アブダクションとデザイン思考(9)貧困問題の設計図

 

(デザイン思考の設計図とは何かを、貧困問題を例に考えます)



1)天然痘の根絶計画

 

理化学研究所の IMS生命医科学研究センターによれば、天然痘の根絶計画は次の様にすすめられました。

 

1958年、世界天然痘根絶計画が世界保健機関(World Health Organization; WHO)の総会で可決されました。当時、世界33カ国に天然痘は常在し、発生数は年間約2,000万人、死亡数は年間400万人と推計されていました。ワクチンの品質管理、接種量の確保、資金調達などが行われ、常在国での100%接種が当初の戦略として取られました。しかし後に、徹底的に患者を見つけ出し患者周辺に予防接種を行う「サーベイランス・封じ込め作戦」に戦略を変更しました。その効果は著しく、1978年の患者発生の報告を最後に地球上から天然痘の発生の報告はなくなり、1978年から2年間の監視期間を経た1980年5月、WHOは天然痘の世界根絶宣言を行いました。以降、現在までに患者の発生の報告はありません。

<< 引用文献

人類が初めて根絶したウイルス感染症

https://www.ims.riken.jp/poster_virus/history/poxvirus/

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これから根絶計画の戦略は、「常在国での100%接種」から、「サーベイランス・封じ込め作戦」に切り替わったことがわかります。

 

1958年には、天然痘は、世界33カ国に常在し、発生数は年間約2,000万人、死亡数は年間400万人と推計されていました。

 

この状態では、実態調査をしても、問題解決にはなりません。

 

天然痘の根絶には、1958年から1978年まで、20年を要しています。

 

その間に、世界33カ国で政権交代がありました。WHOの担当者も何代も変わっています。

 

根絶計画には戦略の見直し(設計図の改訂)が、ありました。

 

しかし、根絶計画は、20年間、継続されました。

 

天然痘の根絶計画には、前例はありません。類似の事例は、短期間に特定都市に広がったパンデミックを封じ込めたケースと思われます。

 

天然痘の根絶計画は、優れたデザイン思考の例です。

 

残念ながら、ウイルスが変異しやすいインフルエンザや、コロナウイルスには、根絶計画はありません。

 

貧困問題について、同様の「貧困問題の根絶計画が作れないか」と考えることがデザイン思考になります。

 

2)貧困問題の解決方法

 

貧困問題の原因は、可処分所得が低いことです。

 

可処分所得を、賭博、酒代、ネットのゲーム代などに使ってしまう人もいますが、それは少数なので、例外的な解決策を準備することにして、ひとまず、問題の対象から除外します。

 

そうすると、貧困問題の解決方法は、次の3つになります。

 

(S1)所得移転をする。

(S2)最低賃金を上げる。

(S3)生産性をあげて、可処分所得分布を右(高所得側)に移動する。

 

国連の貧困対策は、「(S1)所得移転をする」に偏っています。

 

貨幣経済が十分に発達していない国もあり、金銭ではなく、食料援助をする場合が多いです。

 

この方法には、食料が本当に必要な人に届かない、食料を中間搾取する人がいる、援助利権が生ずる、伝統的な既存の農業を破壊するなどの弊害が報告されています。

 

これから国連の貧困問題の解決の設計図には、改善の余地が大きいことがわかります。

 

国連が、「(S1)所得移転をする」を中心に据えている理由は、問題になっている国は一人あたりGDPが低く、「(S2)最低賃金を上げる」、「(S3)生産性をあげて、賃金分布を右(高所得側)に移動する」といった政策がとりにくいためと思われます。

 

日本は、先進国なので、「(S2)最低賃金を上げる」、「(S3)生産性をあげて、賃金分布を右(高所得側)に移動する」といった政策をとることができますので、対策を「(S1)所得移転をする」に限定する理由はありません。

 

この3つは、補間的に機能します。

 

例えば、最低賃金が上がれば、必要な所得移転は小さくなります。

 

なので、貧困問題の根絶計画では、この3つの解決方法のベストミックスが提示される必要があります。

 

3)問題の定式化

 

問題を処理しやすいように単純化します。

 

時間を1年単位に離散化します。

 

ここでは、天然痘の根絶計画にならって、問題の解決期間を20年とします。

 

そうすると、毎年の可処分所得分布のグラフ(因果モデルの結果)が20枚得られます。

 

毎年の可処分所得分布のグラフは、3つの解決方法のミックス戦略(因果モデルの原因)ごとに作成できます。

 

検討する3つの解決方法のミックス戦略が、100個あり、100個の中から、ベストミックスを抽出する方法が決まれば、貧困問題の根絶計画の設計図が描けます。

 

4)まとめ

 

以上は、ラフスケッチで、設計図とは言えませんが、設計図を作るためのデザイン思考とは何かを理解する手がかりにはなると思います。

 

「(S1)所得移転をする」は、貧困の直接の原因ではありませんが、これがないと、貧困問題解決までの20年間に生活ができない人が発生してしまいます。

 

これが、天然痘の根絶計画とは、大きく異なる点です。

 

天然痘の根絶計画には、天然痘にかかった人の治療(応急処置)は含まれていません。

 

同様に考えれば、貧困に陥った人に対する所得移転(応急処置)は、貧困問題の根絶計画には、含めない設計図の作り方も考えられます。

 

その場合には、貧困に陥った人に対する所得移転は、あくまで、応急処置であって、貧困問題の根絶には関係がないことになります。

 

この視点と、現在の日本で考えられている無償化を中心とした貧困問題の解決策の間には、認識のギャップがあります。

 

いずれにしても、貧困問題の根絶は、天然痘の根絶以上に長期戦になりますので、デザイン思考に基づく根絶計画の設計図なしでは、解決は困難です。

 

貧困問題を根絶する解決法を考えることは、デザイン思考の一例にすぎません。

 

環境問題、高齢化問題、少子化問題、過疎問題など、長期的な対策が必要と思われる課題は、数多くありますが、どの課題にも、デザイン思考に基づく問題解決の長期計画(設計図)はありません。

 

日本では、問題があったときに、ともかく、現場にいって、活動することを尊重する傾向がありますが、これは、科学(エンジニアリング)では、間違ったアプローチです。

 

天然痘の現場にいって、患者を治療する応急処置は、人道的に尊い活動かも知れませんが、天然痘の根絶には寄与しません。

 

筆者の専門である水問題についていえば、欧米では、デザイン思考で作られた環境問題を解決する長期的な設計図が公開されています。

 

しかし、科学的なデザイン思考をする人が少ない日本にいると、同調してしまい長期的な設計図の価値が理解できなくなります。そもそも、日本では、天然痘の根絶計画のような長期計画の設計図を目にすることがないので、長期計画の設計図を見ても、頭に入らず、スルーしてしまいます。

 

「Steam Corridor Restoration: Principles, Processes, and Practices」は、水問題の環境問題を解決する長期的な設計図を作成するための世界的なバイブルですが、日本では、この文献を参照している人は少数です。出版されて、20年以上が経過し、ネットで自由にみることが出来るにもかかわらず、少数です。

 

筆者は、「Steam Corridor Restoration: Principles, Processes, and Practices」を読んで、この本が、設計図を作成するためのバイブルであることが理解できるまでに、5年ほどかかってしまいました。

 

デザイン思考を理解するには、科学的な因果モデルで思考する必要があり、これは、日本の科学教育には決定的に欠けている点なので、認知バイアスの解消には時間がかかります。

 

周囲には、現場にいって、データを集めて記録する帰納法が科学的な方法であるという間違った理解が蔓延しています。

 

科学は、仮説ドリブンのデザイン思考です。推論は、因果モデルを考えるアブダクションになります。