(ミームを考えると、正義の女神が必要になります)
1)人権宣言
民主主義の基本は、人権宣言です。
アメリカの独立宣言(1776年7月4日)は、以下のように言います。
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われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る。
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ジェファーソンのアドバイスの入ったフランスの人権宣言( 1789 年 8 月 26 日)は、国民主権の原則と国民間の社会的平等を主張し、「すべての国民は、法の観点から平等であり、すべての国民に平等に認められる」と述べた。 「その能力に応じて、その美徳と才能以外の区別なく、尊厳、地位、雇用を与えられる」と定め、貴族と聖職者の特別な権利を排除しました。
世界人権宣言の第1条は、以下です。
「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」
第七条には、次のように書かれています。
「すべての人は、法の下において平等であり、また、いかなる差別もなしに法の平等な保護を受ける権利を有する」
人権宣言は、「法の下において平等」を意味しています。
封建制の王権神授説では、権力の根源は、神でした。
人権宣言では、権力の根源を、神にするわけにはいきません。
アメリカの独立宣言では、「自明のこと」と「創造主」に、権力の根源を求めています。
フランスの人権宣言は、「法の観点」が権力の根源です。
世界人権宣言は、「法の下において」が、権力の根源です。
しかし、憲法は、国別に作られますので、世界人権宣言の「法」は、憲法のより上位の法であると思われます。
法(Law)の英語版のウィキペディアの説明は以下です。
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法とは、行動を規制するために社会または政府の機関によって作成され強制できる一連の規則であり、その正確な定義については長年の議論の対象となっています。それは科学や正義の技術としてさまざまに説明されています。
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「政府の機関によって作成される法」は、個別法です。
「社会によって作成される法」には、自然法の概念が入っています。
「科学や正義の技術」の引用文献は、次の2つです。
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Spooner, Lysander (1882). Natural Law; or The Science of Justice: A Treatise on Natural Law, Natural Justice, Natural Rights, Natural Liberty, and Natural Society; Showing that All Legislation Whatsoever is an Absurdity, a Usurpation, and a Crime. Part First. A. Williams & Co.
Núñez Vaquero, Álvaro (10 June 2013). "Five Models of Legal Science". Revus. Journal for Constitutional Theory and Philosophy of Law / Revija za ustavno teorijo in filozofijo prava (19): 53–81.
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「Natural Law; or The Science of Justice」と「Legal Science」という表現には、法は、科学になるべきであるという主張が見られます。
法が、科学になれば、物理法則のように、誰が扱っても、同じ答えが得られなければなりません。
つまり、究極の科学の法は、AIが解くことのできる法です。
AIが、解けずに、人間の介在が必要な場合には、法が、科学として、未だ、発展途上にあることを意味します。
2)ミーム
ルネサンスになって、中世の教会の権威が低下すると、ギリシアとローマの文化(美術、哲学、建築)が、脚光を浴びます。ローマの建築と土木構造物は、中世のヨーロッパにも、残っていて、利用されていました。
ギリシアとローマの文化(美術、哲学、建築)が、何故、教会の権威と衝突せずに、受け入れられたかという点には、疑問があります。
ここでは2つの可能性があります。
第1の可能性は、ギリシアとローマの文化(美術、哲学、建築)に即発されて、教会の権威以外の世界が生み出された場合です。ギリシア人とローマ人のものの考え方は、中世ヨーロッパの人とは異なることに気付いて、人権思想が生まれた場合です。
第2の可能性は、逆に、人権思想は、生まれたけれど、これを正面切って主張すると反対されることは目に見えていると考え、ギリシアとローマの文化の復興にまぎれさせて、人権思想の普及を図った場合です。
この2つは、混在していると思われますが、重要な違いは、第1の可能性の場合が、ミームの競合を想定しているのに対して、第2の可能性の場合には、ミームの競合を想定していない点にあります。
ここで、ミームの競合を説明します。
ミームは、心に感染しているウイルスのようなものです。
生物の遺伝子は、複数のコードからなり、優勢になる遺伝子コードは1つだけです。
ミームにも、遺伝子と同じような競合があると考えれば、人権のミームが発現するには、封建性のミームを劣勢にして、人権のミームが優勢になるミームの切り替えが必要になります。これが、第1の可能性です。
第2の可能性は、封建性のミームを除去できるというモデルになります。
ミームの活動が遺伝子に類似していれば、第1の可能性が高いと思われます。
これを、ドーキンス流のミ―ムの仮説と呼ぶことにします。
3)自然法
人権宣言の第七条には、次のように書かれています。
「すべての人は、法の下において平等であり、また、いかなる差別もなしに法の平等な保護を受ける権利を有する」
この内容は2つに分けられます。
第1点は、人間は集団をつくると、個人の間の調整が必要になり、その手段として、法が生まれる点です。これは、法の存在を指します。
第2点は、法の下における平等です。これは、法の内容を指します。この内容は、封建性を人権思想の平等に書き換えています。
どうして、平等が、封建性より優れているのかという判断は、マキャヴェッリの視点に立てば自明ではありません。
実際に経済的な混乱や軍事的な混乱よりも、選挙による半専制をえらぶ人もいます。
筆者は、法律の専門ではありませんので、ここでの検討は、あくまで、人権のミームの評価にあります。
井上 博隆氏は、「自然法」を次のように説明しています。
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近代において、人間は生まれながらにして自由で平等であり、その生命・自由・財産などを守るために、国家や法律の条文以前から存在する法があると考えられています。これが「自然法」であり、自然法は、理性に基づいて判断されうると考えられています。
自然法の下では、人間は、生命・自由・財産などを守る権利を生まれながらにして持っていて、国家や法律が侵すことのできない不可侵の権利であると考えられており、これを自然権と呼んでいます。
それ以前において、王権等によって、国民の生命・自由・財産などが侵害されたことから、このような考え方が生まれました。
日本では、この自然権は、「天賦人権」と訳されました。
そして、政府は、国民が互いに契約(社会契約)して、この自然権をより確実なものとするため、政府に権力の行使をゆだねたものであると考えられました。
この考え方によると、「自然権を守るために政府があるのであり、政府が自然権を与えたのではない」ということになります。また、自然法に反する法律などや自然権を侵害する法律などは無効であると考えられています。
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<< 引用文献
井上 博隆「自然法などというものは絶対にない」
https://www.oike-law.gr.jp/wp-content/あuploads/sun19-06.pdf
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自然法の根拠を、人権宣言のような文章より遡るとすれば、自然法の根拠は、「理性に基づく判断」になります。
ヒエラルキーは以下になります。
なお、法学の対象を実定法に限定し、自然法的なもの政治的なものを排除し、実定法の論理的解明のみを法学の任務と考える立場は、法実証主義と呼ばれます。
自然法的と法実証主義の関係は複雑すぎて、筆者の手にあまりますので、ふれません。
ここでは、各国の憲法より上位の人権は、「理性に基づく判断」や「自然法」を前提としている点を整理しておきます。
4)女神
話をミームに戻します。
封建制度(王権神授説、あるいは、天皇制制)のミームは、強力です。神と王権を止めますといっても、心が、権威がないと不安な状態になれば、すぐに、神と王権の振り出しに戻ってしまいます。
第2の可能性は困難であり、第1の可能性を追求すべきであると思われます。つまり、神と王権のミームを打ち消すために、別のダミーの神をミームに使ってきた可能性が考えられます。
この仮説に従って、ダミーの神のミームを探すと、正義の女神がヒットします。
英語版のウィキペディアのLady Justiceの説明は以下です。
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正義の女神(Lady Justice 、ローマ神話の女神、ユースティティア、Jūstitia、ラテン語: Iustitia)は、司法制度における道徳的力を寓意的に 擬人化したものです。
16世紀以来、正義の女神は目隠しをした姿で描かれることが多くなりました。目隠しはもともと、正義が目の前で行われている不正に対して盲目であることを示すことを目的とした風刺的な追加でした[5]が、時間の経過とともに再解釈され、現在では公平性、つまり富、権力、またはその他のステータスに関係なく正義が適用されるべきであるという理想 を表すものとして理解されています、
ユスティティアが一般的に「盲目」として表現されるようになったのは、16世紀半ば以降のみである。盲目の正義を描いた最初の既知の表現は、ベルンの正義の泉 ( Gerechtigkeitsbrunnen ) にあるハンス ギエンの 1543 年の像です。
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1543年には、正義の女神が登場していて、これは、アメリカの独立宣言(1776年7月4日)より随分前です。
人権宣言を受け入れるには、ドーキンス流のミ―ムの仮説に従えば、正義の女神のようなダミーのミームが必要であると思われます。
つまり、そこでは、継続性が重んじられており、旧憲法のミームが生き残っている可能性が高いです。
「天賦人権論」日本語版のウィキペディアには、次のように書かれています。
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自由民主党の日本国憲法改正草案では、天賦人権説は西洋的な「神の下の平等という観念を下敷きにした人権論」なので、日本独自の考え方によって「第十一条 国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である」に改めるとしている。
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日本国憲法を、世界人権宣言と並べて読めば、人権の前提は、「理性に基づく判断」や「自然法」であって、「神の下の平等」ではありません。
ドーキンス流のミ―ムの仮説によれば、神と王権を排除すれば、ミームが不安定になるので、「正義の女神の下の平等」を取り入れているだけです。
「正義の女神」を取り除けば、神と王権のミームが復活する可能性が高いです。
従って、自由民主党の日本国憲法改正草案は、ドーキンス流のミ―ムの仮説によれば、法度制度への回帰になります。
人間の心には、認知バイアスがあります。
科学的、特に、データサイエンスのリテラシーは、認知バイアスを補正しないと習得できません。
経験が正しいというのは科学的に間違った認知バイアスの1つですが、科学教育、特に、データサイエンスの教育をうけていないと、このハードルをクリアできる人は少ないです。