カモフラージュと違法(10)

15)声の大きい人理論

 

15-1)アン・ウーキョン氏の見解

 

イェール大学集中講義 思考の穴──わかっていても間違える全人類のための思考法」の著者のアン・ウーキョン氏の話を要約します。(筆者要約)

 

 

他者の世界観を変えることは本当に難しい。システムレベルでの政策や規制が必要になる。

 

健康、価値観、安全にまつわる自分の考えや思い込みによってバイアスがかかった解釈は、一度形成されたら定着しやすく、変えることは容易ではない。

 

そうした偏見には、歴史、文化、経済、政治など、社会や組織的な要因から生まれたものも多い。

 

変化を決定する人々も、やはりバイアスのかかった解釈にとらわれやすいので、システムレベルで変化を起こすことにも、難しさが伴う。

 

それでもシステムレベルの問題は、別のシステムによってしか対抗できない。

 

そういうときは、明確かつ公正に、公共の利益を守ることを目的としたシステムを意識的につくるしかない。

 

 

エビデンスベースの政策決定は、アン・ウーキョン氏のいう「システムレベルでの政策や規制」の一つです。

 

形而上学は、仮説の検証を伴いませんので、バイアスのかかった解釈から抜け出すことは不可能です。







15-2)加谷 珪一氏の声の大きい人理論

 

「政策決定(ブリーフの固定化)に、声の大きな人の主張が通る」という声の大きい理論があります。

 

権威の方法の一種と思われます。

 

加谷 珪一氏の記事を要約します。

 

 

冷静な意見が葬られる原因としてよく指摘されるのが「声の大きい人への忖度」である。

 

確かに、声の大きい人物が、自らの利益のために無謀なプロジェクトをゴリ押し、周囲がそれに忖度する図式が存在する。しかし、絶対的に逆らえない「独裁者」を誰も止めることができない状態ではない。

 

プロジェクトをゴリ押しすることで直接的に利益を得られる人の政治力はそれほど大きいわけではなく、周囲が何となくストップがかけられない状況に近い。このような力学になってしまうのは、日本の組織が依然として社会学で言うところのゲマインシャフト前近代的ムラ社会)であることが大きく影響している。

 

さて、加谷 珪一氏の「しかし、絶対的に逆らえない『独裁者』を誰も止めることができない状態ではない」という発言には、注意が必要です。

 

アン・ウーキョン氏は、「絶対的に逆らえない『独裁者』を誰も止めることができない状態ではない」ことが、「ブリーフの固定化法」を簡単に切り替えられる根拠にはならないといいます。

 

アン・ウーキョン氏は、「歴史、文化、経済、政治など、社会や組織的な要因から生まれた健康、価値観、安全にまつわるバイアスがかかった解釈は、一度形成されたら定着しやすく、変えることは容易ではない」といいます。

 

この点は留意して置いて、先に進みます。

 

加谷 珪一氏は、日本の組織が前近代的ムラ社会であること(原因)によって、「声の大きい人への忖度」(結果)が発生すると説明しています。

 

「ブリーフの固定化」が、科学の方法によらないのであれば、議論や検討は、無意味です。

 

冷静な意見が葬られる原因には、複数の候補があり得ますが、科学の方法によらないのであれば、原因の分析自体が意味をなしません。つまり、科学の方法(科学的な意思決定)を回避したい人がいることになります。

 

つまり、科学の方法(科学的な意思決定)を回避したい人が、議論を回避(原因)すれば、「声の大きい人への忖度」(結果)が発生するという説明も可能です。

 

加谷 珪一氏は、原因を前近代的ムラ社会におきますが、その場合には、原因を排除することは容易ではありません。どこから手を付けるべきか、わかりません。

 

一方、科学の方法(科学的な意思決定)を回避したい人の行動が原因であれば、非科学的な人の行動を排除できれば、問題は解決可能です。

 

これは、ブリーフの固定化のルールを、科学の方法によると定めればできます。もちろん、科学の方法が理解できていない人には、難しいと思いますが、啓蒙や教育で、改善することは可能です。

 

科学の方法(科学的な意思決定)を回避したい人の行動が前近代的ムラ社会に起因していれば、この2つの仮説は、ほとんど同じになります。しかし、ムラ社会では原因を排除する方法が明確ではありません。一方、科学の方法(科学的な意思決定)を回避したい人の行動が原因であれば、問題となっている人に焦点を当てれば、原因を排除できます。

 

つまり、検証可能な科学の方法の仮説としては、「科学の方法(科学的な意思決定)を回避したい人の行動」仮説の方が、ムラ社会仮説より優れています。

 

加谷 珪一氏の指摘は次の様に、展開されます。

こうしたムラ社会では、時にプロジェクトを遂行するリソースがすべて尽きてしまうまで暴走が止まらなくなる。失敗が明らかになっても、相互の甘えや情緒が優先するため、プロジェクトの失敗を明確に検証し、責任の所在を明らかにする作業は行われない。

 

こうした前近代的意思決定をやめない限り、マイナンバー制度は行き着く所まで行くだろうし、今後も同じ問題が繰り返し発生すると筆者は考えている。

 

しかし、ムラ社会論では、「前近代的意思決定をやめる」方法が提示されません。

 

これは、ムラ社会論が、帰納の呪いにとらわれているためです。

 

アブダプションで仮説を考えれば、原因を除去する方法が提案できます。

 

「科学の方法(科学的な意思決定)を回避したい人の行動」仮説は、アブダプションで作成した仮説の一つです。

 

これは、仮説の1つにすぎませんので、他の検証可能な仮説でもかまいません。

 

ともかく、原因を取り除いて、検証可能な仮説を提示しないと、データサイエンスの科学の手法にのりません。

 

アン・ウーキョン氏は、「システムレベルの問題は、別のシステムによってしか対抗できない」といいます。

 

これを、「ブリーフの固定化法」に当てはめれば、エビデンスをとれない人文科学のシステムを、エビデンスに基づく科学の方法でしか対抗できないことになります。

 

15-3)大橋 弘氏の声の大きい人の理論

 

東京大学公共政策大学院院長の大橋弘氏は、「EBPMの経済学」で、次のように言っています。 

 

こうした私たちの暮らしに密接に関わる政府の政策立案過程が、今大きく変わろうとしています。これまで、ややもすると、声の大きいステークホルダーの意向が政策に反映されるという「エピソード・ベース」の政策が立案されがちと言われてきました。しかし統計の整備が進み、海外でも統計などのエビデンスを踏まえた政策立案 (EBPM) の取り組みが進むなかで、わが国においても「エピソード・ベース」から「エビデンス・ベース」へと政策立案の取り組みを変えていくことで、政策の透明性や説明責任を高め、政治主導のなかで国民にしっかり説明のできる政策を作っていこうとする機運が高まっているのです。

 

筆者は、この記述を読んで、頭がぶっ飛びました。

 

「声の大きいステークホルダーの意向が政策に反映されるという『エピソード・ベース』の政策が立案されがちと言われてきました」という記述は明らかに帰納です。

 

政策立案過程の学問が、帰納に依存していれば、この学問では、問題解決はできません。

 

科学の方法では、問題が解決された状態(結果)を想定して、結果を生み出すための原因を考え(アブダプションを使わ)ないと問題解決ができません。

 

排ガスをまき散らす自動車を観測して、帰納で、自動車とは排ガスをまき散らすものであるという法則を作ってもナンセンスです。排ガスが少ない状態(結果)を想定して、そのために必要な条件(原因)を作り出すことが必要とされます。

 

エビデンス・ベース」が出て来るまで、「エピソード・ベース」が、放置されてきたとすれば、政策立案過程の学問の目的が何か、理解できなくなりました。

 

加谷 珪一氏は経済評論家で、政策立案過程の専門家ではありませんので、「声の大きい人への忖度」は、専門家が認知した用語ではない可能性があります。

 

一方、大橋弘氏は、政策立案過程の専門家で、「エピソード・ベース」は、「エビデンス・ベース」と同じレベルの専門用語に見えますので、「声の大きいステークホルダーの意向が政策に反映される」理論があると思われます。

 

15-3)不都合な真実



大橋弘氏は、「EBPMの経済学」で、次のようにも言っています。 

 

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もちろんエビデンスのみで政策が立案されるのであれば、いずれはAI (人工知能) でも政策立案ができるようになりそうですが、今のところ、未だそのようにはなりそうにありません。エビデンスはあくまで過去の記録です。そうした過去の経験に依拠し過ぎると、逆に政策立案に都合の良いエビデンスを作ろうとするPBEM (policy-based evidence making) が横行しかねないでしょう。将来の不確実性が高まるなかで、過去からの学びを最大限生かしながら、将来に向けての政策立案を行うバランスが求められていると言えます。

 

ここには、偏見と誤解があります。

 

「もちろんエビデンスのみで政策が立案されるのであれば、いずれはAI (人工知能) でも政策立案ができるようになりそう」という記述には、人間の政策立案とAIの政策立案を比較する根拠が示されていません。



科学の方法では、2つの仮説のどちらが良いかは、検証によって判断されます。実験の不可能な分野でのベストが検証方法がエビデンス・ベースです。それより良い比較方法はありません。

 

エビデンスはあくまで過去の記録」は、誤解です。エビデンスは、基本的には、将来の記録であって、過去の記録ではありません。過去の記録のCasual Universeと将来の記録のCasual Universeは異なります。問題は、将来の記録のCasual Universeにあります。

 

「過去からの学びを最大限生かしながら、将来に向けての政策立案を行う」という表現は、Casual Universeを取り違えています。ここには、帰納の呪いがあります。

 

「都合の良いエビデンスを作る」ことは、サンプリングバイアスであり、Casual Universeハッキングです。エビデンス・ベースはこれを回避するベストな方法です。

 

大橋弘氏は、インタビューの中で、次の様にもいっています。

 

2006年の統計制度改革検討委員会の最終報告書を見ると、「EBPM」とは言われていませんが、国民に対する説明責任と政策決定過程の透明化の要請のなかで、「証拠に基づく政策立案」が重要との指摘がなされています。

 

もちろん、エビデンスは何かというのはかなり難しい話です。まず、「数字」で示すと言ったときに、では、その「数字」はどうやってつくられたのか。手法としてのRCT(ランダム化比較試験)も対象とする時期や地理的な範囲に応じて結論が変わる可能性はあり、エビデンスの鮮度も求められます。

 

ここには、RCTに対する誤解があります。

 

「対象とする時期や地理的な範囲に応じて結論が変わる」というのは、サンプリング・バイアスであり、Casual Universeハッキングです。RCTは、現時点では、これを回避するベストな、理論的に確かな唯一の方法です。これ以上の方法はありません。これは、Judea Pearlの発言です。RCTの唯一の、かつ最大の課題は、コストがかかりすぎて、実施が難しいことです。RCTは、バイアスを最少化します。RCTでもバイアスはゼロにはなりませんが、RCTでだめなら、諦めるしか手はありません。

 

対象とする時期や地理的な範囲に応じて結論が変わるRCTは、RCTとしての最低条件をみたしていません。

 

ここにある問題は、池上彰氏の主張の問題点を取り上げたときと同じ構造です。

 

これは、大橋弘氏の個人の問題ではなく、人文的文化の人は、科学的文化ではあり得ない帰納の呪いを解くことができないことを示しています。

 

科学の方法を形而上学で解釈することはできません。

 

日本の人文的文化の人は、科学的文化を人文的文化(形而上学)で理解できると考えます。

 

1959年に、スノーは「二つの文化と科学革命」で、人文的文化と科学的文化の間には超えられないギャップがある。科学的文化を理解できるエンジニア養成をしない国は、経済的に行き詰ると主張しました。

この内容は、日本では、人文的文化で、科学的文化が理解できるという妄想のもとに、「スノーは二つの文化の間のギャップを埋めることの重要性を指摘した」と解釈されています。

 

データサイエンスの視点では、帰納には、検証の効果はありません。だからこそ、エビデンス・ベースを使います。

 

これは、帰納にたよっていた今までの学問の結果は、間違っている可能性が高いことを意味します。極めて、不都合な真実ですが、エビデンス革命の本質は、ここにあります。

 

アン・ウーキョン氏は、「歴史、文化、経済、政治など、社会や組織的な要因から生まれた健康、価値観、安全係るバイアスがかかった解釈は、一度形成されたら定着しやすく、変えることは容易ではない」といいましたが、その具体例とも思われます。



15-4)これから起こること

 

最近、科学技術基本法が改定されて、人文科学の手法のみによる科学が、科学に追加されました。

 

もちろん、科学技術基本法に何が書かれようが、実験または、その代替手段による検証のない学問は科学ではありません。ポパーは、実験が唯一の正統な検証手段であると考えていたと思います。現在は、実験の縛りは緩くなりましたが、可能な限り、バイアスを排除するという基本に変化はありません。

 

モーリー・ロバートソン氏は、東京大学とバーバード大学で学んでいます。ロバートソン氏は次のように言っています。

 

個人的な経験をいえば、東京大学にほんの少しだけ通った後、ハーバード大学に転校すると、自分の想像力や学習方法(試験に出る内容だけを要領よく最低限学ぶ)が硬直化していたことを思い知らされました。

 

日本の受験戦争で「模範的」とされる学習と、アメリカの名門大学で放り込まれたディベート教育、人文と科学をクロスオーバーさせる教育とはまったくの別物だったのです。

 

現在のアメリカの人文科学は、従来の人文科学の手法に、手法を限定していません。クロスオーバーになっています。そのことは、日本語版と英語版のウィキペディアを比較すればわかります。

 

クロスオーバーな人文科学は今後も自然科学を呑みこんで、生き残ると思います。クロスオーバーな人文科学は、エビデンスによる検証を含み、形而上学でありません。

 

それは、パースが、哲学の伝統を残しながら、科学としてプラグマティズムを再構成したアプローチに重なります。

 

毛沢東は、社会主義という形而上学イデオロギー)を振り回して、リアルワールドを無視した結果、大躍進と文化大革命の2度にわたり、飢餓を引き置こしました。

中国はつぶれそうになり、イデオロギーが撤退して、猫理論がでてきました。

 

現在の日本も、人文科学の形而上学が幅をきかせ、リアルワールドを無視した結果、人口減少、経済の停滞、貧困の拡大を引き起こしています。日本は、存続していますが、先進国からの脱落はほぼ決定手的です。

 

これから起こることは、次の2つの何れかになります。

 

(S1)人文科学の形而上学が、今後も生き残り、日本は、先進国から脱落するだけでなく、存亡の危機になる。

 

(S2)人文科学の形而上学が撤退して、科学の方法が採用され、猫理論によって経済が復活する。

 

後者の場合には、日本型の人文科学はなくなります。これは、1990年におこったマルクス経済学の失墜の拡大版のようなイメージになると思われます。

 

毛沢東は、大躍進によって、2000万人以上が飢餓で亡くなったあと1度目の失脚をしています。2度目の飢餓は、文化大革命の時に起こりました。この時は、毛沢東が亡くなったあとで、政権交代が怒っています。

 

民主党による政権交代は、中国の大躍進の中止のように、ブリーフの固定化法に影響を与えることはありませんでした。

 

アン・ウーキョン氏のいう「バイアスがかかった解釈は、一度形成されたら定着しやすく、変えることは容易ではない」が、継続しています。

日本の現状は、中国より、重症なのかも知れません。

 

引用文献



日本におけるEBPMへの意識の高まりと、今後の課題 内閣府 東京大学公共政策大学院 院長 大橋 弘

https://www.esri.cao.go.jp/jp/esri/seisaku_interview/interview2022_35.html



相手にしてはいけない「話が通じない人」の特徴 2023/09/17 Diamond

アン・ウーキョン (「イェール大学集中講義 思考の穴──わかっていても間違える全人類のための思考法」)

https://diamond.jp/articles/-/328002



普及に取り憑かれている…「暴走機関車」と化したマイナンバーシステムが迎える「末路」2023/07/12 現代ビジネス 加谷 珪一

https://gendai.media/articles/-/113147



日本人はなぜ「世襲議員」に投票してしまうのか…無自覚に抱く「甘え」の正体 2023/06/07 現代ビジネス 加谷 珪一

https://gendai.media/articles/-/111292?imp=0



 EBPMの経済学 大橋 弘

https://www.u-tokyo.ac.jp/biblioplaza/ja/F_00199.html



モーリーがあえて言う。「日本の"受験教育"はもう終わりにしたほうがいい」2023/09/04 プレイボーイ モーリー・ロバートソン

https://news.yahoo.co.jp/articles/e0c409684fd5183c751e7a5c1caa36dae2ddcd9a