代に、日本企業は、半導体をつくり、パソコンを作りました。

 

しかし、それは、アメリカのようなベンチャーによってなされたのではなく、大企業が行いました。大企業が半導体とパソコンを作ったということは、それらは、品質のよい模倣品(前例主義)でした。それは、大企業は、リスクをとれないので、自明です。

 

そのことは、官僚も自覚していて、ゆとり教育を進めて、品質のよい模倣品から脱却する必要性が主張されました。しかし、官僚は、間違った推論である前例主義を崩すことはありませんでした。



2023年でも、日本ではベンチャーが育たないといっています。しかし、日本のベンチャーは、50年前の安定成長期にはなくなっています。その結果、金融機関の投資能力は低下しています。

 

野口悠紀雄氏は、1985年頃に、金融機関の投資能力が高ければ、バブルにならなかったと主張しています。

 

1985年頃の日本の金融機関の投資能力は、高度成長期に比べれば、明らかに低下してました。

 

しかし、その背景には、日本列島改造を起点とする護送船団方式の強化という社会主義政策がありました。

 

仮に、1985年頃の日本の金融機関の投資能力が、より高かったとしても、国内には、融資できるようなベンチャー企業があったとは思われません。

 

1990年代に入ると、金融工学が発達して、金融機関の投資能力のレベルがあがります。また、株式市場も国際化がすすみ、金融機関は、海外に投資するようになります。金融機関の投資能力は、このレベルと、それ以前は、分けて考える必要があります。

 

野口悠紀雄氏は、1985年頃に、金融機関の投資能力が高ければ、バブルにならなかったと主張していますが、その場合の融資先が、海外の企業であれば、その主張は正しいと思われます。

 

バブル崩壊前には、日本企業は、だぶついた資金で、アメリカの不動産や企業を買収しましたが、後で、それらは、悉く、赤字になって、手放すことになります。

 

安定成長期には、金融機関の投資能力は次第に低下していったと評価できます。

 

高度経済成長期が終ると、日本では、ホンダのようなベンチャー企業が、出なくなります。

 

護送船団方式は、既存の大企業の利権を守る代りに、官僚が天下りするシステムです。

 

つまり、護送船団方式が完成すれば、産業構造の転換は止まり、生産性の向上は減速します。大企業の利権を侵すベンチャーは潰されます。

 

日本が、先進国として世界から認められたのは「第1回先進国首脳会議」(1975年)のメンバーとして呼んでもらった時からと言われています。

 

これは、安定成長期の入り口にあたります。

 

1974年から1991年の安定成長期の日本経済は、健全であったという評価が一般的ですが、金融機関の投資能力は次第に低下しています。これは、経済の健全性が失われるプロセスです。

 

1974年から1991年の安定成長期の日本経済は、その前の高度経済成長期の慣性で、生産性の増加が減速していく過程でした。

 

「賦課方式」の公的年金制度、新幹線と高速道路網の拡大など、2023年の現在の日本は、安定成長期の大判振る舞いのツケを払っている気がします。

 

国民皆保険・皆年金を中核とする日本の社会保障制度は 高度経済成長を背景に拡充を続け、1973年は「福祉元年」といわれました。つまり、年金制度は、高度経済成長を前提にしていました。しかし、日本列島改造が、市場経済に介入して、高度経済成長を破壊して、安定成長期に移行してしまいます。

 

加谷 珪一氏は、「賦課方式」を「積立方式」に、切り替える場合、移行期間が40年と仮定しても、毎年15兆円の負担増になると試算しています。これは、逆にいえば、1973年時点で、「賦課方式」を「積立方式」への切り替えがスタートしていなければならなかったことを意味しています。高度経済成長が止まったことがわかった時点で、年金財源の切り替えを始めるべきでした。

 

こうした点を考えれば、安定成長期は、日本経済が緩やかに成長した時期ではなく、目先の利益を優先して、問題を先送りし、政府の過剰な介入によって、市場経済を破壊する社会主義政策を確立して、現在の問題のルーツを作り出した時期に思われます。

 

投資能力のある金融機関というガチョウは、安定成長期には、いなくなったように見えます。




引用文献

 

今より年金の受給金額が少なくなる…?「積立方式」移行で起こるヤバいリスク 2023/10/25 現代ビジネス 加谷 珪一

https://gendai.media/articles/-/118154

 

わが国の生産性動向  2022 年 3 月 日本銀行ワーキングペーパー 八木智之 古川角歩 中島上智

https://www.boj.or.jp/research/wps_rev/wps_2022/data/wp22j03.pdf