アブダクションとデザイン思考(19)科学と民主主義

(科学のリテラシーの問題は、民主主義の問題と見なすこともできます)

 

1)法度(はっと)体制

 

フランス文学者の水林章氏は、次の様に言います。(筆者要約)

 

⼗五年戦争(太平洋戦争、筆者注)時代の⽇本は正気を失った者が運転する、誰にも⽌められない機関⾞のようなものでした。⽶国の爆撃機が宮城の上を⾶べば嵐が起きてみな落ちてしまう、などという戯⾔を国全体が信じていました。

 

ずるずると引きずられて、負けることが明⽩な戦争を誰も⽌められませんでした。天皇の神聖性と精神⼒で戦争に勝てると最後まで本気で信じていたからです。原爆を投下したのは⽶国ですが、あの無謀な戦争を引き起こし、継続し、最終的な悲劇的な結末をもたらした⼈たちの責任を問い、そのうえで今⽇(こんにち)何をすべきかを考えることが⼤切だと思います。

 

「ずるずると引きずられて、負けることが明⽩な戦争を誰も⽌められませんでした」という表現は、「戦争」の単語を他の単語(少子化、賃金の低下、労働生産性の低下、年金の崩壊など)に入れかえれば、現在の日本に良く当てはまります。

 

天皇の神聖性と精神⼒で戦争に勝てる」という部分は、「日本は素晴らしい」、「日本製品は優れている」と読みかえれば、現在にあてはまります。

 

例えば、インドネシア高速鉄道は、中国が建設しました。日本の新幹線の技術が優れていた時期は、1964年の東京オリンピックの時で、半世紀以上がたって、高速鉄道の技術は普及技術になっています。中国高速鉄道は、路線延長でも、旅客数でも、日本を上回っています。実績は、日本より多いです。2010年以降になっても、日本の高速鉄道が技術的に優位なはずはありません。

 

「日本の新幹線の技術は素晴らしい」という主張の下には、「天皇の神聖性と精神⼒がある日本は、競争に勝てる」という主張が透けて見えます。

 

少なくとも、科学のリテラシーがあれば、エビデンスに基づかない「日本は素晴らしい」、「日本製品は優れている」という主張には、うんざりします。

 

水林章氏の発言は、日本の現状の問題をよく説明しています。

水林章氏は、インタビューに次の様に答えています。(筆者要約)

 

──こうした歴史の⾜跡は、⽇本の⾔語に残っていますか︖

 

難しい問題ですが、私はこのように考えています。江⼾時代の幕藩体制は、上位者が下位者に命令し、下位者が上位者に隷従する垂直構造を本質とする法度(はっと)体制を完成させました。この体制は8世紀に中国から継受した律令にルーツがあります。この秩序が基本的には今⽇(こんにち)まで続いています。

 

このような命令的・隷従的秩序=非同輩者的秩序は、⽇本語に嵌⼊(かんにゅう)しています。逆に、⽇本語はそのような秩序を再⽣産する働きを担っています。⾔うまでもないことですが、「天皇」とは命令的・隷従的秩序=非同輩者的秩序の頂点にいる存在です。

<< 引用文献

フランス文学者・水林章「日本で第二次世界大戦清算はまだ終わっていない」2023/12/30 Courie japan

https://courrier.jp/cj/347774/?utm_source=newspicks&utm_campaign=347774

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水林章氏は、「問題の原因は、法度体制にあり、日本語は、法度体制を再⽣産する働きを担っている」と言います。

 

自然科学者は、論文を英語で書きます。その場合には、日本語の制約からは自由になります。論文の下書きを日本語で書く場合でも、数式やプログラムコードが含まれれば、その部分は、法度体制とは関係がありません。したがって、データサイエンティストは、論文作成時には、法度体制の影響を受けにくいです。



水林章氏の「日本語は、法度体制を再⽣産する働きを担っている」という指摘は、重要です。これは、「日本に居て、日本語を話す限り、法度体制から自由になることは難しい」という主張です。

 

実際、水林章氏は1年の半分をフランスで過ごし、法度体制の問題を扱ったフランス語の小説を出版して、ベストセラーになっています。

 

筆者には、「日本語は、法度体制を再⽣産する働きを担っている」か否かを判断する能力がありません。

 

しかし、日本では、科学的な推論が行なわれません。

 

筆者は、その原因は、スノーが「2つの文化と科学革命」で提唱したエンジニア教育の拡大を怠った点にあると考えています。

 

簡単に言えば、科学教育の失敗です。

 

日本社会の問題は、筆者にとっては、科学の無視、科学のリテラシーの欠如ですが、水林章氏にとっては、法度体制と法度体制を再⽣産する日本語にあるという主張になります。

 

この2つは実態(質量)のないモデルなので、どちらが正しいかという訳ではなく、オッカムの剃刀のように、どちらが使いやすいかという比較になります。

 

2)民主主義と科学主義

 

加谷珪一氏は、民主主義に関する最近の議論を次のように論じています。

 

日本国内では、経済の落ち込みで生活が苦しくなっていることが影響しているのか、ネットなどを中心に民主主義を否定する意見が目立つようになっている。民主主義を否定している人たちは、「民主国家では弱者が過剰に保護される」「合意形成のために経済成長が犠牲になる」などと主張している。

 

民主主義にそうした面があるのは確かだが、ネットで民主主義否定を声高に叫んでいる人たちは重大な事実を見落としている。

 

もし日本が非民主的な国になった場合、彼らのほとんどは支配する側ではなく、支配される側に回るのは確実である。しかも被支配者側になってしまえば、内容の如何を問わず、政治体制について批判することは即処罰の対象となり、ネット上で自由に意見を言うことなど出来なくなってしまう。

 

民主主義の弊害を説く人はどういうわけか、(ネットで自分の意見を口にするなど)自分が支配者側にいるような感覚を持っているのだが、それはあくまで願望に過ぎない。

 

民主主義はコストがかかりすぎると主張するのは簡単かもしれない。しかしながら、ひとたび非民主的な国に転落すれば、万人に門戸は開かれず、特権的な立場の人とそうでない人の、埋めようのない格差が生じるのが偽らざる現実だろう。

<< 引用文献

日本が独裁国家に転じれば、国民は幸せになれるのかーーネットで増える「民主主義否定論者」が見落としている事実 2023/12/06 現代ビジネス 加谷珪一

https://gendai.media/articles/-/120266

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ここで、問題になるところは、次の部分です。

民主主義を否定している人たちは、「民主国家では弱者が過剰に保護される」「合意形成のために経済成長が犠牲になる」などと主張している。

 

民主主義にそうした面があるのは確かだが、

 

加谷珪一氏は、時間がかかり、効率的ではないが、民主主義では、合意形成ができるという前提にたっています。

 

これは、現在の日本が民主主義国家であるという前提でもあります。

 

しかし、水林章氏のように、日本が、法度体制の国会であると考えれば、現在の日本が、民主主義であると判断することは危うくなります。

 

加谷珪一氏は「ネット上で自由に意見を言うこと」ができるといいます。

 

水林章氏は、「日本語には、法度体制を再⽣産する働きがある」といいます。

 

この問題は、例えば、次の例を考えれば、理解できます。

 

岸田首相は、就任直後に、「新しい資本主義」といいました。しかし、この言葉には、実際の行動計画はありませんでした。

 

科学のリテラシーで考えれば、名前だけで、内容がなければ、検討不可能で、論外になります。良い、悪い以前の問題です。

 

しかし、「新しい資本主義」を論外であるとして、検討対象から、除外したマスコミも、専門家もいませんでした。法度体制は、こうした状況の発生を説明できる仮説です。

 

2022年に、イギリスのリズ・トラス首相は、首相就任から45日で辞任しました。辞任の理由は、首相になる前に公約した経済政策を行なった結果、経済運営が破綻しかけたからです。

 

イギリスは、法度体制ではなく、首相は、政策の結果に対して責任をとります。

 

日本では、政策は曖昧で、結果の責任をとることがありません。

 

イギリスでは、提案した政策が選ばれて、トラス首相が選出されました。

 

これは、合意形成ができたことを意味します。

 

岸田首相が選出された主な理由は、派閥のパワーバランスであると理解されています。

 

この派閥のパワーバランスには、利権と政治資金が関係していることがわかっています。

 

日本の首相の選出過程は、合意形成過程といえるのでしょうか。

 

ある政治学者は、日本では、政策選択は、合意形成ではなく、声の大きさできまるといいます。仮に、声の大きさが、利権を意味するのであれば、民主主義の合意形成がなされていないことになります。

 

恐ろしいことには、この点を問題にしている政治学者が見当たらないという事実です。

 

水林章氏の「日本語には、法度体制を再⽣産する働きがある」という仮説は、こうした現状をよく説明できています。