科学の基本は、正しい(真)と間違い(偽)を区別することです。
1)「二ホンという病」
「バカの壁」で知られる養老孟司氏は、新書の「二ホンという病」で次のように書いています。(筆者要約)
<
日本語って雰囲気とか忖度とかよく表現できて、客観性とか記述とか、ドキュメントに向かない。
英語は、言葉が物事を認識する時の強制力になっていので、(英語圏は)証拠主義、証言主義になった。要するに誰かが言ったことが、比較的起こった出来事に言葉や表現が比較的近いから、出来事と合わないとすぐばれる。
だから、嘘をつく時真っ赤な嘘をつく。(事実に近い言葉を使うと嘘にならないから)違う事を言うためには真っ赤な嘘をつき、事実に反することを言う。
日本は、言葉が自分の気持ちに近いので、「俺は悪くない」と無意味に繰り返すことができる。それで日本は自白主義になっている。「語れば落ちるんだ」というわけです。
「話せば分かる」というのはそれに近い。あの「分かる」というの事実の違いよりも同意を優先している。日本語はそういう言葉なんです。
>
最近の脳科学では、記憶な捏造されるので、自白の半分以上は捏造であることがわかっています。脳は、捏造を回避した自白をできる回路を持っていないのです。
ですから、白主義が現状であることは事実であっても、それでよいとは言えません。
そもそも、「日本語って雰囲気とか忖度とかよく表現できて、客観性とか記述とか、ドキュメントに向かない」と考えることは、日本語では、科学ができないと言っていることになります。
福島第一原発の処理水を、「科学的根拠に基づき説明」すると大臣が言っても、日本語では科学が記載出来ないのであれば意味不明になります。
過去に、科学技術・イノベーション推進など議論を繰り返しても、実効性のある方針は出てきませんせんでした。養老孟司氏の主張によれば、実効性のある方針が出ない理由は、事実の違いよりも同意を優先する日本語の特徴にあることになります。
養老孟司氏は帰納的推論によって、日本語には、このような特徴があると言っていますので、その点では、間違ってはいません。
だからといって、それが、日本語本来の特徴で回避できないという結論に同意する分けにはいきません。
「講談社BOOK倶楽部」には、次のような内容紹介があります。
<
解剖学者の養老孟司と精神科医の名越康文という心配性のドクター二人が異次元の角度から日本社会が患う「ニホンという病」を診察、好き勝手にアドバイスを処方する。
>
「好き勝手にアドバイスを処方」している訳ですから、真面目に取りあげるべきではないのかもしれません。
しかし、ここには、「問題解決方法を提示できない」という帰納法による推論の欠陥が表れています。
2)ウィキペディア
科学の基本は、正しい(真)と間違い(偽)を区別することです。
したがって、「日本語って雰囲気とか忖度とかよく表現できて、客観性とか記述とか、ドキュメントに向かない」と諦めてしまえば、科学はできません。
正しい(真)と間違い(偽)が区別できる表現は命題と呼ばれます。
命題は全てのスタートです。
例によって、命題をウィキペディアで確認します。
2-1)命題(日本語版ウィキペディア)
日本語版ウィキペディアの記載は以下です。
<
命題( proposition)とは、論理学において判断を言語で表したもので、真または偽という性質(真理値)をもつものです。
>
2-2)命題(英語版ウィキペディア)
英語版ウィキペディアの記載は以下です。
<
命題は、言語、意味論、論理、および関連分野の哲学における中心的な概念であり、多くの場合、真または偽の主要な担い手として特徴付けられます。命題は、多くの場合、宣言文が示すようなものとして特徴付けられます。たとえば、「The sky is blue空は青い」という文は、The sky is blue空は青いという命題を示します。 しかし、決定的に重要なことは、命題それ自体は言語表現ではないということです。 たとえば、英語の文「Snow is white雪は白い」は、ドイツ語の文「Schnee ist weiß」と同じではありませんが、同じ命題を表します。同様に、命題も信念やその他の命題的態度の対象として特徴付けることができます。たとえば、空が青いと信じる人が信じているのは、空が青いという命題です。命題は、アイデアの一種と考えることもできます。コリンズ辞書には、命題の定義が「人々がそれが真実であるかどうかを検討または議論できる声明またはアイデア」とあります。
正式には、命題は多くの場合、可能世界を真理値にマッピングする関数としてモデル化されます。 たとえば、空は青いという命題は、実際の世界が入力として与えられた場合は真理値 T を返しますが、空が緑である別の世界が与えられた場合は F を返す関数としてモデル化できます。多くの代替形式化、特に構造化命題ビューが提案されています。
命題は、論理学、言語学、言語哲学、および関連分野の歴史を通じて大きな役割を果たしてきました。一部の研究者は命題性の一貫した定義が可能かどうかを疑問視しており、デヴィッド・ルイスは「私たちが『命題』という言葉から連想する概念は、矛盾する願望の寄せ集めのようなものかもしれない」とさえ述べています。この用語は広く使用されることが多く、さまざまな関連概念を指すのに使用されています。
(中略)
ラッセルによる
バートランド・ラッセルは、命題はオブジェクトとプロパティを構成要素とする構造化された実在( structured entities)であると主張しました。 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの見解 (命題は、それが真実である可能性のある世界/事態の集合であるという見解) との重要な違いの 1 つは、ラッセル流の説明では、すべての同じ状況において真実である 2 つの命題は依然として差別化され存在し得るということです。 たとえば、「2 プラス 2 は 4 に等しい」という命題は、ラッセル流の計算では、「3 プラス 3 は 6 に等しい」という命題とは異なります。
>
2-3)まとめ
日本語版ウィキペディアの記載では、「命題」は言語であって、リアルワールドとの関係はありません。
英語版ウィキペディアの記載では、「命題」は「可能世界を真理値にマッピングする関数」や、「構造化された実在( structured entities)」であって、言語ではありません。
養老孟司氏の「二ホンという病」は、この状況を正確に描写しています。
霞が関文学と呼ばれる官僚答弁は、リアルワールド(可能世界、実在entities)とは関係のない形而上学です。
養老孟司氏の発言を繰り返せば、次のように言っています。
<
日本は、言葉が自分の気持ちに近いので、「俺は悪くない」と無意味に繰り返すことができる。それで日本は自白主義になっている。「語れば落ちるんだ」というわけです。
「話せば分かる」というのはそれに近い。あの「分かる」というの事実の違いよりも同意を優先している。日本語はそういう言葉なんです。
>
政府のマスコミ発表には、「「俺(政府)は悪くない』と無意味に繰り返す」部分が多くあります。
これは、欧米の基準では、命題になっていないので、科学的リテラシーの欠如として扱われる内容です。
つまり、世界標準(英語の世界)でみれば、日本語の世界、あるいは、日本の「文系」には、「可能世界を真理値にマッピングする関数としての命題」(以下命題と表現)がありません。
実在(entities)にエビデンスを持たず、言語を唯一の手段とする「文系」は、命題をもたないので、科学ではありません。
養老孟司氏は、この問題を日本語の特徴で説明していますが、筆者には、絶望的な科学的リテラシーの欠如にしか見えません。
空気を読んだり、忖度しても、リアルワールドは全く変化しませんので、未解決の問題は、どんどん重症化します。ですから、科学的リテラシーでは、問題解決を先送りする空気を読んだり、忖度することは禁じ手になります。
そもそも科学とは、命題の白黒を一刻でも早く明らかにする営みです。
とはいえ、スタート地点で、命題を取り違えているのですから、科学から見れば、ガラクタの山の学問が大量生産されている訳で、科学的リテラシーの実現は容易ではありません。
引用文献
「二ホンという病」 養老 孟司, 名越 康文 、2023/05、発行・日刊現代、発売・講談社
養老孟司氏が豪州でぶち当たった「日本語」の不自由さ 日本人は気持ちに嘘をつけない?2023/07/07 日刊現代デジタル
https://news.yahoo.co.jp/articles/4f04166de7b1396908e8cc795fef50ed286cd018
「二ホンという病」 講談社BOOK倶楽部
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000377206