1)キッシンジャー外交
100歳を超えているアメリカのキッシンジャー元国務長官が、中国・北京を訪問し、7月18日に李尚福国防相兼国務委員と、19日に王毅政治局委員兼中央外事工作委員会弁公室主任と、20日に習近平国家主席と立て続けに会談しました。
1970年代のキッシンジャー外交について、加谷 珪一氏が説明しています。(筆者の要約)
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1971年7月、ニクソン大統領の補佐官であったキッシンジャー氏は極秘裏に中国を訪問し、米中国交正常化の道筋を付けます。
1971年8月15日に、米ドル紙幣と金との兌換が停止されます。
米国の穀物輸出が外交上の武器になることがわかったので、ニクソン政権は19'72年、米ソ穀物協定を締結。大量の穀物が旧ソ連や中国に輸出します。
1973年、サウジアラビアをはじめとする中東の産油国は突如、原油価格を引き上げ、世界経済はパニックに陥った。
1971年の金とドルの兌換停止(ニクソンショック)により、ドルは大幅に値を下げました。ここにオイルショックが加わり、米国は深刻なインフレという最悪の事態に対処せざるを得なくなります。
キッシンジャー氏は、中東各国を歴訪し、一定の石油価格上昇を米国が受け入れる代わりに、石油取引を引き続き米ドルで行うことを確約させます。さらに、石油の販売で得たドルを米国の市場に投資させ、米国はバラ撒いたドルを回収するスキームを確立します。。
これによって米国は、膨大な貿易赤字を抱えていてもドル不安が発生しない基軸通貨国としての一連の仕組みを作り上げます。
穀物の取引もドル建てで行われるため、石油と同様、食糧輸出も、ドルを米国内に還流させる役割を果たします。
その結果、米国は基軸通貨国としていくらでもドルを発行することが可能となり、ほぼ無尽蔵に製品を輸入できるようになった。そして米国の旺盛な輸入に世界の工場として応えたのが中国であり、中国の大国化と米国のドル覇権はセットになっています。
米国はニクソンショックによるドル暴落とオイルショックというピンチを、キッシンジャー氏の巧みな外交戦略によって、強大なドル覇権を確立というチャンスに組み替えています。その中で、米国は中国の大国化を手助けしたと言えます。
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加谷 珪一氏は、50年前のキッシンジャー氏の訪中と比べて、「米国が築いてきた世界覇権の終わりの始まりを示唆していると感じ」ています。
今回。キッシンジャー外交を取り上げた理由は、「米国の世界覇権」を論ずるためではありません。
キッシンジャー外交から、問題解決の方法を学ぶためです。
2)問題解決の方法
国交正常化から50年後に、トランプ政権は中国からの輸入に高関税をかけ、両国は貿易戦争に突入します。民主党のバイデン政権は対中強硬路線をさらに進め、人的交流の制限、、強力な輸出規制を発動します。中国もこれに対抗し、両国の貿易は急激に停滞しています。
その結果、人民元での貿易取引が拡大し、ドル覇権は弱まっています。
つまり、ドル覇権を弱めたいとは考えていないと思われるので、トランプ~バイデン政権の対中国政策は、出口が不明です。
キッシンジャー外交は、前例主義ではありません。
現在の政府の政策は、99%は前例主義で、どこかの政策のコピーです。
これは思考形態が、帰納法からぬけていないことを示しています。
キッシンジャー外交は、米国経済のレジームシフトを起こしました。
おそらく、日本経済の問題を解決する方法は、日本経済のレジームシフトをおこす方法であると考えます。
経済の主たる構成要素とリレーションがおおきく変化した状態を実現する必要があります。
それにしても、キッシンジャーが、統領の補佐官であったことは驚くべきことです。
ウィキペディアは次のように説明しています。(筆者要約)
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キッシンジャー氏は、1951年には日米学生会議に参加しています。大学院生時(1950-1954年、27-31歳)には指導教授の庇護を受け、世界各国の有望な若手指導者をハーバード大学に集めて国際情勢について講義や議論を行うサマー・セミナーの幹事役となり、国内外にその後のワシントン入りにも繋がる人脈を形成した。日本からの参加者としては、中曽根康弘などがいます。
キッシンジャー氏は、1960年、1964年、1968年の大統領選では、ネルソン・ロックフェラ氏を支援します。ロックフェラー氏の敗北後、1968年の大統領選挙で当選したリチャード・ニクソン氏から直々のスカウトを受け、政権誕生とともに国家安全保障問題担当大統領補佐官として政権中枢に入り、ニクソン外交を取り仕切っています。キッシンジャーの大統領補佐官指名は、国務長官、国防長官の指名の前になされています。ここにニクソン氏のキッシンジャー氏への期待を読み取る論者もいます。
ジョンソン政権までの外交政策は、国務長官が決定権を握り、国家安全保障担当補佐官は調整役とされてきました。しかしニクソン氏とキッシンジャー氏は国家安全保障会議(NSC)が外交政策の決定権を握るべきだと考えます。ニクソン氏の命を受けたキッシンジャー氏はNSCのスタッフ(特別補佐官)に若手の外交官、軍将校、国際政治学者をスカウトして組織しました。キッシンジャー氏からNSC特別補佐官にスカウトされた人物には、アンソニー・レイク氏、ローレンス・イーグルバーガー氏、アレクサンダー・ヘイグ氏、ブレント・スコウクロフト氏などがいます。
キッシンジャー氏は、国務省などと激しい権力闘争を行い、ニクソン政権ではNSCが外交政策の決定権を独占します。特にウィリアム・P・ロジャーズ国務長官を重要な外交政策から排除してしまいます。キッシンジャー氏は、NSC特別補佐官のほかに大使、駐在武官、CIA支局長などをNSCの手足として用いていました。
1971年の極秘訪中の際も、キッシンジャー氏はロジャース国務長官と国務省に一切知らせずに、フランス、ルーマニア、パキスタンなどに勤務している駐在武官やCIA支局長を利用して秘密裏に北京に到着しています。
キッシンジャー氏は、1973年には大統領補佐官に留任したまま国務長官に就任し、フォード政権の退陣までの間に外交政策の全般を掌握しています。
なお、このような「外交の達人」という一般的な評価は、キッシンジャー氏が国務長官退任後繰り返し発表してきた著書や回想録に拠るところが大きく、ニクソン外交の実態について、公開された文書史料をもとに「外交政策の構想者・決定者は、外交通だった大統領・ニクソン氏であり、キッシンジャー氏はそのメッセンジャー・ボーイに過ぎなかった」などと、ニクソン氏の比重をより重く見る研究も現れています。
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キッシンジャー氏の著書や回想録には、自画自賛の面もあると思われます。
とはいえ、日本の 内閣総理大臣補佐官や、外交政策には、キッシンジャー氏のような理論が存在しないことも事実です。
引用文献
キッシンジャー訪中が示唆するのは、アメリカ「世界覇権」終わりの始まりだ 2023/07/27 Newsweek 加谷 珪一