リベラルアーツが有害である証明(0ー2)

0-4)何が正しいのか

 

法則のデザインの効果:

 

科学の仮説の正しさは、論理的には、保証されていません。

 

物理学の法則は、今のところ破綻していませんが、そのことは、将来も法則が成り立つことを保証しません。

 

物理学の法則をデザインできる神様がいれば、今年いっぱいは、従来の法則Aをつかうことにして、来年からは、新しい法則Bに切り替えるように、世界をデザインすることは可能です。

 

物理学の法則が来年以降もなりたつためには、神様が気まぐれをおこさない必要があります。

 

物理学の法則は実験で検証されています。

 

実験で法則が検証できるためには、実験で得られたデータが、同じ法則にしたがって、生成されている必要があります。

 

物理学の法則を切り替える気まぐれな神様の存在を否定する論理はありません。しかし、物理学以外の世界では、法則を頻繁に切り替える気まぐれな神様は、大勢います。ですから、物理学の法則が外れる心配をする優先順位は低いです。

 

仮に、来年以降、物理学の法則Aが成り立たなくなった場合、法則Aは間違っていたのでしょうか。

 

法則Aが正しいとは何を意味しているのでしょうか。

 

法則Aは最初に、仮説として提示されます。

 

この段階では、法則Aが正しいか、間違いかはわかりません。

 

最初に、仮説は実験B1によって検証します。

 

実験B1では、データを取得して、このデータが仮説に適合しているかを点検します。

 

結果が、OKであれば、実験B1で取得されたデータに関しては、仮説が正しいと結論づけられます。

 

次に、仮説は実験B2によって検証します。

 

実験B2でも、データを取得して、このデータが仮説に適合しているかを点検します。

 

結果が、OKでなければ、実験B2で取得されたデータに関しては、仮説が正しいとは言えません。

 

さて、問題は、ここからです。

 

従来の物理学(理論科学)の世界観では、世界は、力学のような絶対的な法則に支配されていると考えます。

 

前世紀には、物理学の成功をモデルに、多くの学問が物理学のアプローチを採用しました。

 

しかし、結果は、悉く失敗でした。

 

汎用的な法則があるという前提は間違いなのです。

 

実験には、手間とコストがかかります。

 

実験B1と実験B2の結果は利用できないのでしょうか。

 

ここで、法則Aが、y=f(x)であったとします。

 

実験B1では、x=(1,4,6)であり、実験B2では、x=(20,30,50)であったとします。

 

この場合、1<=x<=6では、法則は成り立ち、20<=x<=60では、法則がなりたたないように推測できます。

 

ここで、x=(1,4,6)は、母集団1<=x<=6のサンプルであり、x=(20,30,50)は、母集団20<=x<=60のサンプルであると考えています。

 

母集団という用語は、母集団の集合を固定して考える場合が多いので、筆者は、母集団の集合を変数と考える場合には、Casual Universeという単語を使っています。

 

それでは、6<=x<=20は、法則AのCasual Universeであるかが問題になります。

 

事前情報がない場合には、Casual Universeの境界は、既存のCasual Universeから等距離にあると仮定します。

 

6<=x<=20の中点は、13です。

 

法則Aは、Casual Universe1<=x<=13では成り立つと仮定します。

 

こうして、実験データが追加される毎に、法則Aが成り立つCasual Universeを示すマップが更新されています。

 

データサイエンスの世界観は、このようなものです。

 

6<=x<=13は外挿になっていますので、間違いの可能性も高いと思います。

 

しかし、内挿になっている1<=x<=6のCasual Universeに穴が開いていないと考える根拠もありません。

 

汎用的な法則があるという前提を取り外せは、仮説が正しいという表現は曖昧になります。

 

データサイエンスでは、法則とセットになったCasual Universeのマップを随時更新していきます。

 

科学の正しさは、手続きの正しさであって、結果の正しさではありません。

 

節の最後に、物理学以外の世界では、法則を頻繁に切り替える気まぐれな神様が、大勢いる点に注意します。

 

法律、社会制度、情報化、ミームの変化は、法則を頻繁に切り替える気まぐれな神様に相当します。

 

この場合には、過去のデータを使った法則は、全く利用できなくなります。

 

リベラルアーツは、この問題を回避する手段をもっていません。



(補足1:代替性)

 

経験主義では、法則の代替性基準があります。

 

科学の仮説でも、代替性基準が採用される可能性があります。

しかし、この点については、筆者の分析は進んでいません。

 

例をあげます。

 

料理の「さしすせそ」は、味つけする順番を覚えるためのゴロ合わせです。 「さ(砂糖)、し(塩)、す( 酢) 、せ(醤油)、そ(みそ)」の順番で 味つけをすることを推奨するルールです。

 

このルールを検証するエビデンスはないと思います。

 

このルールは、醤油とみそが入っていることからわかるように、和食を対象にしています。

 

筆者は、調味料の味に対する影響度は、「さ(砂糖)>し(塩)>す( 酢)>せ(醤油)>そ(みそ)」になっていると思います。順番を入れ替えると、味の微調整が難しくなります。料理の「さしすせそ」を守る必要はありませんが、料理の「さしすせそ」を守った方が、味の微調整がしやすいという見解です。

 

料理の「さしすせそ」は、調味料が、食材に浸透しにくい順番を示していると説明している人もいます。

 

スロークッカーのような長時間調理では、砂糖を入れると焦げやすくなるので、砂糖は、最初ではなく、素材が柔らかくなってから入れるべきです。

 

日本料理では、長時間調理が少ないので、調味料の添加による食材の変化が問題にならないのかも知れません。

 

スペイン料理では、オリーブオイルを添加して調理したあとで、仕上げに、フレーバーのよいエクストラバージンオイルを追加で添加します。このような、調味料の2度使いは、「さしすせそ」にはありません。

 

松本仲子氏と小川久惠氏は、調味料をあらかじめ混ぜて投入した場合と、「さしすせそ」の順に投入した場合では有意差はないことを示しています。

 

<< 引用文献

調理方法の簡便化が食味に及ぼす影響―調味の順序について―、松本仲子、 小川久惠、  日本食生活学会誌、 2007

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jisdh/17/4/17_4_322/_pdf/-char/ja

>>

 

ただし、松本仲子氏と小川久惠氏の論文は、料理の「さしすせそ」は、調味料の味に対する影響度を考えた、味付けのしやすさの順番であるという仮説の否定にはなっていません。

 

このように、料理の「さしすせそ」は、例外の多いかなり怪しい法則です。

 

ただし、「さしすせそ」に代わる一般的なルールはありません。

 

間違った法則でも、代替性のある、よりマシな法則がなければ、使い続けられる可能性があります。



(補足2:データ特性要求仮説)

 

データ特性要求仮説は、経済学の法則の説明にあてはまります。

 

経済学の法則は、市場原理を前提として、微分方程式をたてます。

 

これは、経済合理性の前提です。

 

実際には、経済合理性の前提があてはまらない場合もあります。

 

典型は、中抜き経済原理です。

 

経済学は、中抜き経済原理の社会の経済現象を予測することはできません。

 

(補足3:ランダムネス)

 

法則性が全くないランダムな場合には、ランダムネスが法則になります。

 

科学の方法と権威の方法:

 

プラグマティズム創始者のパースは、科学の方法と権威の方法を比較しました。

 

権威の方法は、権威者の発言は正しいという主張です。

 

科学の方法は、発言は、科学の方法のプロセスを経ているという主張です。

 

科学の方法のプロセスには、検証過程が含まれます。

 

検証過程には、エビデンスデータが含まれます。

 

発言が、科学の方法に従っている場合には、発言には、必ず、エビデンスに関するコメントが付きます。

 

逆に言えば、エビデンスに関するコメントがついていない発言は、権威の方法による発言であって、科学的な根拠を持たない発言です。

 

科学的な根拠を持たない発言に従って、政策を進めれば、何か起こるかは自明です。

 

もちろん、将来のことは予測不可能です。

 

野球のバッターの打率は、最大でも、3割です。

 

これは、ピッチャーが投げる球を予測することができないからです。

 

しかし、優秀なバッターと能力の低いバッターの間には、打率の差があります。

 

将来の予測が出来なくとも、科学の方法によって、バッターの打率に相当する政策の成功確率を高めることはできます。

 

野球のドリームチームをつくるには、打率の高い優秀な打者をスカウトします。

 

政策のドリームチームをつくるには、政策の成功確率の高い優秀な政治家や官僚をスカウトすればよいと思われます。

 

政策の成功確率の計算方法には、課題がありますが、現状では、政策の成功確率は全く問題にされていませんので、高い政策の成功確率は期待されていないことがわかります。

 

マスコミが報道する政府の要人、政治家、経営者の発言に、エビデンスに関するコメントが付いていることはほとんどありません。

 

これは、マスコミが、権威の方法のプロパガンダになっていることを示しています。

 

マスコミは、間接的に、科学の方法を否定しています。

 

政府の要人や政治家の中には、海外にいっても、権威を方法の発言を繰りかえしている人もいます。

 

英語のマスコミの情報をみれば、海外では、政府の要人、政治家、経営者の発言には、エビデンスに関するコメントが付いています。

 

筆者は、科学のミームで思考しますので、権威の方法で、仮説の正しさが確保できるとは考えません。

 

仮説の正しさは、科学の方法でのみ確保することができ、その正しさは、結果の正しさではなく、プロセスの正しさを意味しています。

 

この小論は正しいのか:

 

リベラルアーツに基づいて、WEBの記事を書いている人は、自分には、十分な経験があるので、自分の発言は正しいと主張します。

 

この発言は、十分な経験があるが権威になっている権威の方法です。

 

発言内容が、科学の方法に従っていて正しいのであれば、エビデンスが示されているはずです。

 

筆者の小論は、科学の方法(アブダクション)に基づく推論です。

 

しかし、これは、仮説の作成であって、検証を含んでいません。

 

筆者は、科学の方法に従って推論していますので、仮説作成のプロセスは間違っていないと思います。

 

しかし、仮説の推論の結果が正しいかはわかりません。

 

筆者の小論は、仮説の推論の結果の正しさを目的にしていません。

 

この小論の目的は、読者をリベラルアーツミーム、特に、法度制度の権威の方法が科学の方法に優るというミームから、読者を開放する点にあります。

 

この小論の目的は、読者に、リベラルアーツミームにとらわれない科学的な因果モデルの推論を促す点にあります。

 

なお、統計学の推論は、経験主義のミームとは相いれません。

 

これが、統計学の学習が困難な原因になっています。



0-5)スノーへのオマージュ

 

1959年に、スノーは、「2つの文化と科学革命」で、リベラルアーツが有害であり、エンジニア教育が必要であると主張しました。

 

この小論は、スノーへのオマージュです。