「要因間の独立性を前提とした実験」によって検証された科学的な知識を使って、設計をする場合には、設計にどのような性質が付与されることになるのかを検討することが、今回のテーマです。
実験によって得られた科学的な知識は、「if 原因 then 結果」の形式に表されます。より複雑な因果モデルもありますが、一般に用いられている科学的知識は、ほぼ、この形式で書くことができます。ここで、結果が、有益なものと、有害なもので対応がわかれます。有益なものであれば、結果の量が増えるように、原因を制御します。有害なものであれば、結果の量が減るように、原因を制御します。この場合には、原因のパラメータだけを変えて設計します。つまり、科学的な知識を使うときに、「独立性の前提」が設計にも伝播しています。
設計には、ゼロからモノを作る場合(1番目の例)と、既存のものを一部作り替える場合(2番目の例)があります。
ガソリンエンジンの場合には、「燃焼させる」ことが原因になって、結果として「推進エネルギーを得る」ことができます。エンジンの性能を上げるためには、燃焼の方法に工夫をして、得られる推進エネルギーが大きくなるように設計します。不完全燃焼をして排ガスが問題になる場合には、燃焼の方法を工夫をして、有害な排ガスの量を減らすように設計します。この場合には、推進エネルギーが最大でなくなることもありますが、燃焼の方法は任意に設計できるという「独立性の前提」が設計の前提になっていることには変わりがありません。
灌漑は、光合成の科学知識の応用です。この場合には、光合成に必要な条件は複数ありますが、水以外の他の要因が十分に満たされていて、水だけが不足の場合には、「水をかける」が原因で、結果は、「収量が増える」ことになります。そのために、灌漑施設を設計します。
設計とは、「独立性の前提」をつかって、原因を変化させ、望ましい結果を得る方法ということができます。
設計における問題点に結果の波及効果があります。設計をするときは、とりあえず、原因と結果の2つのパラメータだけを考えます。その後で、問題が出た場合には、設計を調整をすればよいと考えます。排ガス対策がその例です。排ガスは、結果の波及効果のひとつです。排ガスは、結果とともに生ずる廃棄物(waste)ともみることもできます。
灌漑は、水が不足するほど効果が大きくなります。つまり、乾燥地であれば、劇的な効果があります。しかし、ここで、廃棄物(waste)である排水(灌漑に使ったあまり水)の処理を間違えると、塩害が発生して、農地が壊れてしまいます。このような場合でも、地下水位を制御するなどの設計の調整によって、問題の回避が可能です。
つまり、「科学的知識は絶対に正しいが使い方を間違えると問題が発生する。そのような場合には、設計に工夫をすれば、問題は回避できる。」という暗黙の了解があると思われます。これは、「独立性の前提」を維持したまま問題を解決する立場なので、科学における独立性の前提が設計に伝播した現象の一部とも考えられます。
しかしながら、燃焼機関で、ガソリンを燃やした場合に、設計の工夫によって、二酸化炭素を出ないようにすることはできません。
化学合成で、石油からプラスチックを作って、廃プラスチックがでないようにすることは不可能です。廃プラチックを分解しやすくするとか、回収することはできますが、廃棄物(waste)がゼロのものづくりは不可能です。
核燃料を燃やして、廃棄物(waste)の処理が問題になっています。その理由は、「問題が発生した場合には、後で、設計の工夫をすれば問題は解決できる」という根拠のない自信に由来しているとも考えられます。
こう考えますと、廃棄物(waste)の問題が生じた場合の現状認識には次の2つの立場があるように思われます。
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科学的な知識は正しいが、設計において使い方を誤った。設計を改善すれば問題は解決できる。
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科学的な知識が、間違った独立性の前提のもとに作られた点に問題の根源がある。
後者の立場は、「独立性の前提は虚構である」とする立場です。簡単にいえば、複雑な問題を無理に単純化して本質が分かったつもりになっているのは、どうかしているという立場です。廃棄物(waste)は物質循環の一部です。物質循環が存在する以上、独立性の仮定は虚構だと考える訳です。前者は典型的には物理学的な世界観で、後者が生態学的な世界観といってもよいかもしれません。
設計は基本は前者の立場にたっています。これには、問題がある可能性が大きいと思います。しかし、後者の立場も安泰ではなく、後者の立場に立った科学や、設計は可能かという問いに答えられなければ生き残らないと思われます。
2つの立場があるということは、突き詰めていけば、循環型社会と科学の真理は相容れないということと等価であると思われます。