7)正しい推論と間違った推論
今回は、推論の正しさを論じます。
7-1)冲中重雄教授の最終講義
冲中重雄教授は、1963年の東京大学退官時の最終講義にて、自身の教授在任中の誤診率を14.2%と発表しました。患者はその誤診率の高いのに驚いたが、一般の医師はその低いのに感嘆しました。
これは、大変有名なエピソードですが、データサイエンティストは、この見解に賛成しません。
誤診率14.2%に価値はないと考えます。
誤診率14.2%は、完全情報の世界です。
診断した結果を、その後で、追加情報を得て確認した結果です。
つまり、ここには、完全情報が得られるという前提があります。
1963年に、冲中重雄教授が最終講義をした時には、データサイエンスも、エビデンスベースの医療もありませんでした。
実際に、医師が、診断をする時には、不完全情報下の意思決定になります。
得られる情報が少なければ、誤診率は高くなります。
時間が経過して、得られる情報が増えれば、誤診率下がりますが、治療処置が手遅れになる可能性があります。
病状の変化を見ながら(情報の増加を見ながら)、どの時点で、診断を下すかが最大の問題です。
誤診率14.2%は、定常過程を前提にしています。
コロナウイルスでは、情報を集めて、ワクチンが出来たころになると、対象のウイルスには、変異株ができていました。
これは、非定常過程です。このような場合には、誤診率を計算できません。
コロナウイルスのワクチン接種は、疫学で、集団を対象にしています。
冲中重雄教授の誤診率は、個人の患者を対象にしています。
この点では違いはありますが、「完全情報かつ定常過程」と前提とする場合と、「不完全情報かつ非定常過程」を前提とする場合では話が違ってきます。
ウイルス感染のモデルは、1原因1結果です。
生活習慣病では、原因は複数です。生活習慣病の誤診率は、定義が困難です。
がんの発生確率には、生活習慣が作用することがわかっています。がんは、がん細胞を摘出して、組織検査をすれば、高い確率で、病名診断が確定できますが、PCRや腫瘍マーカーの病名診断の識別率は極めて低くなっています。誤診率は求められるのは、手術した場合に限られます。がん対策では、誤診率よりも、がんの発生リスクをさげる予防に関心が移っています。
つまり、医療の現場では、ある次点で、がんのような問題となる結果が発生するリスクを最少化する対策(原因)が追求されています。
これから、「不完全情報かつ非定常過程」を前提とする場合には、正しい推論は、問題となる結果を排除する対策(原因)のうち、予想される効果が最大になる選択肢を見つける推論になります。
7-2)完全情報と形而上学
推論や意思決定をする時点で、得られる情報は不完全情報です。結果(未来に起こること)はもちろんわかりません。
歴史を後から、トレースする場合に、得られる情報は、完全情報です。
ここで、完全情報とは、全ての情報が入手可能な意味ではなく、時間の経過と共に、情報量が増加しないことをいいます。
歴史でも、新しい資料が発見されて、それまでの歴史が書き換えられることがあります。
とはいえ、現在進行形で、リアルタイムに情報が増加している場合に比べれば、情報の増加量は少ないので、ほぼ完全情報と言えます。
不完全情報下で意思決定すると、悲しくなるほど、打率が下がります。打率85.8%(誤診率14.2%)は夢のまた夢です。3割打者にもなれないと思います。
バッターが打席にたつときにできることは、次の1球をヒットさせる確率を最大化させる工夫だけです。ヒットを狙って、バットをふることは、誰にもできます。しかし、ヒットを狙って、バットをふっても、ヒットにはなりません。
大谷翔平氏が、記録をつくります。マスコミは、記録をもった大谷翔平氏だから、活躍するはずだと煽ります。これは、完全情報の世界です。大谷翔平氏は、ホームランの記録を狙っているのではなく、毎週毎週体調を整えて、次の1球をヒットさせる確率を最大化させる工夫をしているはずです。体調は変化しますので、体調が悪くなったときには、落ち込みを最小限にする工夫をしているはずです。これは、不完全情報の世界です。ホームランの数は、シーズンが終るまでは、誰にもわかりません。
完全情報を前提とする推論は、自動的に形而上学になります。
歴史から学ぶ帰納法の多くは、完全情報を前提としています。
イマヌエル・カントは、1795年に、「永遠平和のために(Zum Ewigen Frieden)一哲学的考察 Ein philosophischer Entwurf)」を表わします。
この本は、副題が示すように形而上学です。
形而上学には、目的や理念を表わす効果があります。
しかし、形而上学は、リアルワールドとは切り離されています。
「永遠平和のために」が直接的に、世界平和を実現する原因になることはありません。
「永遠平和のために」は、データサイエンスではありません。
科学的な推論ではありません。
「永遠平和のために」は科学的には間違った推論になります。これはあくまで科学的かどうかという判断です。
「永遠平和のために」は、科学的な目的を設定できていません。
科学的な目的は、形而上学の目的とは、全く異なります。
科学的な目的とは、因果モデルの結果であって、原因を変化させることで、目標値との偏差が計測可能なものです。
「永遠平和のために」は科学的には間違った推論になるという主張には、反対する人も多いと思います。非常識と言われるかも知れません。
しかし、「永遠平和のために」が、科学的には間違った推論になるという主張は、パースが、「ブリーフの固定化」で展開している内容です。
パースは、プラグマティズムにたどり着く前には、カント哲学を信奉していました。
パースは、「ブリーフの固定化」では、形而上学(カント哲学)を、否定しています。
ただし、パースの否定とは、正しいか、間違っているかの2分法ではありません。
問題を解決する(打率を最大化する)方法として、形而上学(カント哲学)は、科学の方法に、勝てないだろうと予測しているだけです。
これは、形而上学が、リアルワールドと切り離されていることを考えれば、自明に思われます。
データサイエンスで言えば、科学的に正しい推論とは、不完全情報化下で、問題解決の目標値を最大化できる推論になります。
なお、不完全情報化の推論は、情報が追加されるごとに判断が変化します。このような場合には、推論を頻繁にやり直さなければならないので、コンピュータの力を借りるデータサイエンスでなければ、実現が困難です。
7-3)正しい推論と判定の時期
2023年10月11日、政府は、デジタル行財政改革会議の初会合を開きました。
しかし、DXに関する専門家会議は過去にも繰り返されています。
残念ながら、結果を見ると、過去の専門家会議は、成果をあげているとは言えません。
今回のデジタル行財政改革会議が、過去の専門家会議とは異なって著しい成果をあげると期待できる根拠は見つかりません。
間違った推論が行われている可能性が高いです。
どこに問題(間違い)があるのでしょうか。
パースの「ブリーフの固定化法」を思い出してください。
パースは、「ブリーフの固定化法」で、ブリーフを固定化して時点で、その固定化が妥当であるか判断できると主張しています。
つまり、「ブリーフの固定化法」では、不完全情報下での判断が取り上げられています。
日銀は、10年間低金利政策によって、2%のインフレを起こすと主張してきました。
一般には、低金利政策の妥当性は、インフレ率を計測して判断するまでは評価できないと考えられてきました。
この判断は、冲中重雄教授の誤診率と同じような完全情報下の判断です。
完全上昇下の判断を前提にすると結果が出るまでは、仮説命題(政策)の妥当性は議論できないことになります。
これは、間違った推論です。
これは、医師の投薬でいえば、間違った薬を処方されても、極端に症状が悪化するまでは、結論が出せない(投薬を切り替えられない)という主張で、明らかに問題があります。
患者としては、投薬の効果が期待したほどではなかった時点で、誤診の可能性を検討してもらわないと困ります。
湯之上隆氏は、日本と欧米の半導体製造について、次のようにいっています。
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日本人と欧米人の発想と行動様式の違い
日本人と欧米人の装置開発などの差を論じてきた。ここには、日本人と欧米人の発想や行動様式の違いが大きく関係していると考えられる。
まず、欧米人は、理論が先にある。そして、開発初期に徹底的に議論を尽くして方針を一本化する。その上で、規格、ルール、ストーリー、ロジックをつくる。逆の言い方をすると、欧米人の技術者は手先が不器用で実験が下手である(というより技術者は一切実験をせず、テクニシャンと呼ばれる職種に任せる文化がある)。
一方、日本人の技術者は、優れた感覚と経験を基に、直感的に手を動かして実験を行う。また、決められた枠組みの中で最適化することを非常に得意としている。しかし、規格やルールを作るのは苦手である。
このように、日本人と欧米人では、発想や行動様式がまったく異なる。それが、装置などのシェアの高低につながっていると推測できる。
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お気づきと思いますが、「開発初期に徹底的に議論を尽くして方針を一本化する」は、開発着手前の不完全情報化の意思決定です。これは、パースの「ブリーフの固定化法」の科学の方法に相当します。
これが、正しい推論です。
パースは、「ブリーフの固定化法」で、結果が出るまで、どの「ブリーフの固定化法」がよいのか判断できないという主張を否定しています。
パースに言わせれば、日本の半導体エンジニアは、科学の方法が理解できていないことになります。
日本の半導体エンジニアは、間違った推論をしていることになります。
ゆとり教育は、10年以上たって、失敗であったという評価をうけています。
しかし、パースは、ゆとり教育の失敗の原因は、間違った推論にあり、「ブリーフの固定化法」の科学の方法を使わなかった時点で、明らかであったというでしょう。
科学的に、政策の「初期に徹底的に議論を尽くして方針を一本化する」ことによって、政策の妥当性の判断は、ブリーフが固定化された時点で出来ます。これは、100%成功する方法ではありませんが、不完全情報下で、成功確率を最大化させる方法です。
これが、正しい推論です。
結論が出るまで、判断できないと考えるのは、完全情報下の帰納法のバイアスであって、間違った推論であって、科学の方法ではありません。
7-4)帰納法とアブダプション
湯之上隆氏の議論の分析を追加します。
「開発初期に徹底的に議論を尽くして方針を一本化する」は、帰納法ではなく、アブダプションです。
半導体の製造販売という結果を想定して、それに、合わせて、原因(開発方針)そ推定する推論です。
湯之上隆氏は、日本人には、欧米人の発想と行動様式はとれないので、現在の日本の半導体が強い分野をより伸ばすべきであると主張します。
これは、帰納法による推論です。
帰納法による推論は、Casual Universeの変化が見込める場合には、破綻します。
半導体の製造販売のエコシステムが変化する場合には、帰納法による推論は破綻します。
TSMCが発展した原因は、エコシステムが変化を予測して、それに、合わせたビジネスモデルを構築したからです。この推論は、帰納法ではなく、アブダプションです。
出典が多すぎるので、ここでは、引用しませんが、湯之上隆氏は、日本の半導体工場への補助金によって、日本の半導体産業が復活する可能性はないと主張しています。
半導体の工場に補助金を出す論理(推論)は、前例主義の帰納法です。
つまり、半導体の工場に補助金を出す政府も、日本の半導体が強い分野をより伸ばすべきと主張する湯之上隆氏の、推論は帰納法です。
これは、どちらの推論もエコシステムの変化には耐えられないことを意味します。
パースは、明示的に帰納法がだめとはいっていませんが、アブダプションが唯一の使える推論であるといっています。間接的に見れば、パースは、帰納法はダメで、アブダプションを使えと言っていることになります。
アブダプションを帰納法、演繹法に、つぐ第3の推論であるという人もいますが、筆者はこの解釈は適切でないと考えます。
アブダプションは、理論的には、極めて不備な、体系化されていない推論です。体系化された帰納法と演繹法をいくら修正しても、アブダプションを導き出すことはできません。
筆者は、最近、パースは、アブダプションを第3の推論として考案したのではなく、パースは、アブダプションを発見したのではないかと考えています。
アブダプションの理論的背景は不明ですが、実際に使ってみると、因果モデルを作る上で、これ以上有効な推論がないことに気付きます。
まとめると、因果モデルを前提とするのであれば、次の関係が成り立ちます。
なお、繰り返しますが、ここで言う「正しい」と「間違った」は、2分類ではなく、問題を解決できるの確率の違いを意味しています。
正しい推論:アブダプション
間違った推論:帰納法
これは、極端に思われるかも知れません。
ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、ハマス奇襲の原因は、ネタニヤフ政権のポピュリズムにあると主張しています。
ここでは、ハマス奇襲(結果)に対する原因が探索され、ハラリ氏は、可能性の最も高い原因は、ネタニヤフ政権のポピュリズムと考えています。
この推論は、アブダプションになっています。
引用文献
半導体製造装置と材料、日本のシェアはなぜ高い? ~「日本人特有の気質」が生み出す競争力 2021/12/14 ET times 湯之上隆, 亀和田忠司
https://eetimes.itmedia.co.jp/ee/articles/2112/14/news034.html
TSMCが世界1位になれた理由、開花するまでの「30年にわたる孤独な戦い」の全貌 2023/04/21 ビジネスIT 加谷珪一
https://www.sbbit.jp/article/cont1/112167