教育の科学と「何を教えるべきか」 (3)

(7)教育のドキュメンタリズムと科学の方法

 

科学はエビデンスに基づいて判断します。

 

科学に基づく教育とは、教育効果(エビデンス)を計測して、効果の高い教育方法を取ることです。

 

スキナーは、鳩と人間を同列に扱えると考えていましたが、人間の脳は、鳩より複雑なので、教育効果の計測は、非常に難易度の高い課題です。

 

とはいえ、教育効果(エビデンス)を計測しない科学はありません。

 

サンプリングバイアスがあるので、単純にそのまま使える訳ではありませんが、幾つかのエビデンスで、問題が指摘されています。

 

「分数の出来ない大学生がいる」

 

「七五三問題(高校生の7割、中学生の5割、小学生の3割が授業についていけない)」

 

これらは、実際に問題を解いてもらった、エビデンスを反映しています。

 

7-1)破綻したカリキュラム

 

文部科学省のHPによると、カリキュラムの基本的な考え方には、次の4種類があるといいます。

 

「課程主義」と、義務教育制度における「義務」の完了を認定するに当たり、一定の教育課程の習得をもって義務教育は終了したとみなすものである。我が国の明治期から戦前にかけての義務教育はこの課程主義に属しており、例えば、「小学校令」(明治33年)においては、「尋常小学校ノ教科ヲ修了シタルトキヲ以テ就学ノ終期トス。」と定められていた。

 

「修得主義」とは、当初は成績の評価・評定と深く関係付けられていた用語で、児童生徒は、所定の教育課程を履修して、目標に関し、一定の成果を上げて単位を修得することが必要とする考え方を指すものである。我が国の初等中等教育においても、高等学校については、単位制が採用されており、「修得主義」の原理に立つものとされている。

 

「年齢主義」とは、義務教育制度における「義務」の完了を認定するに当たり、年齢に達したならば自動的に義務教育は終了したと認めるものである。我が国では、「国民学校令」(昭和16年)において、「満14歳ニ達シタル日ノ属スル学年ノ終迄」として年齢主義の規定に転換し、現在の学校教育法においても引き続き年齢主義が継承されている。

 

「履修主義」とは、当初は成績の評価・評定と深く関係付けられていた用語で、児童生徒は、所定の教育課程をその能力に応じて、一定年限の間、履修すればよいのであって、特に最終の合格を決める試験もなく、所定の目標を満足させるだけの履修の成果を上げることは求められていないとする考え方を指すものである。我が国の小・中学校においては「履修主義」が採られている。

 

しかし、この説明は、科学的に破綻しています。

 

たとえば、「年齢主義」が、「年齢に達したならば自動的に義務教育は終了したと認める」のであれば、予算のかかる学校は不要です。

 

「課程主義」の「課程」、「履修主義」の「履修」は、定義がなされていなければ、説明にはなっていません。

 

教育効果(エビデンス)を計測する科学の立場からすれば、「履修」とは、カリキュラムの内容を消化する過程です。

 

「目標に関し、一定の成果を上げて単位を修得することが必要」は、意味不明です。

 

この文言は、テストの成績が良いことが単位の習得であるように見えます。

 

テストの目的は、単位の習得ではありません。

 

テストの目的は、「履修」が計画通り、達成できたかをチェックする点にあります。

 

問題が、あれば、生徒が補習をうけることもありますが、授業の方法を改善することもあります。

 

「目標に関し、一定の成果を上げて単位を修得することが必要」では、テスト勉強が本来の学習に見えてしまいます。

 

「履修主義」の説明は筆者には、理解不能に見えます。

 

 

「児童生徒は、所定の教育課程をその能力に応じて、一定年限の間、履修すればよいのであって、(中略)所定の目標を満足させるだけの履修の成果を上げることは求められていないとする」

 

 

つまり、ここには、「履修の成果を上げない履修があってもよい」というトンデモない話になります。その場合、履修とは、何もしないことと等価になります。

 

「履修の成果を上げない履修」が実現すれば、例えば、「分数の出来ない大学生」ができます。

 

文部科学省は、「分数の出来ない大学生」は、「履修の成果を上げない履修」の素晴らしい成果だと考えています。

 

文部科学省は、「履修の成果を上げない履修」に問題があるとは考えていません。ですから、「分数の出来ない大学生」問題が出て、何年たっても、問題は解決しません。

 

つまり、「履修主義」では、教育(または学習)によって、能力は全く拡張しなくとも構わないといっていることになります。

 

「履修主義」は、リアルワールドとは関係しない典型的なドキュメンタリズム(形而上学)です。

 

ここでは、高等学校卒、大学卒という中身のないラベルの販売が行われています。

 

「履修の成果を上げない履修があってもよい」という考えででは、教育は、仲良しグループの同好会と同じです。筆者は、同好会の価値は認めますが、そこに膨大な税金をつぎ込む理由はありません。

 

7-2)「履修主義」と「習得主義」

 

4分類の中で、「履修主義」と「習得主義」が問題になります。

 

文部科学省の表現を噛み砕けば次になります。

 

「習得主義」では、学年ごと学期ごとにテストを受けて、合格点に達しなかったら落第、留年します。

 

「履修主義」では、出席するか、校長が合格と判断すれば、理解度に関係なく進級も卒業もできます。

 

4分類の説明では、小・中学校においては「履修主義」、高等学校と大学においては、「習得主義」と書かれています。

 

一方、伊東乾氏は次の様にいっています。

 

 

本の学校は義務教育も中等教育も、基本「履修主義」で「習得主義」ではありません。

 

 

伊東乾氏は書いていませんが、留年者を多数出すと文部科学省からクレームがくるので、大学も「履修主義」で「習得主義」ではありません。

 

なお、「履修主義」対応する英語はありません。

 

試験による成績評価ができるためには、試験問題の文言が理解できていることが前提になります。小学校の低学年では、国語力が未熟なため、意味のある試験はできません。このような場合には、年齢に応じて進級させるSocial promotionが採用されます。

 

アメリカでは、1930 年代に、心理社会的影響への懸念からSocial promotionが拡大しましたが、学術水準の低下に対する懸念から、1980 年代以降は減少しています。



フィンランドに代表される欧米では教育の平等とは、「すべての子どもが等しく理解すること」です。フィンランドの教育は「子どもの理解の保証」を前提とした仕組みになっています。

 

最近では、フィンランドの教育の評価は高いです。日本とのカリキュラムの違いが注目されることがありますが、フィンランドの学校教育は修得主義である点を無視できません。

 

文部科学省は、探求の学習に力をいれていますが、教育とは、「習得」のプロセスです。エビデンスの計測のない「履修主義」を採用している国は、日本だけです。

 

つまり、データサイエンスでいえば、欧米で効果があったと認めらえた手法を、日本の導入しても、前提条件が全く違いますので、成功する理由はありません。

 

そもそも「履修主義」では、教育効果を計測しないのですから、何もしなくてよいと言っていることになります。

 

「履修主義」の根拠がどこにあるのかは、不明です。

 

1960年代の教育が、「履修主義」であったというような前例主義の説明は科学的には、無意味です。1960年代には、体罰は当たり前、勉強が出来なければ、学校に残って、漢字書き取りなどをさせていました。このような変化を無視して、「履修主義」でくくって、考えても意味不明になります。

 

「履修主義」か「習得主義」かという区分は、心理学のバイナリーバイアスを生みます。

 

「習得主義」も試験で満点でなければ進級できない訳ではありません。どうしても理解すべきコアの部分と周辺の部分は分けて考えます。

 

「履修主義」では飛び級はあり得ません。

 

最近、文部科学省は、大学では、出席点をつけないように指導しています。

 

しかし、落第は認めません。論理は破綻しています。

 

「履修主義」は、「全員平等に卒業できる」結果の平等の反映であるという解釈もあります。

 

しかし、学校で、「習得主義」を行わなければ、落ちこぼれは放置されます。学習塾は、「習得主義」です。

 

つまり、学校が、「履修主義」を行うことは、学習塾にいけない貧困家庭の子供に圧倒的に不利な差別をしていることになります。



当面、文部科学省では、EBPMができないこと、有識者会議の科学のリテラシーのレベルには問題があることがわかりました。

 

有識者が、教育科学の専門家ではなく、教育学の専門家であることはわかった時点で、これは予測できた結果です。

 

カーンアカデミーに見るようなネット教材は、小テストを繰り返して、自分の不得意分野を中心に、習得を繰り返します。これは、習得の効率向上には効果があります。「履修主義」では、ネット教材で予習して理解できていても、無意味な授業に付き合うことになります。つまり、「履修主義」は、DXとは敵対関係にあります。

 

エビデンスに基づいた学校教育の改善に向けた実証事業」が全く実証とは無関係になっている理由も、「履修主義」で説明できます。



引用文献



エビデンスに基づいた学校教育の改善に向けた実証事業

https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/zyouhou/detail/1387543.htm



欧州の報酬は日本の3~4倍、これでは日本の大学に優秀な人材は定着しない 2023/06/03 JBPress 伊東 乾

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/75432



義務教育制度の改革の方向

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/05082301/005.htm



履修主義と修得主義 ~学校教育と企業教育の課題の共通点~ 

https://www.slhtdmc.co.jp/labo/bid/masterylearning/