(科学と関数の関係を整理します)
1)関数の基本
数学の関数は、xとf(x)を対応させます。
写像と関数を区別する場合もありますが、ここでは、アバウトに考えます。
簡単な表記は、以下です。
f(x)<-x
この方法では、右と左の値が一致しないので、等式では、次のように書きます。
y=f(x)
以下では、値を問題にしないので、最初の表記を使うことにします。
因果モデルを関数で表わせば、xが原因、f(x)が結果になります。
原因が1つのことは稀ですが、xをスカラーに限定せず、ベクトル、マトリックス、テンソルに拡張することで対応ができます。
データにノイズが含まれている場合には、分離可能な原因はあまり多くないので、通常は、スカラーを3つ程度考えることになります。
スカラー表記では、これは次になります。
f((x、y、z))<-(x、y、z)
(x、y、z)は、スカラー表記のベクトルです。
フォンノイマンが、コンピューターを考えた時、コンピューターは、関数マシンでした。
f()を問題にしていました。
f()の、()の中は、何でもありという設計です。
しかし、現実のコンピュータシステムは、何かを対象に作成されます。
オブジェクトは、限定されます。
何でもありの汎用性は失われますが、関数をオブジェクトで整理した方が、便利な場合が多いのです。
現在のプログラミングには、オブジェクト指向と関数プログラミングの2つの流れがあります。
今後、第3の流れが出現する可能性が考えられますが、以上の考察からすれば、その可能性は低いと思われます。
科学は、因果モデルを扱うので、関数を問題にします。
オブジェクトと関数は区別されねばなりません。
2)オブジェクトと関数の区別
小宮信夫氏は、犯罪問題の専門家です。
小宮信夫氏は、「怪しい人には、気をつけましょう」というコピーはナンセンスであるといいます。
「怪しい人」という表現には、犯罪者というオブジェクトがあるという前提があります。
しかし、人間は、犯罪を犯すという関数によって、犯罪者になります。
生まれた時点で、犯罪者という人はいません。
これは、犯罪は、オブジェクトではなく、関数であることを意味しています。
犯罪防止とは、犯罪が起きにくい関数を設計する対策になります。
ネットワークでは、フェイク情報を取り締まれという人もいます。
しかし、フェイク情報というオブジェクトはありません。
ある情報がフェイクであるか否かは、フィルタ―(関数)をかけて判別するしか方法がありません。
人間が判断することも可能ですが、ネットワーク上の情報量が膨大なので、1次選抜は、プログラムによる関数を使うしか方法がありません。
Gmailには、スパムメールを除外するフィルタ―がついていて、かなり正確にスパムメールを除外しています。
ネットワーク上のフェイク情報についても、Gmailレベルのフィルタ―が使われていますが、それだけでは、十分ではありません。
フェイク情報の判別は、最終的には、人間が判断するかもしれませんが、処理可能なデータ量には限界があります。
また、人間が判断する場合でも、個人差、判断ミスがあります。
3)暗記のリンク関数
関数に戻ります。
f(x)<-x
これは、xとf(x)を対応(リンク)させています。
一番簡単な関数はリンク関数です。
さて、暗記は良くないという人もいます。
暗記とは何でしょうか。
「犬」を「dog」と暗記する場合、xが「犬」、f(x)が「dog」です。
犬は、既知と思いますが、dogのような英語は未知の場合があります。
頭の中で、何が起きているのかよくわかりませんが、取り合えず、dogが既知になったとします。
dogが既知になっても、試験では、犬というキーワードを入れないと、dogを取り出すことができません。
暗記する場合には、「犬」と「dog」のオブジェクトとリンク関数が既知である必要があります。
「dog」だけでは、解答を引き出すことができません。
英語の場合のリンク関数は比較的簡単ですが、他の教科ではより複雑になります。
文部科学省は、落第する学生数を制限しています。
落第させないためには、追試験をします。
このときに、本試験と別の問題を出すと、また、落第してしまいます。
そこで、本試験と同じ問題を追試験に使うこともあります。
その場合の学生の暗記のリンクは、解答用紙の場所に対してなされています。
暗記と一概にまとめるわけにはいきません。
学習すべき関数は何かを考えて教える必要があります。
数学の場合には、単純なリンク関数は、無効です。
他の教科の場合にも、因果律に基づく推論を行なっている場合には、単純なリンク関数は無効になるはずです。
問題は、暗記ではなく、教科の内容が単純なリンク関数になっていて因果モデルを含んでいないことであると考えます。
辞書のような単純なリンク関数は、スマホがあれば、十分です。
要するに、科学としての因果モデルの推論になっていない教科書があるということです。