(高等教育の再編とそれに対応した初等・中等教育の再編が急務です)
1)文系の消滅
日本の中等教育には、文系・理系という世界的に例のない特異なシステムがあります。
大学の受験も文系と理系に分かれています。
「二つの文化と科学革命」でスノーが、パラダイムの分断を論じたのは、半世紀も前です。
データサイエンスの出現によって経験科学の適用範囲は、今後、日に日に狭まっていきます。
この変化は、デジタル社会へのレジームシフトに対応しています。
経験科学が消滅していくように、文系も消滅していきます。
経験科学のシェアはゼロにはなりませんが、現在のマジョリティからマイナリティに変化します。
1-1)心理学の変遷
学問の変遷とは何かは、心理学の例をみれば分かり易いと思います。
心理学は、当初は文学部にありました。
20世紀に大きな影響があった心理学者のスキナーは自由意志とは幻想であり、ヒトの行動は過去の行動結果に依存すると考えていました。
スキナーの提唱した行動分析学とは人間または動物などの行動は、独立変数(環境)を操作することで従属変数(行動)がどの程度変化したかを記述することによって、行動の「原理」や「法則」を導き出すと考えます。
これは、因果モデルとしては、余りに、単純すぎます。スキナーが研究を始めた1950年代には、利用可能なコンピュータはなく、一方では、物理学が極端に単純なモデルで成功をおさめていました。このために、解析可能な単純なモデルを想定したと思われます。
簡単にいえば、バイナリーバイアスのかたまりのようなモデルです。
モデルは、時間に対して変化せず、学習のレベルによって学習方法が変化することも想定していません。
その後、人間の脳の中の変化が計測可能になり、学習による脳の変化は、スキナーの考えたような単純なモデルで説明できる世界とは、全く異なることがわかっています。
こうなると、脳科学があれば、心理学は無用になるかもしれません。
筆者は、心理学は脳科学に吸収されるのではないかと思った時期もあります。
現在の心理学は、脳科学、認知科学、経営学、データサイエンスと融合しています。
心理学という独立した学問の存続はもはやどうでもよいことになっています。
研究の成果が、脳科学であっても、利用者が経営者であれば、経営者に分かり易い形での情報提示は、有益なわけで、そこには、社会的ニーズがあります。アダム・グラント氏や、カーネマン氏はそこで、ビジネスをしています。
とはいえ、データサイエンスの視点でみれば、アダム・グラント氏や、カーネマン氏の引用している実験結果には、実験前から統計学的に答えが推測できてしまうものもあります。
いずれにしても、アメリカで起こっていることは、学問分野の融合であり、そのドライビングフォースは、データサイエンス(第4の科学、統計学)です。
1-2)経験科学学科の縮小
文部科学省が文学部不要論を主張しているという噂がながれたこともあります。
経験科学には、科学としての方法論がありませんので、その成果の科学としての客観性については、常に疑問符がつきます。
この場合、経験科学者は、歴史を経てきたものは真実であるといいますが、これは、明らかな間違いであり、科学のリテラシーの不足です。
この基準が正しければ、次のようになります。
(1)天動説は間違いである。
(2)進化は間違いである。
(3)女性に男性と同等の権利を認めるのは間違いである。
天動説は、歴史によって、地動説に入れ替わったと主張する人がいるかも知れませんが、ガリレオ裁判を思いおこせば、ヒストリアン(経験科学の手法)が間違っていることは明白です。
経験科学が有効である範囲は、検証可能なエビデンスデータが得られない場合と、モデルが複雑なモデルが脳の容量を超えているため、バーナリーバイアスのある手法によらざるを得ない場合に限られます。
コンピュータとビッグデータは、この2つの制限を急速に取り除いています。
その結果、経験科学の生息域は、データサイエンスによって侵食されています。
これは、言い方を変えれば、AIやDXが有効になってきたということです。
経験科学は、科学ではありません。
科学は、客観性を担保する手順が決められています。
心理学者のスキナーの例のように、客観性を担保する手順は常に見直しがなされて改訂されていきます。
現在の心理学の学会に、スキナーと同じような論文を提出しても、受理されません。
一方、経験科学では、スキナーの時代と同じ手順の論文が依然として受理されている学会もあります。心理学が、脳科学によって、書き直されたように、経験科学の多くは、データサイエンスによって書き直しが可能です。
ここに、深刻なギャップと問題があります。
2)大学の再編
この本では、工業社会から、デジタル社会へのレジームシフトを論じています。
工業社会になる前は、農業社会でした。
表1は、産業区分別就業者数割合です。
1950年には、50%を超えていましたので、農業者社会でした。
表2は、産業区分別GDP割合です。
とはいえ、GDP比率でみると、データのある1955年でも、第1次産業は19.2%にすぎません。この値は、2017年に1.2%まで下がっています。
第2次産業の就業人口比率のピークは1975年です。そのあと、第2次産業の人口比率は下がっていますが、1990年でも、33.6%ありましたが、その後、急速に低下しています。
Cは、産業区分別GDP割合を産業区分別就業者数割合でわっています。兼業もあるので、正確ではありませんが、概ね相対的な労働生産性を示しています。
3次産業の2017年のCは、1955年のCより下がっています。
このことから、3次産業の労働生産性が、大きな問題であることがわかります。
2-1)1次産業の衰退
1次産業の労働人口の減少は、農業社会から、工業社会へのレジームシフトによって起こりました。
高等教育で言えば、農業社会に対応する学部は、農学部です。
大学の定員も、社会のレジームシフトに対応するのであれば、農学部の定員は多すぎ、減らすべきということになります。
日本以外の先進国では、既に、農学部の定員は減っています。
この点は、既に、多くの人が指摘しています。
2-2)経験科学の衰退
現在進行しているレジームシフトは、工業社会からデジタル社会へのレジームシフトです。
今回論じたいのはこの影響です。
農業社会の技術の受け皿が農学部であるとすれば、工業社会の受け皿は工学部となります。
しかし、このロジックは、科学のパラダイムシフトとは対応していません。
本書で論じている科学のパラダイムシフトでは、データサイエンスが、経験科学にとって変わることで、劇的な労働生産性の高い第3次産業の雇用が創出されるだろうと予測されます。
データサイエンスを担当する学科は、理学部、工学部、経済学部などに分散しています。
つまり、全ての学部において、経験科学が中心の学科は、その内容が、データサイエンスに置き換え可能であるかというテストをうけることになると思われます。
このテストでは、データサイエンスでは、手に負えない場合には、特例として存続するか、それ以外は、組み換えになると思われます。
仮に、特例として、存続しても、データサイエンスを学べなければ、卒業生の所得は極めて低くなるはずですから、学生の募集に苦慮することになります。
現在は、年功型雇用の新卒一括採用で、学習内容を問わない、成績を問わない採用が行われていますが、外資系のジョブ型雇用が拡大した結果、この方法では、優秀な人材を採用することは、ほぼ、不可能になっています。
日本の大学生は、出席すれば卒業できるので、大学では、勉強しないことについて、国際比較では定評があります。
最近の「全国学生調査」(文部科学省、国立教育政策研究所)によれば、文系では、大多数の学生が、授業出席と卒業論文・研究に、1週間で10時間以下しか使っていません。
文系の経験科学には、科学としては、問題が多いのですが、それに輪をかけて、最近は勉強しなくなっています。
日本の年功型雇用はこの市場の外にありますが、その結果、低賃金になっています。これは、維持不可能です。
高度人材がいない国は、昔の植民地のような状態になります。こうなると、大学に行く価値はなくなります。
授業出席と卒業論文・研究に、1週間で10時間以下しか使わない学生を大学卒として、採用してくれる国は、日本だけです。
この状態を収拾するためには、大量のアカデミック難民が発生すると思われます。
アカデミック難民とは何かについては、別途、論じることにします。