道の駅ローズマリー公園(1)(南房総市)
全体が長くなったので、分割します。 引用文献は最終回にまとめます。
この道の駅を理解するには、シェイクスピアに関する予備知識が必要なので、そこから、始めます。
シェイクスピアの経歴
wikiを編集して要点を述べます。
ウィリアムシェイクスピア(1564年4月26日から1616年4月23日までのバプテスマ)は、英国の劇作家、詩人、俳優でした。彼は英語で最も偉大な作家であり、世界で最も偉大な劇作家として広く認められています。彼はしばしばイギリスの国民詩人であり、「吟遊詩人」(または単に「吟遊詩人」)と呼ばれています。コラボレーションを含む彼の現存する作品は、約39の演劇、 154のソネット、3つの長い物語詩、およびその他のいくつかの詩で構成されています。彼の演劇はすべての主要な生きている言語に翻訳され、他のどの劇作家よりも頻繁に演じられます。彼の作品は研究され、再解釈され続けています。
シェイクスピアはウォリックシャーのストラトフォードアポンエイボンで生まれ育ちました。18歳のとき、彼はアン・ハサウェイと結婚しました。アン・ハサウェイは、スザンナと双子のハムネットとジュディスの3人の子供を産みました。1585年から1592年の間に、彼はロンドンで俳優、作家、宮内大臣一座と呼ばれる劇団の共同所有者として成功したキャリアを始めました。
1593年と1594年には、ペストのために劇場が閉鎖されています。
1594年以降、シェイクスピアの戯曲は、シェイクスピアを含むプレーヤーのグループが所有する宮内大臣一座によってのみ上演され、すぐにロンドンの主要な戯曲会社になりました。
シェイクスピアの戯曲は、公演が進んだ後で、出版されています。初公演の日付の確定は難しく、その結果、作品執筆された年代の確定はさらに困難です。
1595年には、シェイクスピアはかなりの資産を有しており、1597年に、ストラトフォードアポンエイボンにニュープレイス(New Place)として知られる新しい家族の家を買います。
彼のキャリアを通して、シェイクスピアはロンドンとストラットフォードの間を行き来しました。
1596年、(ニュープレイスを購入する前の年)シェイクスピアはテムズ川の北にあるビショップスゲートのセントヘレンズの教区に住んでいました。彼は1599年までに川を渡ってサザークに移動します。
1599年、会社のメンバーのパートナーシップにより、テムズ川の南岸に独自の劇場が建設され、グローブと名付けられました。
1604年までに、彼は再び川の北に移動し、多くの立派な家が建ち並ぶセントポール大聖堂の北の地域に移動しました。
1610年以降、シェイクスピアは戯曲の執筆が減り、1613年以降は、執筆していません。
1613年6月29日のヘンリー8世の公演中にグローブ座が全焼します。
シェイクスピアはこの前後に引退したと考えられており、晩年をニューハウスで過ごして、1616年に亡くなります。
ニュープレイス
以上のように、ニュープレイスは、ロンドン以外では、シェイクスピアが活動に中心にした場所です。
後述のようにニュープレイスは、破壊されて現存していませんが、廃墟は残っており、2010年から2015年まで、スタッフォードシャー大学がニュープレイス考古学的発掘をしています。
シェイクスピアは1597年にウィリアムアンダーヒル(William Underhill)から、ストラトフォードアポンエイボンにあるニュープレイス(New Place)を約120ポンドで購入しました。
「ニュープレイス(New Place)」または「グレートハウス(the Great House)」は、1480年代にヒュークロプトン(Hugh Clopton)によってチャペルストリート(Chapel Street)(ギルドチャペル(the Guild Chapel)の反対側)に建てられます。
彫刻家ジョージ・ヴァーチュー(George Vertue)によるチャペル通りから見たニュープレイスの18世紀の絵が1つ残っています。発掘調査によるとシェイクスピア自身が間口を再構築し、芸術品を展示して楽しませる場所である長いギャラリーを追加したようです。
ニュープレイスは、ストラトフォードで2番目に大きな邸宅でした。ニュープレイスは、自治区で最大の家であり、中庭のある唯一の家でした。ニュープレイスには、10の炉床があり、20〜30の部屋があり、シェイクスピアの家族全員のために、十分なスペースがありました。中庭の裏側には、シェイクスピアの家族生活の主要な集いの場である、中世後期の大きなホールが立っていました。
シェイクスピアの死後、ニュープレイスは、子孫に引き継がれ、クロプトン家に返されます。
1702年、ジョン・クロップトンはニュープレイスを大改築しています。改築後のイラストが残っています。 1756年、当時の所有者のフランシスガストレル牧師は、訪問者にうんざりして、シェイクスピアが植えたと言われる庭の桑の木を切り倒します。町民は、これに報復して、ニュープレイスの窓を破壊ました。 ガストレルは、庭を拡張するための地元の許可を申請しますが、申請は却下され、増税されたため、ガストレルは1759年に家を破壊しまいます。これは住民を大いに怒らせ、ガストレルは最終的に町を離れます。
こうして、ニュープレイスを示す資料は、ヴァーチューの1枚の絵だけになります。
ところで、ローズマリー公園のパンフレットには、ニュープレイスについて、次のように書かれています
インフォメーション・ショップ
唯一残されていた17世紀の旅人のスケッチ画をもとに世界で初めて復元された建物です。道の駅のインフォメーションとショップがあります。ハーブティー、お香、石鹸等も販売しています。
これでは、インフォメーション・ショップが、復元された建物であることしかわかりません。
なぜ、復元する価値があったのか、復元する元の建物は、誰が、何のためにつかっていたのかが書かれていません。
ローズマリーガーデンを訪問した人もWEBにも、「唯一残されていた17世紀の旅人のスケッチ画をもとに世界で初めて復元された建物」がコピーされていますが、コピーした人が内容を理解しているとは思えません。
なお、「唯一残されていた17世紀の旅人のスケッチ画」は、彫刻家ジョージ・ヴァーチューのスケッチの誤りと思われます。