0-8)ルイセンコの亡霊
英語版ウィキペディアの「ルイセンコ主義」の説明の一部を引用します。
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ルイセンコ主義 は、ソ連の生物学者トロフィム・ルイセンコが中期に遺伝学と科学に基づいた農業に反対して主導した政治キャンペーンでした。20世紀、ラマルクス主義の一形態を支持して自然選択を拒否し、春化と接木技術を拡張しました。
3,000人以上の主流生物学者が解雇または投獄され、科学反対派を弾圧するソ連の作戦で多数の科学者が処刑されました。ルイセンコ氏の指導者だったが後にルイセンコ氏を非難したソビエト農業アカデミー会長ニコライ・ヴァヴィロフ氏は刑務所に送られ、そこで死亡し、ソ連の遺伝学研究は事実上破壊されました。神経生理学、細胞生物学、その他多くの生物学的 分野の研究と教育は損害を受けたり、禁止されたりしました。
ソ連政府はこの運動を支援し、ヨシフ・スターリンは、すべての科学は本質的に階級であるというルイセンコの主張には懐疑的であったにもかかわらず、後にルイセンコ主義として知られるものへの支持を反映する形でルイセンコの演説を個人的に編集しました。ルイセンコはソ連のレーニン全連合農業科学アカデミーの理事長を務めました。ポーランド人民共和国、チェコスロバキア共和国、ドイツ民主共和国を含む東側諸国は、程度の差こそあれルイセンコ主義を公式の「新しい生物学」として受け入れ、中華人民共和国も数年間同様に受け入れました。
ルイセンコ主義は1949年から1956年まで中国科学を支配しました。その後、 しばらくの間、両派の共存が認められました。大躍進時代(1958年5月から1961年1月)には遺伝学のシンポジウムでルイセンコ主義の反対派が自由に批判し、メンデル遺伝学を主張することが許されていました。 シンポジウムの議事録の中で、譚家鎮氏は「ソ連がルイセンコ氏を批判し始めて以来、我々もあえて彼を批判してきた」と述べたと伝えられています。1956年以降も、ルイセンコ派の影響力は数年間大きく残り、収量の減少により大飢饉の一因となりました。(注1:大躍進前後の記述は整理要約しています)
西側の科学者の中でほとんど唯一人、ロンドン大学バークベック・カレッジの物理学の教授で王立協会フェローであったジョン・デスモンド・バナールは公にルイセンコを積極的に弁護し、数年後には「科学者としてのスターリン」の追悼記事を書きました。しかし、バナールの支援にもかかわらず、イギリスの科学界のその他の者はソ連の表立った支持から撤退しました。
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日本語版ウィキペディアの「ルイセンコ論争」の記述のニュアンスは異なります。特に、ラマルクス主義の記述がない点は、気になります。
ニュアンスの差は別にして、英語版にのっていない記載を引用します。
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朝鮮民主主義人民共和国でも、金日成の指導の下にルイセンコ学説を利用した主体農法が実施されたが、土地の急速な栄養不足に陥り、これに天候不良が重なることで1990年代の食糧不足につながった。
日本の学界にも1947年にルイセンコの学説を擁護する学者があらわれ、ルイセンコの提唱した低温処理を利用するヤロビ農法が寒冷地の農家に広まった。日本では生物学者の八杉龍一、徳田御稔、佐藤七郎、石井友幸、理論物理学者武谷三男、科学教育研究の板倉聖宣、哲学者三浦つとむらがルイセンコ学説を支持し、動物遺伝学者駒井卓、遺伝学者田中義麿らがルイセンコ学説を批判した。ルイセンコ論争に関わったマルクス主義生物学者中村禎里は、初期には科学に基づいていたが、科学が政治化したためにルイセンコ主義は失敗したと総括した。
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ルイセンコ主義から、次の点を学ぶことができます。
(1)政治主導:
政治主導(イデオロギー優先、リベラルアーツの自然科学に対する優先)を行ない、自然科学を無視すれば、リアルワールドで問題がおこるという事実です。
中国では、大躍進の時代に、朝鮮民主主義人民共和国では、1990年代に、食糧不足に陥っています。
西欧の科学者で、政治主導に賛成した人は、ジョン・デスモンド・バナール氏一人だけでしたが、日本には、政治主導に賛成する科学者が多数いました。
これは、2024年現在も日本には、政治主導に賛成する科学者がいる可能性を示唆しています。
政治主導に賛成する科学者はイメージしにくいかも知れません。
岡田節人氏は、1949年から1950年頃の京都大学の大学院での体験を生物学のイデオロギーの時代であったと回想しています。
岡田節人氏は、生物学のイデオロギーが消滅した原因は、遺伝子研究の進歩にあり、時間がかかったといいます。
<< 引用文献
ルイセンコの時代があった – 生物学のイデオロギーの時代に 岡田 節人
https://brh.co.jp/s_library/interview/30/
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(2)目的論:
ラマルクス主義も、春化と接木技術も、目的を設定して、それに向かって自然を改造できるという主張です。
アリストテレスの運動論では、ボールは目的に向かって移動していると解釈されました。
現象が、何かの目的を目指しているというアイデアは、擬人法になり、理解しやすいのかもしれません。
ダーウィンの自然選択は、目的に合わせて変異を発生させて、その変異を遺伝させることはできないという主張です。
ディズニー等の映画では、願いはかなうストーリーで、これはラマルク主義ですが、自然選択は、願いはかなうことを否定しています。
そもそも目的は、人間の意識の中にあるものです。
ボールが進行方向に進む目的を持っていると判断している主体は、ボールではなく、人間です。ボールは、人間の脳の中の状態を判断するセンサーをもっていませんので、ボールと目的は独立しています。
日本のルイセンコ論争については、 中村 禎里の「日本のルィセンコ論争」が基本文献です。
<< 引用文献
日本のルイセンコ論争 中村 禎里 (著)
初版『ルイセンコ論争』1967年刊
みすずライブラリー〉版『日本のルイセンコ論争』1997年刊、
新版『日本のルイセンコ論争』米本昌平新解説2017年刊
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米本昌平氏の解説の一部は以下で読むことができます。
<< 引用文献
米本昌平解説「『日本のルイセンコ論争』を読む──50周年記念版に寄せて」
https://www.msz.co.jp/topics/08620/
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米本昌平氏は、次のように書いています。
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近年、ルイセンコ学説の根拠とされた現象の一部は「エピジェネティクス」という
まったく異なるメカニズムで解釈できることが明らかになった。
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しかし、英語版ウィキペディアの「ルイセンコ主義」では、遺伝性のエピジェネティック効果は、ルイセンコ主義では説明できないと明確に否定されています。
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21世紀に入り、ロシアではルイセンコ主義が再び議論されており、その中には「クルトゥラ」のような立派な新聞や生物学者も含まれています。遺伝学者レフ・ジボトフスキーは、ルイセンコが現代発生生物学の発見に貢献したという根拠のない主張を行いました。 エピジェネティクスの分野での発見は、ルイセンコの理論の遅れた確認として取り上げられることがありますが、明らかな高レベルの類似性(DNA改変なしで受け継がれる遺伝的形質)にも関わらず、ルイセンコは環境によって引き起こされる変化が遺伝性の主なメカニズムであると信じていた点が異なります。遺伝性のエピジェネティック効果が発見されていますが、遺伝に比べて影響は小さく、不安定です。
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リベラルアーツとルイセンコ:
日本型のリベラルアーツには、イデオロギー(人文科学)は科学(自然科学)に優先するという主張があります。
1950年頃の日本の学会では、ルイセンコ主義を支持する科学者が多数いました。
岡田節人氏が回想しているように、京都大学では、生物学は、イデオロギー優先でした。
これは、欧米の学会ではなかった特殊な状況です。
筆者には、2024年の日本でも、リベラルアーツによって、イデオロギーは科学より優先するというルイセンコの亡霊(政治主導)が日本には生き残っているように見えます。
こども家庭庁を作ります。こども家庭庁は、少子化対策をする組織であると考えることは、ルイセンコ主義と同じ目的論です。
全ての遺伝子変異には目的がないように、全ての政策自体には目的はありません。
自然選択説に従えば、多数の変異の中から、条件にあったものをが選抜されて残るというプロセスのみが可能です。
自然選択説に従えば、「条件にあったものをが選抜されて残るというプロセス」をへずに、政策の選択はできないことになります。
政策選択には、色々なものを試して上手くいったものをのこす以外に方法はないように見えます。
日本では、政策効果のモニタリングも、政策の自然選択説も行なわれません。
ルイセンコの亡霊に支配されていえば、経済が破壊されても、不思議ではありません。