成長と分配の経済学(5b)~2030年のヒストリアンとビジョナリスト

社会科学は役に立っているか

成長と分配の経済学(5)の「データサイエンスと社会科学」の改訂です。

(社会科学は、役にたっているかという1976年のOECD調査報告の疑問を考えます)

 

1)社会科学の役割

2022/0/7/26の日経新聞の一面に、「縮む国『人財投資』で復活」というタイトルで、1934年のスウェーデンのミュルダール委員会による少子化対策を引用しています。

しかし、この記事には、違和感を覚えます。1934年のスウェーデンのミュルダール委員会による少子化対策を引用するのは、完全にヒストリアンの視点です。ミュルダール委員会から80年が経っていますから、人口問題に関する社会科学は、進歩しているはずです。

どうして、最新の研究成果が引用されないのでしょうか。あるいは、人口問題に関する社会科学の研究者や学会は、新聞記者の目につくように、解決策を提案していないのでしょうか。

 

2)1976年のOECD調査報告

 

およそ50年前の1976年に、OECD調査団が日本にきて、日本の社会科学について、次のような批判をしています。

(1)現実から遊離して抽象的である

(2)外国から学んだ一般原理をつたえるだけで、独自の研究が皆無に近く、その水準も全体として遅れている

(3)研究の成果が国の政策に反映されず、政府自身も(経済学以外の領域では)真剣にこれを求めていない

 

簡単に言えば、日本の社会科学は、オリジナリティのレベルが低い上に、実社会の役にたっていないという指摘です。

 

1980年頃の日本の社会科学は、イデオロギーの時代でした。

どうして、イデオロギーがまかり通るかと言えば、データが不足して、白黒がつかないので、考え方の妥当性で判断するしか、基準がなかったからです。

1976年は、電卓が出始めたころです。デジタルデータがストレージに保存されている量は少なく、多くの学問では、図式解法が近似解を求める方法として使われました。

こうした状況では、白黒がつかないので、権力に近い側の権威に優位性があります。

 

3)我田引水の科学

白黒がつかないので、考え方の妥当性で判断する以外に、基準がない場合、官庁は、政策遂行に都合のよい論理や、都合の良いデータを集めます。

情報処理が優秀な官僚とは、都合のよいデータや権威のある学説を集めることが上手な人を指します。

この流れは、現在も続いていて、国産のコロナウイルス薬候補が見つかると、効果が判定されていないにもかかわらず、推奨する政治家もいます。そこで、政治家の希望通りに、コロナウイルス薬が認可されない理由は、薬の有効性の判定には、ランダム化試験(RCT)と呼ばれるデータサイエンスの手法を使うことが義務づけられていて、その手法で、有効性が認められなければ、認可されない仕組みになっているからです。

 

これは、科学的効果はないが、裸の王様のための薬が認可されない仕組みです。実際に、効果がない薬が認可されて、広く使われれば、大変なことになります。裸の王様のための科学や、我田引水のための科学をさける方法でもあります。

科学の分野でも、かつては、都合の悪いデータは取り除いたり、引用文献に、都合の悪い研究を意図的に排除するなどの我田引水が行われてきました。

そのようなデータ操作や文献操作をした疑惑は、遺伝法則のメンデル、第1回ノーベル物理学賞を受賞したウィルソン、ノーベル化学賞と平和賞を受賞したライナス・ポーリングなどが取り上げられることすらあります。疑惑の真偽は別にして、自然科学の分野では、バイアスのあるデータ操作に対する監視が強化されつつあることは事実です。

 

1990年頃までは、社会科学には、権力者の裸の王様の論理をサポートする役割が当てはめられてきましたが、データサイエンスの進歩は、バイアスのあるデータ処理を強く排除することを求めますので、裸の王様のための科学は、欧米では、絶滅しています。

また、利害関係者を排除するルールも適用されています。

 

4)社会科学は役にたっているのか

 

ここで、再び、1976年のOECD調査報告の「社会科学は役にたっているのか」という質問に戻るべきでしょう。

 

日本経済新聞が、1934年のスウェーデンのミュルダール委員会による少子化対策を取り上げたということは、新聞の記事の執筆者には、日本の研究者の少子化対策の研究は目に入らなかったことを意味します。

ミュルダール委員会はヒストリーですから、その提案が有効であったかという点については、ランダム化試験を行った場合ほど、客観的ではありませんが、一応の結果が出ていて、評価が可能です。

一方、現在の日本の少子化対策は、ヒストリーではなく、ビジョンです。ビジョンには、唯一の正解はありません。正解は、時間がたたなければわかりません。なので、複数のビジョンが出て、お互いに競い合っている状態が健全です。

しかし、こうしたビジョンは、日本ではほとんど見当たりません。

 

1976年のOECD調査報告の3番目の指摘は以下でした。

「(3)研究の成果が国の政策に反映されず、政府自身も(経済学以外の領域では)真剣にこれを求めていない」

 

国の政策に反映されているのは、国の審議会や委員会です。ということは、1976年のOECD調査報告は、一般の研究成果と、国の審議会や委員会の関係を見直せといっていることになります。

 

国の審議会や委員会は、肩書だけ見れば、そうそうたるメンバーが並んでいます。

ここに、問題はあるのでしょうか。

大きな問題があります。

問題解決に必要とされるのは権威ではなく、問題を解決する正解です。

しかも、正解の候補はありますが、正解はありません。

正解は、やってみないとわからないのです。

そのためには、複数のビジョンを作成した上で、ビジョンを絞り込んだ上で、複数のビジョンを試してみる必要があります。

国の審議会や委員会は、事前にゴールが設定されていて、そのための審議をします。つまり、正解がわかっているという前提で、正解に合わせて、審議します。これは、裸の王様のための科学であって、ビジョンではありません。

 

1990年頃までは、政策に白黒をつけることはできませんでした。それまでは、権威をつかった政策遂行には、合理性がありました。しかし、その後のデータサイエンスの発展によって、科学的に政策に白黒をつけることが可能になりました。データサイエンスが、権威を破壊したのです。

 

データサイエンスは、津波のように、ありとあらゆる学問分野をのみこんでいきました。それは、データがあって、データの処理を伴う科学であれば、データサイエンスの影響を受けない分野はないためです。

 

1976年のOECD調査報告に指摘されたように、社会科学が、政策に対して、発言したり、提言する力は、未だ弱いように感じられます。それは、社会科学が、国の審議会や委員会と同じように、事前にゴールが設定された研究をしているためかもしれません。それは、行政の施策を前提とした、裸の王様のための科学になっているためかもしれません。

しかし、社会科学が、データサイエンスを十分に、吸収できていないためとも思われます。

この検討を進めるには、データサイエンスが自然科学以外に与えた影響を振り返る必要があります。



引用文献

 

日本の社会科学政策 OECD調査報告 1976/09/17 朝日ジャーナル

OECD調査団『日本の社会科学を批判する』(講談社学術文庫,1980年)