(悪の帝国を通して世界を見れば、何が起こっているかを簡単に理解できます)
1)悪の帝国と心の領域
筆者の悪の帝国の世界観のアイデアは、脇田晴子氏の文化観と水林章氏の法度制度論をヒントにしています。
脇田晴子氏の歴史観では、天皇制を中心とした文化(感情優先、文化パワー、水林章氏の法度制度)の世界と、武力を中心した力(科学パワー)の世界の対立と協調で中世が進んだと考えます。
そして、戦国時代を、文化パワーが、科学パワーを圧倒した時代とみなしています。
脇田晴子氏は、戦国時代は、法度制度が効かない下剋上の武力中心の時代という旧来の世界観の反転です。
江戸時代の学問の系列は、幕府の官学(文化パワー)と職人を中心に構成される実学(科学パワー)の系譜に分かれます。
江戸幕府のパワーの源泉は、科学ではなく、文化にありました。
江戸時代の学問の主流は、幕府の官学(文化パワー)で、実学(科学パワー)は、傍流でした。
水林章氏は、日本語に組み込まれた法度制度が文化パワーであると考えています。
これは、上下のヒエラルキーシステムです。
文化は、科学ではなく、ドキュメンタリズムになります。
ドキュメンタリズムは、内容よりも形式を重視する文書形式主義です。
神社のお祓いは、お祓いの儀式に、神様が関与しているというストーリーに基づいています。
神様は観測不可能なので、このストーリーは検証不可能です。
観測可能な部分は、お祓いの儀式の形式だけになるので、科学から見れば、お祓いの儀式は、形式主義のドキュメンタリズムになります。
文化は、脳科学を使って脳の状態を観測しないかぎり、ドキュメンタリズムになります。
アンデルセンの裸の王様は、目に見えない衣装を評価していました。
目に見える衣装でも、脳の状態を観測しないかぎり、裸の王様と同じ問題が起こります。
ピカソの絵を、評論家や周囲の人が素晴らしいと言っているので、ある人は、同調圧力で、素晴らしいといっている可能性があります。
もしも、ピカソの絵が素晴らしいことが、データに基づいて論理的に説明できるのであれば、絵の良し悪しを評価するプログラムを作ることができます。
次に、このプログラムの評価を使って、AIに、上手な絵のかき方を学習させれば、ピカソより上手な絵がかけるはずです。これは、科学的な推論です。
一方、ピカソは文化であって、AIには文化が分かるはずがないという主張は、文化パワーが、科学パワーに優るという主張です。この議論はドキュメンタリズムです。
科学は、エビデンスに基づく、ベストプラクティスですから、エビデンスに基づいて、この主張を検証することはできません。
しかし、人間の心(脳の認識)に訴えて、「文化パワーが、科学パワーに優る」と信じ込ませることは可能です。
つまり、リアルワールドのエビデンスに基づけば、「文化パワーが、科学パワーに優る」ことはありませんが、人間の心(脳の認識)では、「文化パワーが、科学パワーに優る」ことが可能です。
脇田晴子氏の歴史観では、天皇制を中心とした文化(感情優先、文化パワー)の世界と、武力を中心した力(科学パワー)の世界の対立と協調で中世が進んだと考えます。
脇田晴子氏の歴史観は、人間の心の世界を問題にしています。天皇制を中心とした文化(感情優先、文化パワー、文化の国)の心と、武力を中心した力(科学パワー、科学の国)の心があるという視点です。
これは、脇田晴子氏の悪の帝国の物語です。
心は、計測できませんが、心によって、行動は変化します。行動は、リアルワールドに、軌跡を残します。行動の軌跡から、心の状態を推定することができます。
これは、状態空間モデルです。
リアルワールドと心の区別は重要です。
2)科学の国と文化の国
以上の準備ができれば、人の心が、科学の国にあるのか、文化の国にあるのかという認知バイアスの区分が可能になります。
文部科学省の指導では、カリキュラムは履修主義で、習得主義ではありません。
文部科学省は、分数ができない大学生を分数ができるようにすることを放置して、規定時間の授業をうければ、学習の到達度は問いません。期末試験をして、真面目に到達度を評価すれば、半分以上の学生が進級できないレベルの大学がたくさんあります。
このレベルの学校で、公正に学力を評価すれば、大勢の学生を落第させることになります。文部科学省は、(科学の国の基準では、インチキをして)進級させるように、中学校、高等学校、大学を指導します。これは、公正な学力評価を否定しています、
これは、科学の国の住民には、理解不可能な判断です。
これは、文化の国の基準では、しごく当然です。
文化の国では、教育は、観測可能な中身ではなく、形式だからです。
茶道では、家元制度があり、家元は、学習者のランクを定めて、支払った授業料に応じてランクがあがっていくシステムです。ここには、形式はありますが、中身はありません。
非常に優秀な生徒がいても、飛び級で、3か月で、師範になることはありません。このシステムは、文化の国の免状を販売するビジネスだからです。
戦国時代に、朝廷が武士に、寄付に応じて官位を販売したのと同じ文化のシステムです。
文部科学省は、義務教育と高等教育で、教育を受けた期間(つまり、授業料を払った期間)に応じて、卒業証書を販売しています。
東京都など授業料の無償化に熱心な自治体もあります。
しかし、卒業証書には、文化の国の価値しかありません。
日本の卒業証書は、科学の国では通用しません。
授業料の無償化になって、高等学校と大学の卒業証書が手に入っても、科学の国では、高い収入には結びつきません。
自治体の公務員も、議員も、マスコミも、文化の国の住民です。
世の中は、卒業証書という手形があれば、食べていけると思っています。
科学の国では、手形では食べていけないことは、弁護士も、医師も同じです。
文化の国では、医師の収入は、実際に働いた分ではなく、手形に対して払われています。
その結果、一部の公立病院の医師が、過労死に近い勤務状態になっています。
医師が、科学の国の住民であれば、このようなことは起きません。
3)世界を見るメガネ
脇田晴子氏の悪の帝国の物語に従って、世界を見ることができます。
読者は、世界を見るメガネをかけているとします。
このメガネの役割は簡単です。
人を見ると、その人の心が、文化の国にあるのか、科学の国にあるのかが見えます。
心が文化の国にある人は、ホットですこし赤く、心が科学の国にあるは、クールで少し青く見えます。
心が文化の国のある人には、科学の推論は理解されませんので、科学的な説明は、時間の無駄で、悪い印象を与えるだけです。
もちろん、世界を見るメガネは、存在しませんが、世界を見るメガネをかけたつもりで、周囲をみれば、なにが起こっているかを理解することができます。
脇田晴子氏は、「文化や思想が人の心を左右でき、操作できる」といいます。
「文化と思想が、太平洋戦争の時に兵士に自ら死地に飛び込んでいかせた」(筆者要約)といいます。
<< 引用文献
文化の政治性 大谷學報 第84巻第3・4合併号 脇田晴子
>>
脇田晴子氏の考える文化の国では、文化が、心を操作して特攻、飢饉、餓死が起きます。
中小企業は、弱者なので、補助金をつけ、消費税のインボイズを免除して、実質益税にする方法の心は文化の国にあります。
これは一見すると優しい政策に見えます。
しかし、ゾンビ企業を残せば、生産性があがらず、賃金は停滞します。
これに、円安政策と非正規雇用を拡大すれば、貧困と過労死が起こります。
つまり、起こったことを見れば、決して優しい政策ではありません。
政治的な近代は、15世紀のニッコロ・マキャベリの著書から始まります。時代は徳川幕府が成立するころです。
マキャベリは著書で、物事が実際どのようにあるのかについての現実的な分析を支持し、物事がどのようにあるべきかについての考えと比較して政治を分析する中世およびアリストテレスのスタイルを公然と拒否しました。
弱者である中小企業に、補助金をつけ、消費税を免除をつけることが優しい政策であるという判断は、物事がどのようにあるべきかという考えに基づくアリストテレスのスタイルです。
貧困と過労死が起こったということは、物事が実際どのように起こったかという現実です
文部科学省の指導では、カリキュラムは履修主義で、習得主義ではありません。
これは文部科学省が、習得主義という実際の学力に基づく指導をするのではなく、学校にいけば卒業できるべきであるというアリストテレスのスタイルの政策を行なっていることを示しています。
特攻は、日本は太平洋戦争に勝つべきであるというアリストテレスのスタイルの政策によって生まれました。
特攻では戦果はないというエビデンスに基づいていれば、特攻は生まれませんでした。
マキャベリは、物事がどのようにあるべきかという考えに基づくのではなく、エビデンスからスタートすることを主張しています。
脇田晴子氏は、中世史の専門家でした。脇田晴子氏の中世史の文化で、太平洋戦争の特攻が起こった理由は説明できました。
つまり、日本の人文科学は、中世から抜けていません。
筆者は、日本型人文科学と、欧米の人文科学を区別しています。
日本には、欧米型の近代の人文科学はありません。
これは大問題なので、別途論じます。
近代の思想では、教育が、エビデンスを無視したアリストテレスのスタイルの履修主義になることはありえません。
悪の帝国の物語には、3つの国があるのかも知れません。
4)日本の中世の秋
脇田晴子氏は、日本には、中世史の文化(文化の国)が根付いているといいます。
脇田晴子氏は、中世史の文化(文化の国)は、太平洋戦争の特攻の原因であると指摘しましたが、この問題点を除去する方法を示しませんでした。
フランス文学者の水林章氏は、日本には、封建制度の法度制度が残っていて、日本語が、法度制度を温存させているといいます。
<< 引用文献
水林章著『日本語に生まれること、フランス語を生きること――来たるべき市民の社会とその言語をめぐって』(春秋社)
>>
水林章氏は、日本が、封建制度の法度制度の文化の国であり、日本語をつかう限り、法度制度から抜けだすことは困難であると考えて、表現をフランス語に切り替えています。
2000年5月15日、神道政治連盟国会議員懇談会において森喜朗内閣総理大臣(当時)は、「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く、そのために我々(=神政連関係議員)が頑張って来た」と発言しました。
森前首相は5月16日午後、首相記者団に対して次のように述べました。
「主権在民とは、矛盾しない。戦前は天皇と結びつけて戦争をした。そこで主権在民・信教の自由をうたい、侵略戦争を放棄するということを国是とした。(天皇中心は)日本の悠久の歴史と伝統文化と言う意味で申し上げており、戦後の主権在民と何ら矛盾しない」
森前首相の心は、文化の国の法度制度にあります。つまり、ヨーロッパであれば、中世の神の国が生きています。
ヨーロッパの中世では、人々は、神に祈り、神のために生活しました。
森前首相の心は、文化の国にありますので、ジェンダー差別や、神の国発言を批判されても、ご本人は、批判された理由がわからないと思われます。
文化の国の住民に、生態学に基づく環境政策や、経済学に基づく経済政策の話をしても、理解されることはありません。
このことから、自民党の議員は、文化の国の住民である可能性が高いことがわかります。
文化の国の政治は、神社の経営と同じです。
経営の基本は、寄進とそれに対するリターンです。中世には、市場経済はありませんでしたので、経済は、寄付とリターンで構成されていました。
国会議員が、文化の国の住民であれば、政治活動とは、投票、政治資金の寄付と補助金などのリターンになります。
政治家は、神道の宗教行事をつかさどることで、権力を手に入れていました。
神の国発言は、日本の政治権力は、法度制度をつかって、宗教と同じように、権力を手に入れているという発言です。
神の国発言は、日本の政治権力の現状を正確に表現した正しい発言でした。
神社では、寄進をしてくれば、誰にでも、神様のリターンがあります。
これは、科学の因果モデルではありません。
自民党の政策には、左派よりの政策と右派よりの政策が混在しています。
これは、因果モデルで考えれば、矛盾した政策であり、同時に提案されることはあり得ません。
神社にいって、お札を買えば(寄進すれば)、誰でも、お清めをしてもらえます。
自民党の政治は、法度制度をつかった宗教活動と変わりませんので、左派よりの政策と右派よりの政策が混在しても問題だと考える人はいません。
こう考えると、自民党の議員で、宗教団体と懇意にしている人が多いことは、当然のことです。
国会議員が、文化の国の住民であれば、ルネッサンス以降の近代的な議論は理解ができないはずです。
日本は、依然として、中世の秋に止まっています。