鉄のトライアングルと副作用(1)

1)鉄のトライアングル

 

「鉄のトライアングル」を鮫島浩氏が次のように説目しています。

 

 

戦後日本を主導した自民党政治は国民生活の支援を「業界経由」で行ってきました。国民一人一人に直接お金を渡すのではなく、農業、建設、運輸、商工、医療、教育など各業界に補助金を渡すことで間接的に国民生活を支えてきたわけです。農家ではなく農協に、子育て世帯ではなく幼稚園や保育園に、看護師や介護士ではなく病院や福祉施設に、補助金を支給してきました。自民党族議員は各省庁と結託し、自分たちを応援してくれる業界へどれだけ補助金を引っ張ってくるかでしのぎを削っていたのです。

 

各業界は補助金の一部を「中抜き」して、族議員への見返りとして政治献金や選挙支援をし、官僚への見返りとして天下りを受け入れました。これが「政官業の癒着」と呼ばれる構造です。お金を分配する「予算編成権」を握る財務省主計局は、その頂点に君臨していました。

 

 

政治には利権が付き物ですから、補助金のキャッシュバックは、どの国でも、あると思います。しかし、それを認めても、程度の問題は残ります。アフリカの被援助国では、援助経済が、市場経済を上回っています。こうなるとビジネスで稼ぐよりも、援助金のピンハネを期待する方が利益があがるので、誰もまともにビジネスを行わなくなり、発展途上国から抜け出せなくなります。

 

日本でも、個人の利益が、ビジネスで稼ぐよりも、政治献金、選挙支援、天下りを受け入れる方が大きくなると市場経済が破棄された社会主義になってしまいます。

 

ですから、程度問題は無視できません。




それでは、考えられる副作用をあげてみます。

 

2)非科学的な形而上学権威主義(副作用1)

 

政治に科学の方法を取り入れる仕組みが、エビデンスに基づく政策決定(EBPM;Evidence based policy-making)です。

 

EBPMは、英国では2000年頃から導入されていますが、日本政府は、EBPMを拒否して、有識者会議による権威の方法を採用しています。

 

EBPMは、データサイエンスの一部です。つまり、EBPMを取り入れると、有識者会議のメンバーを帰ることが必要になります。

 

科学的な方法の反対は、権威の方法と形而上学です。

 

加谷珪一氏はつぎのようにいっています。

 

 

つまり日本では、差別する意図がなければ何を言っても自由であり、意図がない以上、当事者には直接謝罪しないことが当然視されていることになるわけだが、これはグローバルな企業社会における価値観と著しく乖離している。

 

近代社会においては「思い」ではなく「行為」によって判断する。

 

 

ウィキペディアを参照します。



過失(日本語版)

 

 

過失(かしつ)とは、注意義務に違反する状態や不注意をいい、特に民事責任あるいは刑事責任の成立要件としては、ある結果を認識・予見することができたにもかかわらず、注意を怠って認識・予見しなかった心理状態、あるいは結果の回避が可能だったにもかかわらず、回避するための行為を怠ったことをいう。 

 

 

無過失責任(日本語版)

 

無過失責任(むかしつせきにん)とは、不法行為において損害が生じた場合、加害者がその行為について故意・過失が無くても、損害賠償の責任を負うということである。 

 

元来、不法行為においては被害者が加害者の故意・過失を立証しなければならないという過失責任主義を原則としていたが、科学技術の進歩・交通機関の発達などにより、公害をはじめ企業の活動により多くの被害者を出すようになったことから、過失責任主義における矛盾が生じ、それを是正するために講じられるようになったのが無過失責任である。 

 

 

実は、英語には、無過失責任はありません。

 

Strict liability 厳格責任(英語版)

 

 

刑法 および 民法における 無厳格責任は、被告側に 過失や犯罪的意図がない場合でも、活動から生じる結果に対して法的に責任を負う責任の基準です。

 

不法行為法における厳格責任とは、過失(過失や不法行為の意図など)の認定なしに当事者に責任を課すことです。請求者は、不法行為が発生し、被告に責任があることを証明するだけで済みます。

 

 

「無過失責任」と「Strict liability」では、随分ニュアンスがことなりますので、加谷珪一氏の言うように、日本の常識は、世界では通じないとも思います。

 

加谷珪一氏の説明は、厳格責任が世界の常識であると言うべきと思われます。

 

無過失責任(日本語版)には、次の記述があります。

 

「元来、不法行為においては過失責任主義を原則としていたが、科学技術の進歩より、過失責任主義における矛盾が生じ、それを是正するために無過失責任が講ぜられるようになった」

 

この解釈は、重要です。

 

例えば、科学の進歩によって、EBPMは、2000年には、実用に供することができるようになりました。少なくとも、英国では、権威の方法に替えて慰、基本は、EBPMにハンドルを切っています。

 

有識者会議による権威の方法は、EBPMという科学の進歩を無視しています。英国が、EBPMに切り替えた理由は、権威の方法によるよりも、予算の利用効率が高く、問題解決能力が高いからです。ここには、無過失責任の問題があります。

 

あるいは、コロナウイルスで、霞が関では、依然として、FAXを使っていました。感染者数の把握もFAX頼みでした。これは、科学技術を使って、業務の合理化をしなければ、無過失責任になるという意識がなかったことを示しています。

 

加谷珪一氏の指摘しているように、「無過失責任」あるいは「Strict liability」を前提としないと議論は空回りします。

 

霞が関文学は、リアルワールドを変えない形而上学です。

 

そこで、「無過失責任」は問題にできるという前提で、副作用を考えてみます。

 

今回はここまでです。

 

引用文献

 

泉房穂明石市長の爆弾証言「自民党が金を配るとき、必ず業界団体が『中抜き』『ネコババ』している」「私は一人一人に直接渡す」2023/05/22 現代ビジネス 鮫島 浩 泉 房穂

https://gendai.media/articles/-/110552?imp=0

 

広島マツダ「障害者への差別動画」騒動には、日本を「貧しくした元凶」が表れていた 2023/05/17 Newsweek 加谷珪一