ビジョンができる時~2030年のヒストリアンとビジョナリスト

帰納法は間違えますが、帰納法演繹法をセットで使うことが基本です。介入は、ビジョンを生み出す有効な方法です)

 

帰納法は、間違えます。しかし、帰納法を全く使わずに、ものを考えることは困難です。

 

ものを考えるとき、帰納法演繹法はセットで使われます。この2つの手法の間を思考は行き来します。

 

ラッセルの七面鳥の定理の問題点のひとつは、演繹法を単独で切り離して使うことができると考えた点にあると思います。

 

ビジョンは、演繹法ですが、ビジョンのアイデアは、演繹法の中からは出てきません。

 

冒険家の角幡唯介氏は、「人間誰しもひとつの物事に打ちこみ、経験をつんでいけば、いろいろなことがわかるようになってくる。経験とは何かというと、ひとつには想像力がはたらくようになることだ」といいます。

 

経験をつむことは、一般的には、帰納法と思われています。一方、想像力がはたらくことは、ビジョンであり、演繹法です。

 

つまり、角幡唯介氏は帰納法演繹法は、常にセットで使われているといいます。

 

角幡唯介氏の検討対象は、冒険です。角幡唯介氏は、冒険をひとつこなすと、次のより困難だが実現可能な冒険のビジョンが見えてくることを論じています。

 

登山などの冒険家の場合には、より困難だが実現可能な冒険の計画にビジョンが拡大するトレンドと年齢による体力の低下のバランスが、43歳で崩れるので、43歳で亡くなる冒険家が多いというのが、小論の趣旨です。角幡唯介氏は、この43歳は、登山などの冒険家の場合であって、スポーツの分野によっては、異なると考えています。

 

角幡唯介氏の考察は示唆に富んでいます。

 

経験は、想像力を生み出すので、帰納法以上のもの(帰納法+α)です。

 

ここには、深い問題点があります。問題は、+αが何かという点です。

 

経験以外を全て、否定してしまうことは簡単ですが、ビスマルクの「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という課題に直面します。

 

一方、経験は、ある分野では絶対的な価値を持ちます。

 

兵士は、実戦経験があるか否かで、思考法が決定的に変化すると言われています。

 

だからといって、経験を積ませるために、戦争を起こすわけにはいきません。

 

経験は貴重ですが、それに限定されずに、歴史を経験に少しでも近づけるための工夫が必要です。

 

この問題に対する解答のひとつは、ジューディア・パールが、考えた「介入」というアイデアです。

 

冒険家は実際に登山をして、その記録を出版します。そこには、登山の歴史が書かれています。

 

出版物(登山の歴史)を読者が読みます。

 

冒険家が書いた文字と、読者が読む文字は、同じものです。

 

この2つのデータは見たところは同じですが、価値は全く違います。

 

情報は見た目が同じでも、本質が異なる場合があるというのが、ジューディア・パールの主張です。その価値の差を生み出すものは介入であると考えます。

 

登山家は、自分が登山という行為に介入して初めて、データを得ることができます。人間の経験の多くは、対象を観察して得られるのではなく、対象に働きかけ(介入して)得られるものです。

 

登山家は、登山をして、本を執筆するという働きかけの結果、歴史を書いた文字を生み出します。

 

読者は、本を読むという介入によって、歴史を書いた文字に接します。

 

本を読む場合の介入にもレベルがあります。

 

ここで、筆者は、文章を書くための読書という介入レベルで、角幡唯介氏の小論に接しています。

 

学校で、教科書に載っている文章の場合には、より受け身になって介入レベルが下がります。

 

教師が、教科書を音読していて、学生がスマホに興じて入れば、介入レベルはほぼゼロになってしまいます。

 

ある人が、ビジョンを描けるか、いろいろなことがわかるようになってくる経験をつんでいるかは、その人の介入レベルを見ればわかります。

 

官僚の書いた原稿を読んでいる政治家に、ビジョンが描けない理由も、この点に着目すればわかります。

 

引用文献

 

何でもやれると勘違いしやすい…「43歳」に多くの冒険家が命を落とすのは偶然ではない  2022/04/24 PRESIDENT Online 角幡唯介

https://president.jp/articles/-/56524