(2つの文化の相互理解は不可能を前提に、行動する必要があります)
1)理解できるとは何か
2022年12月10日に、首相会見があり、主に補正予算の説明がなされました。
要点は、次の2つです。
(1)課題を並べて、課題ごとに、大盤振る舞いで、補正予算をつけました。
補正予算の全事業の進捗状況を毎週チェックし、集計していく体制を整えました。
(2)産業構造の大きな変革に合わせて、失業なき労働移動を進め、構造的な賃上げを実現していくための制度を作ります。構造的賃上げの実現に向けて、リスキリング、転職、正規社員化などを支援します。リスキリング、転職、キャリアアップまで一気通貫で支援する仕組み作りや、主体的に成長分野であるデジタルやグリーンについてのリスキリングに取り組む個人への直接支援など、働く個人一人一人に着目しその努力を支援する仕組みを広げます。
(1)は、何をするかはよくわかりますが、30年間同じことをして、効果がありませんでしたので、今回だけ、効果がでると考えるのは無理だと思います。科学的に考えれば、理解できません。
科学的に考えれば、チェックすべきは、「補正予算の全事業の進捗状況」ではなく、事業効果です。説明を聞くと、事業効果をモニタリングする計画がないことがわかりますので、効果がでるかどうかは気にしていないことがわかります。
(2)は、もっと難しいです。基本的には、欧米では、次のシーケンスになっています。
「失業、リスキリング、再就職、キャリアアップ」。しかし、今回の説明は、「失業なき労働移動、リスキリング、転職」ですので、具体的に何を意味しているのか、意味不明です。
以上のように、首相会見の説明は、筆者には、理解できませんでした。
マスコミは、各段の質問をしていませんでしたので、恐らく、説明が理解できたのだろうと思います。
そう考えると、内容以前の問題として、理解できるとは、どのようなことかというところから、検討を始めないと、先に進みそうにありません。
つまり、少なくとも、2種類の論理があるのでしょう。
2)「二つの文化と科学革命」の理解
チャールズ・P.スノーは、1959年にケンブリッジでリード講演「二つの文化と科学革命」を行っています。
ネットでヒットしたコメントは次のようなものです。
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科学と文化が論じられる際に必ず引用・言及される必須文献。
科学的文化と人文的文化の隔絶と対立を分析し、制度改革を提言した名著。
自然科学と人文科学、各々の知的・精神的風土の乖離と無理解がもたらす社会的危機を訴え大論争を巻き起こした書。
科学と文化を語る必須文献で、科学社会学が精緻化された現在も、常にルーツとして参照される名著。
意思疎通ができないような、また意思疎通しようとしないような二つの文化の存在は危険である。
科学がわれわれの運命の大半、すなわちわれわれの生死を決定しようという時代に、単に実際的な面からだけ考えても、それは危険なことである。
このような分断は、イギリスの早期専門化教育によって作り出されているとスノーは言います。
科学革命の時代には、富んだ国は技術によって豊かな暮らしを実現する一方、科学技術が普及しておらず貧しい国は以前の悲惨な暮らしを続けています。希望があるのは、科学技術を普及させれば、貧困問題は急速に解決に向かうだろうということです。
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こうしたコメントを見て、本当に、「二つの文化と科学革命」が理解されているのか不安になりました。
「二つの文化と科学革命」はどうして、必須文献なのでしょうか。
それは、「二つの文化と科学革命」が、英国の高等教育に影響を与えたからです。
日本の読者は、「二つの文化と科学革命」が、分断を指摘したことに価値があると判断している人が多いです。
本を読んで、理解するとは、行動変容が起こることをいいます。
スノーは技術者教育の重要性を指摘しています。
人文的文化の代表は、オックスフォード大学とケンブリッジ大学ですが、現在では、エンジニアにも力がはいっています。さらに、技術系の大学であるインペリアル・カレッジ・ロンドンの評価もあがっています。
インペリアル・カレッジ・ロンドンのQS世界大学ランキングは、2023に世界第6位です。(過去最高は2位、2014年)。
日本の大学では、1960年代に、理工系学部の定員が増えています。
こうした変化には、「二つの文化と科学革命」が、影響を与えていたと思われます。
「二つの文化と科学革命」が、原因になって、理工系学部の定員が増えた(結果)があったとは言えませんが、スノーが、「二つの文化と科学革命」で、エンジニアの高等教育が、国力に結びつき、各国が、そのために、努力すべきであるといった見通しは当たっていたと思われます。
スノーは、二つの文化が簡単に分かりあえるとはいっていませんが、人文科学の風土が、エンジニアの高等教育の足を引っ張らないように釘をさしたと読むこともできます。
そのレベルであれば、「二つの文化と科学革命」は十分すぎる影響を与えた書物です。
とはいえ、どうしたら相互に理解できるかという問題は解決されませんでした。
3)デジタル社会の二つの文化
スノーは、科学的文化と人文的文化を対比させました。
マイクロソフトの科学の4つのパラダイム論には、次の対応があります。
人文的文化:経験科学
科学的文化:理論科学、計算科学、データサイエンス
科学的文化では、問題とは、数式で表わせ、コンピュータで解くことのできるものです。
コンピュータが、無限ループに陥って、何時までも答えが出せない場合には、問題設定が間違っていると考えます。
科学的文化は、数学の論理で構成されます。数学的に間違った論理を使うことは詭弁であって、許容されません。白黒のつかない問題は、データサイエンスの進歩によって、条件付き確率で評価しなければならなくなりました。
データサイエンスでは、変数は確率変数です。
オリンピックで金メダルをとれる確率が50%の場合、同じオリンピックを2回行えば、1回は、金メダルを、1回は、銀メダルをとることになります。
同じ金メダルでも、確率が90%、70%、50%と異なれば、メダルの価値(実際の強さ)は異なります。
金メダルをとれたので、優勝者は、絶対に強かったと考えることは、統計的な誤りで、バイナリーバイアスと呼ばれます。
現在は、科学的文化に占めるデータサイエンスの比率が拡大したので、スノーの時代より、二つの文化のギャップは、拡大していると言えます。
理系の教育をうけた、経済学者(例えば、野口 悠紀雄氏)や経済評論家(例えば、加谷珪一氏)は、経済問題を、自然科学の論理で考えます。
筆者は、エビデンスが提示されているので、両氏の指摘は、概ね正しいと思いますが、こうした指摘が、経済政策に反映されているようには思えません。
つまり、経済政策の担当者は、人文的文化で経済政策を考えているように思われます。
科学的文化の教育を受けていれば、(おそらく、間違いは、それに気付かなかったためにおこったので)、間違いを指摘すれば、政策が改善されるだろうと考えます。
例えば、いくら実験をしても、期待した成果が得られない場合には、実験の手順か、仮説のどこかに間違いがあるわけですから、気付かなった間違いを指摘してくれることは、ウェルカムです。指摘を参考に実験を変更して、実験が、成功すれば全てよしとなるからです。
「課題を並べて、課題ごとに、大盤振る舞いで、補正予算をつける」ことで、過去に成果はあがっていません。日本は、失われた30年の中にいます。
これは失敗している実験と同じです。
自然科学の教育を受けていれば、実験が失敗した原因を指摘すれば、実験は、改善されて当然だと考えます。指摘が、間違っている場合には、指摘のどこに間違いがあるか、実験者は答えるはずです。
これが、自然科学で分かるというプロセスです。
ところが、人文的文化では、自然科学で分かるというプロセスが採用されないようです。
そうなると、スノーが「二つの文化と科学革命」で述べたように、2つの文化の間の相互理解はできないことになります。
それでは、何をすべきでしょうか。
できることは、スノーと同じように、違いを対比することだけだと思われます。
ネットを見ると、スノーが、二つの文化の分断を固定化したといって避難している人がいました。その方は、文化的相対主義者かもしれませんが、人文的文化が、科学的文化の手順を受け入れない限りは、分かり合えることはないと割り切るべきだと考えます。
科学的文化の手順は、正しい仮説を抽出する手順であって、そこには、分断を回避するという論理は通用しないからです。
デジタル社会へのレジームシフトが進めば、人文的文化の生息域が減少し、科学的文化が拡大します。
「科学革命の時代には、富んだ国は技術によって豊かな暮らしを実現する一方、科学技術が普及しておらず貧しい国は以前の悲惨な暮らしを続けています」は、デジタル社会用に書き換えれば、次になります。
「データサイエンスの時代には、富んだ国はデータサイエンスによって豊かな暮らしを実現する一方、データサイエンスが普及しておらず貧しい国は以前の悲惨な暮らしを続けています」
引用文献
高度経済成長は「日本人の努力の賜物」ではなく「幸運な偶然」だったと認めよう 2022/09/06 Newsweek 加谷珪一
https://www.newsweekjapan.jp/kaya/2022/09/post-200.php
日本人が直面する「先進国内の地位低下」の深刻さ 円安、低成長…古い経済構造の改革が大きな課題 2022/03/06 東洋経済 野口 悠紀雄
https://toyokeizai.net/articles/-/514227