オリンピックと計算論的思考

JOCの森会長辞任に伴い、後任選びが進んでいるようですが、今回は、オリンピックの変容と行き詰まりを考えてみます。

オリンピックの変容

前回の東京オリンピックの時と、今回の東京オリンピックにはおおきな違いがあります。前回の東京オリンピックでは、オリンピックはアマチュアスポーツの祭典であってプロスポーツは含まれていませんでした。

この方式が大きく変化したのは、1984年のロサンゼルス・オリンピックからです。この大会は1セントも税金を使わずに行われました。

1980年に行われたモスクワオリンピックでは、アメリカ、日本、西ドイツ、大韓民国サウジアラビア、トルコ、エジプト、インドネシアなどの国々が政治的理由で、参加しませんでした。

その報復として東側諸国(ソビエト連邦東ドイツポーランドチェコスロバキアハンガリーブルガリアベトナム、モンゴル、北朝鮮キューバエチオピアアフガニスタンアンゴラ、イラン)はロサンゼルス・オリンピックをボイコットします。

1984年大会の開催都市立候補はロサンゼルス市だけで、このころ、オリンピック開催は不人気でした。

オリンピックは、ロサンゼルス大会から、アマチュアリズムを排して、商業主義のスポーツの祭典に変化します。これは、その当時、社会主義国が国策として、スポーツ選手を育成していたのに対して、資本主義国では、そのような政策がとれなかったことに対する補填の意味と、記録面で、アマ、プロを問わず、オリンピックが世界一を決める大会であるという位置づけをしたかったためと思われます。(注1)

モスクワオリンピックの不参加国がでたことから、政治的な問題を抱えやすいオリンピックをさけ、1983年から、世界陸上競技選手権大会も開催されます。

つまり、1983から1984年は、スポーツ大会の商業化の始まりです。

オリンピックの行き詰まり

オリンピックが、商業化して、新興国は復興を印象づける形で、オリンピックの開催に人気がでます。しかし、組織の寿命は30年ともいわれます。ここにきて、オリンピックは再び曲がり角に来ているように思われます。

箇条書きで例をあげます。

  • コロナウィルス問題がありますが、これは、棚上げにします。

  • 収入の大きな部分は放映権ですが、テレビを見る人は減っています。ネット配信の場合には、自分に関心のあるスポーツしかみません。世界陸上競技選手権大会や、サッカーのワールドカップは分野別です。オリンピックの放映権は抱き合わせ販売なので、見たくないスポーツの放映権のお金も払わされることになり、非常に割高になります。ネット配信を使っている人から見れば、今時、ありえない悪しき商習慣にしかみえません。(注2)簡単に、いえば、世界陸上競技選手権大会で十分なのです。

  • コンセプトの喪失と商業化のつけがきています。経済的に余裕のある人が多い場合には、商業主義やコンセプトの喪失に対して、人びとは寛容です。しかし、リーマンショック以降、貧富の差と、社会の分断が深刻になっています。政治的には、商業主義のオリンピックより優先する課題があるということです。この場合に、ロサンゼルス大会のように、「1セントも税金を使わずに行われ」れば、まだよいのですが、今回の東京大会のように、無制限に、税金をつぎ込むと、ロサンゼルス大会の前の「オリンピック開催は不人気」が復活します。この点では、東京大会は、開催される、されないにかかわらず、オリンピックの歴史にマイナスの記録を残すことになりそうです。

  • BRICSに続く、新興国はほぼ、出そうにありません。10年くらい前には、21世紀は、アフリカの世紀ともてはやされていましたが、現状では、貧富の差の問題、政治不安と武力闘争の問題が解決できず、一部の人は豊かになりますが、それが、広がるまでには、もう少し時間がかかりそうです。産油国も、石油価格が低迷して、最近は勢いがありません。東京以降は、オリンピックの開催国は、過去にオリンピックを開催したことのある先進国と経済大国に回帰しています。

  • オリンピックの競技の記録の進歩は、使用機材の性能向上に大きく依存しています。(注3)これは、オリンピックだけでなく、最近のスポーツ全般の傾向です。つまり、記録は、商業主義の影響を強く受けています。例えば、今年の箱根駅伝は、アディダス社の2種類のシューズの性能競争だったという分析もあります。あるいは、パラリンピックの選手の記録が、オリンピック選手の記録を上回ることも起こっています。こうなるとスポーツの新記録に価値があるのか疑わしくなります。これは言うなれば数学オリンピックに電卓を持ち込んでいるようなものです。こうした場合には、「一切禁止」または、「何でもあり」の2つの基準はわかりやすいですが、その他は恣意的になります。また、歴史的に見て、過去の選手の成績と比較するのであれば、補正係数を使うべきです。

  • オリンピックは平和の祭典ともいわれますが、これには、逆説的な意味があります。スポーツ、なかんずく、チームスポーツは、軍隊の訓練用に発達します。ですから、集団スポーツで優勝することは、わが国の軍隊のチームプレーは、オリンピックで優勝するほど優れているのだから、戦争を仕掛けても、勝ち目はないぞと警告していることになります。さて、現代の戦争は、ロボット戦争になりつつあります。この流れからすると、人間ではなく、ロボットの性能競技会の方が、平和に近づく大会としてはよりふさわしい気がします。

オリンピックを開催する意味がなくなったとは思いませんが、施設の整備や、警備、コロナ対策などを考えれば、物理的に同じ時期に同じ場所に集まって実施することは、費用対便益に見合わないと思います。巨大な施設は、オリンピック後には、遊休施設になり、維持管理費は自治体の財政を圧迫します。計算論的思考でいえば、WSやPCが出てくる前の1980年頃までのメインフレーム中心の考え方に固執しています。(注4)インターネット、分散処理、クラウドなどが一般的になった現在の世界観に取り残されています。テレビの放映権中心のオリンピックの財政も行きづまっています。こうした場合の対応処置には、次の2種類あります。

  1. 現在のIOCが、時代に合うように改革するのを期待する。

  2. 世界陸上競技選手権大会のように、オリンピックに変わるエコシステムが登場するのを待つ。

パラダイムシフトが起こる場合に、適切な対処は、1.ではなく、2.になります。

注1:

これは、賞金金額が減って、一時期人気に陰りが見えたノーベル賞に似ています。最近は、資産運用の利率が下がっているので、そのうち、ノーベル賞の賞金の引き下げがあるかもしれません。

注2:

IOCの大きな収益が放映権であること、放映権の支払い団体である民放やNHKの経営は、ネット配信に比べて生き残れないことが確実になっているので、今後は、オリンピックの開催方法は維持できなくなる可能性が高いです。ネット配信は放映権を買うことはあり得ますが、かれらのビジネスモデルと異なる一括抱き合わせ販売では応じないでしょう。そうなると人気のないマイナーな競技は消滅し、規模が小さく(経済合理性からみて適正に)なると思われます。

注3:

前回の東京オリンピックでは、その前のローマ・オリンピックではだしで走ったことで有名になったアベベ・ビキラがマラソンで2連勝します。はだしだったのは、靴が壊れたためらしいですが、少なくとも、このころまでは、靴の性能で優勝が決まっていなかったことは確かです。ちなみに、東京オリンピックでは、彼は、契約していたプーマのシューズで参加しました。また、このころの日本ではアマチュア意識の高さから、マラソン選手が、専属スポンサー契約を結べる環境になかったと言われています。

注4:

JOCの役員の年齢をみていると、メインフレーム時代の人が多いので、やはり、その点で、IOCとの相性が良いのだろうと思います。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%99%B8%E4%B8%8A%E7%AB%B6%E6%8A%80%E9%81%B8%E6%89%8B%E6%A8%A9%E5%A4%A7%E4%BC%9A

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%99%E3%83%99%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%AD%E3%83%A9