教育の科学と「何を教えるべきか」(1)

1)ChatGPTとカリキュラム

 

ChatGPTが出てきて、教育の仕方、教える内容を見直すべきだという議論が出ています。

 

それ以前に、日本の教育では、採点が一番簡単な暗記テストで評価される内容が、カリキュラムの中心になっていました。

 

言うまでもありませんが、暗記テストで評価できる内容では、Google検索にも、ChatGTPにも勝てません、つまり、「現在のカリキュラムは意味のある(教育効果が期待できる)内容ではない」という仮説を否定できるだけのエビデンスはなさそうです。

 

それでは、何を教えるべきでしょうか。

 

このような問題設定では、通常は、目的と手段の違いに注意することが必要ですが、教育の場合には、カリキュラムに見られるように、手段はより複雑です。

 

カリキュラムでは、授業といった手段以外に、教える内容を設定します。

この内容は、手段か目的か判然としません。評価が暗記であれば、カリキュラムの内容が目的になりますが、暗記を前提としないのであれば、カリキュラムの内容は手段になります。手段であれば、目的を達成するよりよい手段があれば、入れ替えるべきです。

 

つまり、何を教えるべきかという問題設定は複雑です。

 

2)ゆとり教育のトラウマ

 

暗記についての議論は、整理すべきすが、ゆとり教育のトラウマで、検討は進んでいないようにみえます。

 

ゆとり教育では、ゆとりを実現するために、暗記する内容を減らしました。ところが、教科書も薄くなってしまいました。

 

これは、理解のモデルが、「理解=暗記」であったためと思われます。

 

理解には、読んでわかるレベルと書くことができるレベルがあります。

 

読んでわかるレベルの学習をするためには、インプットの量が多くなければいけません。

 

ChatGPTは膨大な量のデータを学習することで、学習します。

 

データ量が少なければ、学習は成立しません。

 

ChatGPTの学習は、データの暗記ではありません。データの要素間の結びつきを学習しています。

 

ゆとり教育は失敗しましたが、その後のビジョンが描けているとは思えません。

 

3)教育の科学

 

ところで、日本の教育は科学的に行われているのでしょうか。

 

教育の政策評価に、EBPMを導入するためには、その前提として、教育が科学的に行われている必要があります。

 

アメリカはプラグマティズムの国です。

 

日本では、プラグマティズムは、実用主義である、哲学であるといった間違った理解が広まっていますが、プラグマティズムとは、形而上学の哲学を避けて、検証可能な手続きで、意思決定(fixation of belief)や政策決定を行うことです。

 

例えば、日本の教育基本法には次のように書かれています。

 

第1条(教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。



◎  本条で規定している「教育の目的」とは何か

  教育は、人を育てることであり、ここで「教育の目的」としては、どのような目標に向かって人を育てるか、どのような人を育てることを到達の目標とすべきかについて規定している。

 

「教育の目的」を変化させた場合に、それが、検証可能な手続きが明示されていなければ、この記述は形而上学です。

 

プラグマティズムでは、教育の手続きといったリアルワールドの活動と独立した「教育の目的」(形而上学)が記載されることはありません。

 

プラグマティズムでは、形而上学は科学ではないから、避けるべきであると考えます。

 

教育基本法では、「 教育は、人を育てること」と書かれていますが、この定義には問題があります。

 

Education(Wikipedia)には次の様に書かれています。

 

 

教育Educationとは、知識knowledge、スキルskills、人格特性character traitsを伝達transmissionすることです。 その正確な定義、たとえばどのような目的 aimsを達成しようとするかについては多くの議論があります。 さらに問題は、教育の意味の一部が生徒の変化が改善であるかどうかです。 研究者の中には、教育と教化を区別するための批判的思考の役割を強調する人もいます。 こうした意見の相違は、教育の形態を特定、測定、改善する方法に影響を与えます。 この用語は、教育を受けた人々の精神状態や資質を指すこともあります。 また、教育を研究する学問分野を指す場合もあります。

 

 

見解は分かれていますが、(教師が一方的に)、生徒を育てるというモデルではないので、独立した目的の設定は無意味になります。ですから「 その正確な定義、たとえばどのような目的 aimsを達成しようとするかについては多くの議論があります( There are many debates about its precise definition, for example, about which aims it tries to achieve.)」と書かれています。

 

どのような目的を達成しようとするか(which aims it tries to achieve)自体が、議論の対象になっています。

 

教育の目的(aim of education)は、カリキュラムに関連して使われることがある単語です。これは、カリキュラムの特性を考えれば、納得できます。

 

それ以外では、余り使われません。

 

教育学(Studies of Education、ウィキペディア日本語)では、次のように、教育学は(研究方法によって定義される)科学ではないといっています。

 

<教育学は、基本的には、よりよく生きることのできる人間を育成する活動という研究対象によって定義され、研究方法によって定義される学問ではない。

それでは、教育の科学は何かが疑問になります。教育学(Studies of Education、ウィキペディア日本語)では、「教育科学(英語なし)」が引用されています。

 

<教育科学(きょういくかがく)とは、科学に基づく教育諸学(教育学)、または、科学的な体系を有する教育諸学(教育学)のことである。教育科学は、教育学についての別の呼び名でもあるが、教育学とまったく同じことを意味しているわけではない。 

 

教育学(Studies of Education、ウィキペディア日本語)には、Pedagogyという英語は、記載されていませんが、他言語へのリンクのEnglishは、Pedagogyになっています。

 

ここまでを整理すると以下になります。

 

教育学 Studies of Education、Pedagogy

教育科学 英語なし

 

Education(Wikipedia、英語版)の見出し「Education studies」には次のように書かれています。

 

<教育学

 

詳細は「教育科学education sciences」を参照

 

教育 educationを研究する主な学問は教育学education studiesと呼ばれ、教育科学education sciencesとも呼ばれます。 教育の方法と形態を研究することで、人々がどのように知識を伝え、獲得するかを決定しようとします。 教育の目的、効果、価値だけでなく、教育を形作る文化的、社会的、政府的、歴史的背景にも関心を持っています。 教育理論家は、哲学、心理学、社会学、経済学、歴史、政治、国際関係など、他の多くの研究分野からの洞察を統合します。 これらの影響により、一部の理論家は、教育学はその方法や主題が明確に定義されていないため、物理学や歴史学のような独立した学問ではないと主張します。 教育研究は、優れた教師になるために必要なスキルを超えて学術分析と批判的考察に重点を置いているため、教師研修などの通常の研修プログラムとは異なります。 それは正式な教育の話題に限定されず、教育のあらゆる形態と側面を調査します。

 

つまり、英語では次になります。

 

教育学education studies=教育科学education sciences

 

ですから、教育科学(日本語)と教育科学(英語、education sciences)の意味は異なります。

 

教育学、教育科学education sciences(Wikipedia)の説明は以下です。

 

<教育学Education sciencesは、教育学education studies、教育理論education theory、伝統的に呼ばれる教育学 pedagogyとしても知られています。教育学Education sciencesは、教育政策と実践を記述、理解、規定することを目指しています。 教育学Education sciencesには、教育学pedagogy、 アンドラジーandragogy、カリキュラム curriculum、学習learning、教育政策education policy、組織organization、リーダーシップ leadershipなど、多くのトピックが含まれます。 教育思想Educational thoughtは、歴史history、哲学philosophy、社会学sociology、心理学psychologyなどの多くの分野から情報を得ています。

 

教育科学education sciencesに関する学部、学科、学位プログラム、および学位は、単に教育学部faculty of educationなどと呼ばれることが多いです。 同様に、今でも一般的に、彼女は教育educationを勉強しているとは言いますが、教育科学education science(s) を勉強していると言うことは非常にまれで、ヨーロッパのほとんどの国では伝統的に教育学を勉強しているstudying pedagogy(英語で)と呼ばれていました。 同様に、国によっては教育理論家educational theoristsが教育学者pedagoguesとして知られる場合もあります。

 

 

Education(Wikipedia、英語版)には、次の記述があります。

 

<サブフィールド

 

教育学Education studiesには、教育哲学、教育学pedagogy、教育心理学、教育社会学、教育経済学、比較教育、教育史などのさまざまな下位分野が含まれます。

この説明では、教育学pedagogyは、教育学Education studiesの部分集合になります。

 

アメリカと比べると、日本では、科学的な方法による教育科学education sciencesは、ほとんど研究されていません。

 

この節をまとめます。

 

アメリカとイギリスの教育学(=教育科学education sciences)は、科学になっています。

 

日本の教育学は形而上学であって、科学ではありません。

 

この2つは、全く別の学問です。

 

4)エビデンスに基づく教育

 

アメリカでは、George Bush大統領の2002年1月にはNo Child Left Behind Act(落ちこぼれをつくらないための初等中等教育法)が成立しています。それ以降は、Evidence-based education (EBE) が進められ、教育予算は、エビデンスデータに基づく評価で配分が行われています。

 

1990年代にデータサイエンスが進歩して、2000年代には、実用に供せられるようになりました。それ以降、経済学以外の社会科学では、科学とは、データサイエンスを意味するようになっています。

 

教育科学education sciencesは、1959年(64年前)のスノーの2つの文化で言えば、人文的文化ではなく、科学的文化です。

 

教育科学を人文的文化で理解することはできません。

 

パースは、1877年(146年前)にThe Fixation of Beliefを書いています。

 

そこで、哲学のような形而上学は捨てて、科学の方法を採用しましょうと言っています。

 

これが、プラグマティズムの基本的なスタンスです。



日本のある教育学の研究者は、次のようにいっています。

 

「教育観の変容を経て成立可能になったエビデンスに基づく教育は、固有の歴史的・社会的文脈ゆえに教育を変質させ、教育の形骸化や空洞化をもたらし、教育学を廃棄に追い込む可能性がある」

 

この発言は、1877年(146年前)のThe Fixation of Beliefも、1959年(64年前)のスノーの2つの文化も、無視しています。教育学は、「教育科学education sciences」ではない、科学ではないという理解です。

 

この視点では、科学であるエビデンスに基づく教育を人文科学の文化で理解できると考えることになります。

 

これは、1959年にスノーが否定した間違ったアプローチです。ギリシアの古典文学(人文的文化)を学習しても、ロケットの軌道計算(科学的文化)ができるようにはなりません。

 

この点を踏まえて、スノーは、2つの文化の間には、越えられないギャップがある、科学を教育しなければ国の経済は滅びると言っています。

 

人文的文化で、科学的文化を理解して、2つの文化の間のギャップが埋められる、あるいは、ギャップを埋めるべきだというカルトな主張がなされているのは、日本だけです。この主張は、スノーの主旨とは全く反対になっています。

 

2012年に、イギリス教育省は、小学生の読解をサポートするために、エビデンスに基づいた「フォニックス読解チェック」を導入しました。 2016年、教育大臣は、期待された読解力を満たしていない小学生の割合が2010年の33%から2016年には20%に減少したと報告しています。

 

筆者は、人文的文化では、ロケットの軌道計算ができないように、期待された読解力を満たしていない小学生の割合を減らすことはできないと考えます。

 

人文的文化では、そもそも期待された読解力を満たしていない小学生の割合を計測していないと思われます。

 

文部科学省は、「エビデンスに基づいた学校教育の改善に向けた実証事業」を行っています。

 

しかし、その内容は、可視化であって、「エビデンスに基づいた教育」とは関係がありません。

 

フォニックス読解チェック」のようなエビデンスに基づく効果の検証は考慮されていません。

 

引用文献

 

エビデンスに基づいた学校教育の改善に向けた実証事業

https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/zyouhou/detail/1387543.htm



5)裸の王様の定理

 

発注者が、人文的文化しかなく、科学的文化を理解してない場合、受注者のとるべき、対策は、2つに分かれます。

 

対策1:科学の方法で説明して、発注者に理解を求める

 

対策2:発注者は科学の方法は理解できないので、もっとも低コストで、それらしい雰囲気を演出する

 

たとえば、「エビデンスに基づいた学校教育の改善に向けた実証事業」は恐らく、出入りのコンサルタントの提案だと思われます。受注者のコンサルタントは、「エビデンスに基づいた教育」を一応の水準では理解しているでしょう。

 

この場合、対策1で、本物の「エビデンスに基づいた学校教育の改善に向けた実証事業」の仕様を書くこともとできます。

 

しかし、対策1には、次のような問題点があります。

 

問題1:実施可能な本物の仕様を作成するには、大きなコストがかかります。

 

問題2:発注者に理解してもらうことは、事実上不可能に近い。つまり、努力は報われない。

 

問題3:本物の「エビデンスに基づいた学校教育」をすれば、No Child Left Behind Actのように、それまでの教育行政が間違っていたか、非効率であったことを暴いてしまう。そうなると、発注者側の逆鱗にふれて、以降の仕事はもらえなくなる。

 

このような場合には、対策2が、正しくはないが、合理的な対策になります。

 

簡単に言えば、服を着なくても満足している裸の王様に、無理に服を着せてもろくなことにはならないという理解(裸の王様の定理)です。

 

こう考えると、COCOAも、マイナンバーカードも、「裸の王様の定理」が働いたと考えれば、納得できます。

 

COCOAの失敗も、マイナンバーカードの失敗も、原因は、受注者ではなく、発注者にあったと考えられます。

 

渡瀬 裕哉氏は、オリンピック汚職問題について次のように言っています。(筆者の要約)



 

真の問題は、国や東京都などの発注主の能力の低さにある。日本政府はイベント運営ノウハウなどを持ち合わせていなかったが、誘致のリスクを低く見せるために、招致当初は極めて過小な予算でイベントが実現できるかのように振舞っていた。しかし、国や東京都の能力では現実の業務は運営できず、電通から組織委員会に大量の出向者を受け入れて、その大会運営を事実上丸投げした。

 

 

「イベント運営ノウハウなどを持ち合わせていなかったが、誘致のリスクを低く見せるために、招致当初は極めて過小な予算でイベントが実現できるかのように振舞っていた」は、形而上学に相当します。

 

このケースも、「裸の王様の定理」で理解できます。



引用文献

 

汚職の祭典」オリンピックの透明性を高める改革の必要性──今後の国際イベント実施への影響 2023/03/27 Newsweek 渡瀬 裕哉

https://www.newsweekjapan.jp/watase/