経験科学と計算科学のギャップ

(計算科学は、経験科学と代替科学を圧倒するようになりました)

 

1)計算科学の特徴

 

計算科学では、理論科学の方程式をコンピュータで数値計算して解きます。

 

理論的な背景は、理論科学に、離散化するための工夫を加えたものです。

 

つまり、理論面でみれば、計算科学という独立した分野があるのではなく、あくまで、計算科学は、理論科学の派生形にすぎません。

 

しかし、実用面で見れば、全く違った世界が見えてきます。

 

自然科学の理論の多くは方程式で記載されます。

 

方程式が明らかになって、手計算で、方程式を解く努力が100年以上なされてきました。

 

方程式は、そのままでは、手計算で解くことが難しいので、問題を簡略化するために仮定を導入して、特殊なケースでは答えを求めることに成功しました。

 

こうした努力によっても解くことが出来た割合は、全体の1割を越えませんでした。

 

計算科学が発達した2023年現在には、9割以上の問題が解けるようになりました。

 

計算科学の適用可能範囲は、コンピュータの性能に左右されますので、適用範囲は、時間と共に拡大します。

 

この推定割合は、筆者の感覚的な表現ですが、大まかに言えば、計算科学が発達して、理論が計算科学を通じて実用になる場面が一桁増えたと言えます。

 

計算科学が解けない1割は、計算量が多すぎる、計算に必要なパラメータなどのデータが不足している場合です。

 

2)計算科学の進歩

 

計算科学の進歩の例をあげておきます。

 

流体力学では、ナビエストークス方程式を解きます。

 

1985年頃に、ナビエストークス方程式を解いて、博士論文の成果を出版した人がいました。これは、ナビエストークス方程式を計算科学で解いた、初めての日本語の本でした。350ページくらいの本で、FORTRAN言語のソースコードが120ページくらいのっていました。

 

1ページ20行とすれば、全体で2400行になります。

 

この本をみて2400行を2400枚のカードにパンチして、それに、データをつければ、ナビエストークス方程式を計算科学で解いてみることができます。

 

カードにパンチするというのは、当時は、磁気媒体が高価だったため、プログラムは、穴開きカードで保存されていたためです。

 

磁気媒体とメモリーが安価になったのはパソコンが普及してからです。1977年にApple IIが発売され、ヒットしますが、8ビットで計算科学には使えませんでした。

 

1985年につくば市で開催された科学万博のアメリカ館には、ミニコンのDECのVAX780が数台ありました。VAX780を1台収納するには、専用の部屋が必要な大きさでした。

 

さて、首尾よく、打ち間違いをしないでカードをパンチしても、プログラムが動くとは限りません。プログラムを開発するには、数年かかっていますので、本に掲載したプログラムが全て正しいとは限りません。その当時よく行われていた方法は、2行程度、プログラムを削除して掲載する方法です。

 

ソースコードは紙に書かれていますので、そのままでは、実行できません。紙に印刷されたソースコードをもとに、内容をチェックして、VAX780のようなミニコンを借りて、ナビエストークス方程式を計算科学で解くには、6か月から1年かかります。

 

2023年現在であれば、ナビエストークス方程式を計算するPythonのコードが、クラウド上に公開されています。スマホの場合には、Pythonのコードを実行するWEB環境を無償で提供しているところがありますので、それを使えば、1時間くらいあれば、ナビエストークス方程式を計算科学で解くことができます。動かすだけであれば、10分でできます。1時間というのは、内容を理解して、結果をチェックする時間を含んでいます。

 

1時間:1年=1:8760

 

ですから、1万倍くらい、労働生産性があがっています。

 

この労働生産性の向上の結果、今までは、計算科学の理論では解けるはずでしたが、実装できなかった問題が、次々と解けるようになっています。

 

なお、これは計算準備の時間比較ですが、計算の実行速度の効率化はより大きくなっています。

 

3)代替科学と経験科学

 

計算科学が出て来るまでは、理論科学の方程式が解けないため、実用的な対策が必要とされました。

 

(1)経験科学

 

理論科学が出て来るまでは、人類は、人文的文化や経験科学をつかって問題解決をはかってきました。

 

日照りに雨ごいをするのは人文的文化です。

 

この解決策で、雨が降ることもありました。雨が降らないこともありました。

 

「雨ごいをすれば、雨が降る」という仮説は検証されることはありませんでした。

 

正直に言えば、日照りの対策として、雨ごいは効果があるかわからないと感じた人もいたと思います。

 

しかし、代替案はありませんので、雨ごいを否定することはありませんでした。

 

効果はないかもしれないが、雨ごいをしても実害はないので、中止するまでもないという判断です。

 

現在、少子化対策に、出産費用の補助を拡大しています。

 

「出産費用の補助を拡大すれば、出生率があがり、少子化は止まる」という仮説が採択されています。

 

この仮説には、効果はないかもしれないが、出生率を下げるという実害もないので、中止するまでもないという判断がなされます。

 

つまり、出産費用の補助と雨ごいは、同じ人文的文化に属しています。

 

この実害はないという意味は、あくまで、出生率の変化に対してであって、財政的には、他の少子化対策との効率比較が必要なことは言うまでもありません。

 

しかし、この視点は、経済学の費用対便益分析の範疇にあるので、人文的文化からは、見えないので、検討されません。

 

このように現在でも、人文的文化が広く使われています。

 

(2)代替科学

 

方程式は解けないが、経験科学には戻りたくない。

 

計算コストが高いので、計算の代替手段が必要である。

 

こうした科学をここでは、代替手段の科学という意味で代替科学と呼ぶことにします。

 

ソロバンの普及してない欧米では、掛け算をするために、計算尺が使われいました。(注1)

 

統計学の教科書に付録には、確率分布の数表が載っていました。

 

電卓が普及して、計算尺と数表がなくなりました。

 

近代経済学微分方程式で記載されます。

 

これは、計算科学で、解くことができます。

 

40年前に高名な権威のある経済学の教授が解くことのできなった問題を、2023年には、学部の学生が簡単に解くことができます。

 

40年前には、計算科学の進歩はゆっくりでしたし、何よりもコンピュータは高価でしたので、誰でも使うことは出来ませんでした。

 

そこで、経済学では、図式解法が多用されています。

 

図式解法は、微分方程式の代替解法ですから、代替経済学とも言えます。

 

これは、計算尺と同じレベルなので、早く、コンピュータ言語に切り替えるべきなのですが、計算は、電卓できるほど簡単ではないので、数学とコンピュータ言語の理解が必要です。



残念ながら、経済学の教科書の多くは、図式解法が中心です。

 

方程式中心の教科書を書いたバリアン氏は、経済学の教授から、Googleの幹部に転職しました。バリアン氏は、「データサイエンティストは21世紀のもっとにイカした職業だ」といったことで有名になりました。

 

筆者の専門は水資源です。水の移動を記載する方程式を解く学問は流体力学です。

 

流体力学微分方程式であるナビエストークス方程式は、数ある微分方程式の中でも、解きにくい最も手ごわい方程式です。

 

そこで、水資源の学問では、流体力学の方程式を解かない代替科学が発達して、水文学と呼ばれるようになりました。

 

水文学の多くの課題は、流体力学の方程式に計算科学を適用すれば解けます。

 

筆者は、水文学は、そろそろ代替科学を卒業してもよいと考えますが、経済学同様、切り替えが進んでいません。

 

4)経済政策の疑問

 

日銀は、2013年4月に大規模金融緩和(通称「異次元金融緩和」)を出動しました。

 

このような経済政策の効果は、計算科学の経済モデルで推定できます。

 

経済モデルには、生産性の向上が含まれていないので、中期的な予測では、温暖化のシミュレーションのように、生産性の向上の部分はモデル推定値ではなく、シナリオを作って対応するしか方法がありません。

 

しかし、2013年から10年間の日本経済では、労働生産性の向上がほとんど見られませんでした。つまり、本来であれば、短期予測にしか使えない経済モデルが、中期予測にも使えたはずです。

 

日銀の経済政策の説明には、経済モデルは全くでてきませんでした。

 

これは、日銀の意思決定が、計算科学を使っていないことを示しています。

 

大規模金融緩和は、リフレ派の政策ですので、リフレ派には、計算科学のできる人がいなかったことがわかります。



5)経験科学の検証

 

マクロソフトのグレイ氏の4のパラダイムでは、一番、原始的な科学は、経験科学です。そこで、ここでは、簡単に、人文科学(人文的文化)が、経験科学に相当すると考えて議論しています。

 

しかし、雨ごいの例のように、人文科学(人文的文化)には、経験科学の水準にも達していない内容が含まれてい可能性もあります。

 

科学と非科学の区別は、検証にあります。

 

経験科学でも、検証はなされます。

 

高さ34mの薬師寺五重塔は、奈良時代に竣工しています。これをもって、奈良時代の建築技術が高かったという人もいます。

 

しかし、奈良時代五重塔は、これしか残っていません。つまり、悪い技術で建築された塔は淘汰されています。

 

お寺の塔は、宗教的モニュメントですから、コスト的には、余裕をもって、権威の象徴として建築されます。

 

過去の実績をみれば、どの程度の大きさの木を使えば、壊れないかの大まかなレベルがわかります。

 

クリティカルな木材の量は、壊れる確率と壊れない確率が50%の場合です。

 

五重塔は、クリティカルな木材の量に対して余裕をもっています。

 

クリティカルな木材の量は経験科学ではわかりません。これは部材強度の実験を行って、その結果を使った計算で求めます。

 

理論科学では、クリティカルな木材の量は高い精度で検証されています。

 

経験科学では、クリティカルな木材の量はわかりません。

 

経験科学の検証は、このように緩やかなものです。

 

現在の理論科学では、五重塔が壊れる可能性は、確率分布で与えられます。

 

五重塔が壊れる可能性は、確率分布の幅なしには求まりません。

 

この部分には、統計学(第4のパラダイムのデータサイエンスの一部)が入っています。

 

データサイエンスには。経験科学を置き換える強力な機能が備わっていますが、この点は、次回にまわします。

 

注1:

 

計算尺は、なくなってしまったので、補足しておきます。

 

積算は対数変換すれば、加算になります。そこで、対数目盛の物差しを作って、積算を加算に変換して計算するツールが計算尺です。物差しの目盛を読むので、最大でも3桁の精度しか得られません。