理論科学と経験科学のギャップ

(二つの文化論争自体は、古くからある実証主義と解釈主義の方法論の論争です)

 

1)スノーのギャップと方法論

 

まず、最初に、理論科学と経験科学の間のギャップを考えてみます。

 

チャールズ・パーシー・スノー(ウィキペディア、日本語、英語共通)を引用します。

 

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1959年に発表されたスノーの講義は、ビクトリア朝時代より自然科学教育を犠牲にして人文科学(特にラテン語ギリシャ語)に過剰な報酬を与えたとして、とりわけ英国の教育体系を非難するものだった。彼は実際のところ、このことが英国上流階級(政治、行政、産業における)による現代の科学界を管理するための十分な準備を奪ったのだと確信していた。対照的に、ドイツとアメリカの学校は市民に自然科学と人文科学を平等に教えようとしており、より優れた自然科学の教育によってそれらの国は科学時代にもっと効率的な競争ができるようになった、とスノーは述べた。「二つの文化」以降の議論では、英国の体系(学校教育と社会階級)と競合国の体系との違いにおけるスノーの初期の焦点をあいまいにする傾向が見られた。

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最後の文の「『二つの文化』以降の議論では」の主体がわからないのですが、The Two Cultures(Wikipedia)には、同じパラグラフがあり、最後の文は、「二つの文化に関するその後の議論は、」となっていますので、この議論はスノーの見解ではなく、英国での議論を指していると思われます。

 

The Two Cultures(Wikipedia)には、二つの文化論争の前例が載っています。

 

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前例

 

対照的な科学的知識と人文科学的知識は、1890 年のドイツの大学の メソード論争の繰り返しです。

 

  1911 年のベネデット クローチェとジョヴァンニ ジェンティーレとフェデリゴ エンリケスとの間の喧嘩は、イタリアにおける 2 つの文化の分離に永続的な影響を与えて、(論理的)実証主義よりも(客観的)理想主義の見解が優勢になったと考えられています。

 

  社会科学では、実証主義と解釈主義の対立としても一般的に提示されています。

 

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これを見ると、実証主義と解釈主義(理想主義)の方法論の論争が、以前からあったことがわかります。

 

スノーは、方法論論争を繰り返したわけではなく、問題は、教育カリキュラムの改善にあったと主張した点が「前例」と異なります。

 

また、スノーの論じた二つの文化は、教育カリキュラムの問題です。スノーは、人文科学という学問を論じたのではなく、人文科学という教育カリキュラムを論じています。

 

スノーは、「科学教育を犠牲にして人文科学(特にラテン語ギリシア語)教育に過剰な時間をさいている」と非難しています。

 

ラテン語ギリシア語(古代ギリシア語)の新しい文献は、新規の発掘と発見がなければ、追加されません。主な文献は既に翻訳済みです。経済学でいえば収量低減の法則が極限まで達していて、生産性が極端に落ちています。

 

スノーは、ラテン語ギリシア語を研究すべきではないと言っているのはありません。教育カリキュラムのウェイトが高すぎるといっています。

 

日本では、古文や漢文が、教育カリキュラムに入っています。ベトナムは、かって漢字を使ってましたが、現在は漢字の使用を中止したため、古典教育は行っていません。日本の古文の学習では、活字を読みますが、古文書(こもんじょ)の文字の崩し方は、地域と年代で異なるので、古文書の文字を広範に識別できる専門家はいません。現在、機械学習で、古文書を文字に変換するシステムが開発中です。






2)科学技術基本法の改訂

 

2020年には、科学技術基本法の、「人文科学のみに係るものを除く」という規定が、

人工知能(AI)や生命科学などが進展し、現代社会の課題を解決していくには

人文科学の研究も不可欠であるとして、この規定が削除されています。



筆者は、スノーと同じように、人文科学という研究分野が独立してあるとは考えません。

 

つまり、ギャップ(断絶)はあるが、対立は存在しないと考えます。

 

機械学習で、古文書を文字に変換するシステム」を開発すること、「文法を活用して、自動翻訳や文章校正の精度をあげる」ことは、人文科学ではないと線を引くべき理由は何もありません。

 

「旧科学技術基本法の、『人文科学のみに係るものを除く』という規定」は全く合理的です。この規定は、「人文科学のみ」を排除しているのであって、「人文科学」を排除しているわけではないからです。

 

線引きをしない研究者は、科学的文化を理解しています。

 

線引きをしたがる研究者は、「人文科学のみ」という人文的文化が独立して存在すると考えています。

 

The Two Cultures(Wikipedia)には、二つの文化論争の最近の例として次の事例が紹介されています。

 

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2014 年 1 月のミュンヘン安全保障会議での開会の辞で、エストニアのトマス ヘンドリック イルベス大統領は、サイバー空間におけるセキュリティと自由に関連する現在の問題は、「2 つの文化」間の対話の欠如の頂点であると述べました」

 

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これは、人文的文化で、科学的文化が理解できるというギャップを無視した議論の蒸し返しです。

 

エストニアの大統領の発言が、妥当であると考える根拠は何でしょうか。エストニアがIT先進国だからでしょうか。

 

思い出して下さい。ヒトラーが総統だったとき、ドイツ圏は科学技術先進国でした。科学技術先進国のトップの発言が正しいと考える理由はありません。

 

エストニアの大統領は、「2 つの文化」間の対話の欠如が問題の本質であるという根拠(エビデンス)を示している訳ではありません。

 

教育カリキュラム以外の二つの文化論争は、前例に見るように、実証主義と解釈主義(理想主義)の方法論の論争です。

 

この論争のは、クーンが指摘したパラダイムのギャップですから、相互理解はありえず、論争が終結することはありません。

 

本書が目指すゴールは、ギャップを理解することです。

 

次回は、「理論科学と経験科学のギャップ」とは何かを、ニュートン力学を例に考えてみます。