哲学と哲学史
哲学を含む人文科学の世界では、理由はよくわかりませんが、昔から、哲学史と哲学の区別が問題にならないようです。もちろん、例外もあり、ウィットゲンシュタインは、哲学史には全く関心はなかったようです。ケンブリッジ大学の講義論が生徒ノートを元に出版されていますが、それを見ても、哲学史への言及がゼロではないしにても、関心の中心が、今ここにあることとどのように哲学が対峙するかという点にあったと思われます。
しかし、通常の哲学のカリキュラムは、哲学史のカリキュラムになっていますし、ギリシア哲学(ギリシア哲学史ではありません)が専門である、カント哲学(カント時代の哲学史ではありません)が専門であるという人がいます。
これが、物理学であれば、カリキュラムはニュートン以降になり、数式表現としては、オイラー以降になります。それ以前の物理学は、歴史学の一部である物理学史であって、手法的には物理学とは異なるとみなされています。
つまり、古い知識は、その時代の背景や利用できるデータからみると、最高の知性が、最大の努力をしたことは認められるが、現代においてはあえて学習するには値しないという判断です。
さらに、古典力学(ニュートン力学)は基礎課程にはありますが、既に、完結しているので、ニュートン力学を専門に研究している物理学者はいないと思います。解決した問題は、研究対象にはなりません。
哲学の専門家と呼ばれる人には、ギリシアまでいかないにしても、古い哲学が専門であるという人が多数いますし、専門でなくと、自分の意見を述べるときに、「カントもいっているように」とか「マルクスのZZに書いてあるように」と昔の著名人を引用する人もいます。
これが、物理学ですと、「ニュートンも言っていますように」というと、口には出しませんが、「アインシュタインは読んでいないということで大丈夫か」という突っ込みが入ることが必須です。ですから、誰もそのようなあえてリスクをとる発言はしません。
大体、自然科学では、古い学説は、その後、間違いが見つかって修正または、改訂によって更新されるのが普通です。
ですから、自然科学者は、紛争を避けて、明言は避けますが、「ギリシア哲学史の専門家ではなく、ギリシア哲学の専門家がいるということ」は、古い学説の更新ができていないことを意味しますので、胡散臭い学問だなと心中では思っています。文学部廃止論が出ても、文学部外から反対運動が大きく怒らない理由のひとつが、この辺りになります。
それでは、ソクラテスは間違っているのでしょうか。
ソクラテスの期末試験
ソクラテス先生が、データサイエンスの期末試験を受けます。
試験課題:
「知識レベル(知と無知)の判別関数」について論じなさい。
ソクラテス先生はまっていましたとばかりに、自説を披露します。
採点者がいいます。先生、ダメです。それでは、単位をさしあげられません。
先生の説明では、知と無知は、2値になってしまって、途中の確率がありません。
10問解いて、3問しか解けないこともあります。知識レベルは確率変数です。
確率分布を考えないで知識レベルを議論してはいけません。
先生の方法では、正しい答にたどり着けません。
先生は、分布を無視して、10問中、1問でも間違えれば、それは、間違いであると判断されているように思われます。
この方法には2つの問題点があります。
第1に、人間は勘違いや間違いをするので、知っていることでもエラーを起こすことがあります。先生は「無知の知」を主張されますが、先生のおっしゃりたいことは「人間はエラーをする」ということでしょうか。そうではないように聞こえますが。
第2に、確率変数である知識レベルを2値に集約するという情報縮約は、データサイエンスでもありますが、この場合の、縮約は、元のデータの情報を最大限に保存することが必要です。例えば、主成分分析はこうした方法に相当します。先生は、主成分分析は有用なので、使うべきである主張されているのでしょうか。「10問中、1問でも間違えれば、それは、間違いである」という処理は主成分分析にはのりません、ですので、先生が主成分分析を使うべきであるといっているようには、思えないのですが。
結局、先生は、知識レベルのデータの属性を取り違えていると思われます。
したがって、単位は差し上げられません。
実は、「知識レベル(知と無知)の判別関数」は冗談ではなく、重要です。
これは、テストの可能性に結びつきます。次回に、その点について述べます。