(人文的文化と自然科学文化の間には、断絶がありますが、最大の差異はエラーリカバリーです)
1)自然科学文化のルール
以下では、人文的文化として、経験科学が、自然科学文化として、理論科学、計算科学、データサイエンスが、該当すると考えています。
自然科学文化の基本は仮説と検証です。
自然科学の本体は仮説とある程度検証された仮説である学説から構成されます。
仮説は、データによって検証され、問題が見つかった場合には、エラーのある仮説は修正されます。
このエラーリカバリーのシステムが内包されていることが、自然科学文化の特徴です。
この検証のために必要な前提は、仮説の適用範囲です。
統計学やデータサイエンスでは、仮説は、常にある母集団に対する仮説になります。
母集団を想定しない仮説は、物理法則のような例外的な場合だけです。
人文的文化では、母集団が明示されることはすくなく、自然科学文化と同じレベルで、仮説が検証されることはありません。
人文的文化では、「ある法則が、8割程度のケースで当てはまる」という表現がなされることがあります。
この法則は、母集団に対して、2割のケースでは、当てはまらないことになります。
つまり、2割では、法則が当てはまらないという反例のエビデンスが見られても、反例によって、法則が修正されるエラーリカバリーが起こりません。
おなじ法則を、データサイエンスで記述すると、「母集団に対して、法則が成立する確率は80%である」が仮説になります。
この80%が大きく変化する場合には、仮説の修正をおこなうエラーリカバリ―が働きます。
「母集団+確率」が、検証する場合のポイントです。
2)人文的文化の理論の順序
人文的文化には、検証に替わるものがあるのでしょうか。
筆者は、それが、理論の順序ではないかと考えています。
これは、芸術を例にとれば、理解しやすいと思います。
クラシック音楽でいえば、ベートーベンのような古典派が出てきて、その後、ロマン派が出てきます。20世紀に入ると、従来の和音を使わない大変耳障りの悪い音楽が主流になります。20世紀に入っても、後期ロマン派と呼ばれる従来の和音をつかい続ける人もいます。その場合には、ロマン派の音楽と常に比較されてしまいます。現代音楽の理論に基づけば、比較されるリスクはなくなります。
つまり、理論の順序に基づいて、新しい理論を使うのであれば、過去の大家と比較されるリスクは少なくなります。過去の大家との勝負は、分が悪いので、現代音楽を志向する人が大半になります。最近では、それが、行き過ぎて、ロマン派の回帰が起こっています。
理論の順序は、「仮説の修正をおこなうエラーリカバリ―」ではありませんので、古い理論が生き残ります。
人文的文化は、人生は複雑で白黒がつかないのだから、理論の順序に基づく経験科学でよいといいます。
自然科学文化は、「エラーリカバリ―」のプロセスがなければ、いつまでも間違いを繰りかえすので、付き合いきれないと考えます。
芸術や人生の目的が課題であれば、理論の順序に基づく経験科学でよいと思われます。
データサイエンスは、芸術や人生の目的には関心がありません。
データサイエンスは、バッハと同じような作曲をするソフトウェアを作ることができます。
しかし、そのソフトウェアには、バッハがもっていたような表現意欲(あるべき音楽の理論)はありません。あるのは、音の組合せパターンをバッハに模倣するアルゴリズムです。
一方、企業の収益や、国の経済成長、労働者の賃金上昇などは、自然科学文化で、「仮説の修正をおこなうエラーリカバリ―」を行えば、必ず状況は改善します。
こうした問題に、「エラーリカバリー」のない人文的文化を持ち込めば、問題が改善しないのは当然です。
人文的文化には、「エラーリカバリー」がないという特徴は際立っています。
ビジネスの新刊書や、WEBのビジネス記事を見ると、「日本経済の停滞の原因は、XXだ」といった記事があふれています。
仮説を立てることは、スタートで、これを避けることはできません。
筆者も、仮説を提示しています。
しかし、それは、仮説であって検証が必要です。つまり、「エラーリカバリー」の手順にのせないと始まりません。
人文的文化には、「エラーリカバリー」が欠けています。
「日本経済の停滞の原因は、XXだ」と書いている著者は、自分だけが本当の秘密を知っているとでも言いたげな書きっぷりです。もちろん、それは、本を売るためのテクニックです。
しかし、同じ著者が、5年前には、「日本経済の停滞の原因は、YYだ」と書いていた可能性があります。
「エラーリカバリー」がないと、間違いが無限ループで繰り返されます。仮説は、選抜されずに、生き残ります。
このような態度は、自然科学文化のルールでは、認められません。
人文的文化で生きている人は、「エラーリカバリー」がない仮説の無限ループが気にならないのかもしれませんが、自然科学文化で生きている人にとっては、これは、耐えがたいストレスになります。