8-1)何が起きているのか
「論理的思考とは何か」では、4つの論理的思考の類型を取り上げています。
「経済(アメリカ)」、「政治(フランス)」、「法技術(イラン)」、「社会(日本)」の4つです。
ここで、疑問があります。
「論理的思考とは何か」の執筆者は、日本人です。日本人は、執筆者は、「社会(日本)」の論理を使うといいます。
「経済(アメリカ)」のエッセイ作成のレシピは、「経済(アメリカ)」の論理で理解すべきです。
しかし、執筆者は、「経済(アメリカ)」のエッセイ作成のレシピを、「社会(日本)」の論理で理解していないでしょうか。
アメリカ人は、「社会(日本)」のエッセイ作成のレシピを、「経済(アメリカ)」の論理で理解しようとします。
太平洋戦争中、現地駐留帝國陸軍(第31軍)司令部がサイパン島北部にあり、アメリカ軍の激しい戦闘(サイパンの戦い、1944年6月15日 - 7月9日)において、追い詰められた日本兵や民間人が、アメリカ兵からの投降勧告、説得に応じず、スーサイドクリフ(Suicide Cliff)とバンザイクリフ(Banzai Cliff、80m)の下の海に身を投じて自決しました。
アメリカ軍は、このときに、投降勧告、説得に応じない、自殺を選ぶ「社会(日本)」の論理が、「経済(アメリカ)」の論理では理解できなかったことになります。
「論理的思考とは何か」の用語で説明すれば、こうなります。
脇田晴子氏は、特攻を実現させた原因は、中世から続く、天皇制の文化であったと主張しました。
特攻と投身自殺の原因は同じです。
つまり、脇田晴子氏の用語を使えば、「社会(日本)」の論理は、<「社会(日本)」の文化>と呼ぶべきです。
フランス文学者・水林章氏は、特攻の原因は、天皇制にあるという脇田晴子氏の主張を継承しています。さらに、日本から、民主主義や人権を無視した形での、旧態依然の天皇制の文化が残っていて、その原因には、日本語が関係しているといいます。
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徳川権力は、それ(中世の契約)に代わって、上位者が下位者に命令し、下位者が上位者に隷従する垂直構造(「将軍→大名→家臣→領民」)を本質とする法度体制を作り上げた。それは8世紀に中国から継受した律令の日本的実質化として理解すべきものであった。そしてこのような非同輩者的=命令的・隷従的秩序が、実は、それを否定しているはずの、日本国憲法を最高法規とする今日の政治体制においても生き残り、社会の根幹を特徴づけているのである。価値が上位者に集中していることを示す「えらい」という日本語独特の言葉が象徴的に示しているように、十五年戦争の悲惨と大いに関係のある「権力の偏重」(福澤諭吉)・「抑圧移譲」(丸山眞男)はこの国の本質的特徴であることを止めていない。政界からヤクザまで、あらゆる団体を貫通する親分・子分的論理のことを想起されたい。
それでは、その生き残りを可能にしているのは何なのか。わたしは日本語が大きく作用しているのではないかと考えるのである、言語は社会関係の再生産に大いにかかわる。日本語の歴史の専門家によれば、現代人の言葉の直接の起源は江戸時代にあるという。ということは、非同輩者的=命令的・隷従的秩序を完成させた時代の言語を使って、われわれは今を生きているということである。
この国に本当の意味での市民社会、つまり同輩の市民たちが担う社会という意味での市民社会が成立するためには、日本語がそれに相応しい変容を遂げる必要があるということである。今日明日の話ではありえない。
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<< 引用文献
何事もおこらないのはなぜか――『日本語に生まれること、フランス語を生きること』をめぐって(1)
https://book.asahi.com/jinbun/article/15014104
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水林章氏は、問題点を指摘していますが、「日本語がそれに相応しい変容を遂げる」具体的な解決の道筋を提示していません。
8-2)メタ知識
科学は、「データと実験がすべて」です。
水林章氏は、数値データも実験も示していません。
筆者も、ここでの考察では、数値データも実験も示していません。
この方法は、科学では禁じ手ですが、メタサイエンスは例外になります。
水林章氏は、日本語に、法度制度(封建制度)が組み込まれていると主張します。
つまり、水林章氏は、民主主義を否定する法度制度は、メタ知識の問題であると言っています。
そこで、メタ知識としての日本語を考えます。
8-3)段落( danraku)とパラグラフ(paragraph)
「論理的思考とは何か」は、日本語と英語の段落を同一にあつかってます。
英語版のウィキペディアのパラグラフ(paragraph)には、次のように書かれています。
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トピック センテンスは主に学校での文章作成で見られる現象であり、この慣習は必ずしも他の文脈に当てはまるわけではありません。このアドバイスは文化特有のものでもあり、たとえば、日本語の段落の構成に関する一般的なアドバイス ( 「danraku段落」と翻訳されます) とは異なります。
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トピックセンテンスを含むパラグラフ(paragraph)と、トピックセンテンスを含まない段落( danraku)は、別のもので、何が、パラグラフ(paragraph)になるかは、文化特有のものであると説明しています。
この段落( danraku)とパラグラフ(paragraph)は、対応していないという主張は、Kazumi Kimura and Masako Kondo に、よっています。
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効果的なライティング指導:日本語の段落( danraku)から英語のパラグラフ(paragraph)まで
本稿では、日本語の段落( danraku)と英語のパラグラフ(paragraph)の違いと、その違いが学生の英語と日本語のエッセイに与える影響について検討する。主な発見は、日本の学生は段落( danraku)のような構造を多く含む英語のエッセイを書く傾向があるということである。その結果、英語を母国語とする人から、彼らのエッセイは焦点が定まらず、構成が不十分であるとみなされることが多い。ESL または EFL のライティング指導への影響について議論する。
対照修辞学に関するこれまでの研究では、日本人の修辞構成パターンは英語の文章に悪影響を及ぼしていると主張されてきた (Kaplan, 1966, 1988; Hinds, 1990)。これは、日本人が英語で書いた文章に見られる現象である。対照修辞学の研究者である Hinds (1990) は、日本人の書き手は論旨を文末に置く傾向があるため、英語を母国語とする人が文章の展開を予測することが難しいことが多いと主張している。日本人生徒の英語教師は、より演繹的に文章を書くよう奨励してきたが、生徒の作品は依然として焦点と論理的構成に欠ける傾向がある。日本人生徒がよく構成されたパラグラフ(paragraph)を書けない理由を推測すると、多くの日本人生徒が英語のパラグラフ(paragraph)を日本語の段落( danraku)と同一視しているのではないかと考えられる。この仮説を検証するために、本研究では、段落( danraku)と英語のパラグラフ(paragraph)構造を比較しながら、日本人生徒の文章を調査する。また、英語の修辞学と、それに対応する日本の修辞学(修辞学)の違いについても調査しています。 最後に、この研究では、英語と日本語で書かれたエッセイで学生が使用するパラグラフ(paragraph)と段落( danraku)を分析しています。また、日本の段落( danraku)の慣習が英語のパラグラフ(paragraph)に転用された 、ある日本人学生の英語エッセイの例として、その文章も示しています。
パラグラフ(paragraph)と段落( danraku)
パラグラフ(paragraph)は通常、一連の文で構成されますが、優れたパラグラフ(paragraph)には単なる一連の文以上のものが求められます。Oshima と Hogue (1991) はパラグラフ(paragraph)を次のように定義しています。
「パラグラフ(paragraph)とは、パラグラフ(paragraph)のトピックである 1 つの主要なアイデアを展開する、関連する文の集まりです」(p.16)。
Hodges et al. (1990) は、適切なパラグラフ(paragraph)の構成方法についても説明しています。
「良いパラグラフ(paragraph)は統一され、首尾一貫し、よく展開されています。パラグラフ(paragraph) 1 と 2 では、各パラグラフ(paragraph)の文が 1 つの主要なアイデアにどのように関連しているかに注目してください」(p. 322)。
上で示したように、1 つのパラグラフ(paragraph)に 1 つの主要なアイデアがあるというのは、英語の文章の原則です。
構成要素については、パラグラフ(paragraph)は 3 種類の文、つまりトピック センテンス、サポート センテンス、結論文で構成されています。Oshima と Hogue (1991) は、トピック センテンスはパラグラフ(paragraph)で最も一般的な文であると書いています。トピック センテンスにはトピックと、パラグラフ(paragraph)の残りの部分で説明されるトピックに関するアイデアが含まれます。サポート センテンスはトピックについての詳細を述べることでトピック センテンスを展開します。結論文は「パラグラフ(paragraph)の要点を要約し、トピックに関する最終的なコメントを述べます」(p. 26)。Strunk と White (1979) はまた、書き手に対して「各パラグラフ(paragraph)をトピックを示唆する文か、移行に役立つ文で始める」(p. 16) ことを推奨しています。
一方、段落( danraku)の定義や機能は曖昧で、段落( danraku)に求められる要件はほとんどの作文教科書で明確に述べられていない。新村(2001)によると、段落( danraku)は「長い文章における主要な区分」と定義されている。松村(1999)も段落( danraku)を「長い文章の一部分であり、同じ内容の区分群」と定義している。他の辞書でも、段落( danraku)についてより明確な定義は見当たらない。また、段落( danraku)のルールや要件を示唆する本もない。そのため、ほとんどの日本人が文章を書くときには、トピックセンテンスやサポートセンテンスの概念は存在しない。松村(1999)は段落( danraku)を同じ内容のグループと表現しているが、これはトピックに関係する限り、どんな文でも段落( danraku)に含めることができることを意味する。そのため、日本人の書き手は特定のルールに従う必要がなく、柔軟に段落( danraku)を作ることができるが、英語の書き手はパラグラフ(paragraph)について特定の原則に固執しなければならないとされている。段落( danraku)に関するもっと意外なコメントは、宇佐美の日本語作文指導に関するコメント (1998) の中にあります。「段落( danraku)は文章を書く上で不可欠な要素ではない」(p. 96)。したがって、段落( danraku)は、英語の作家が真剣に受け止めるパラグラフ(paragraph)とは対照的に、一部の日本人作家によって軽視されています。これは、木下 (1981) の「ほとんどの日本人作家は、パラグラフ(paragraph)で多くのことを書いたと思ってパラグラフ(paragraph)を終わらせるかもしれない」(p. 61) という観察によって裏付けられています。このようなコメントから判断すると、各文が特定のパラグラフ(paragraph)に存在する理由は曖昧であり、ほとんどの日本人作家は段落( danraku)を恣意的に結論付けています。作家は、トピック センテンスとサポート センテンスの厳密な構成を必要としないため、 1 つの段落に 2 つ以上の主要なアイデアを入れることができます。英和辞典と日英辞典では、これらの単語は同義語として記載されていますが、パラグラフ(paragraph)と段落( danraku)が異なる機能を共有している ことは明らかです。パラグラフ(paragraph)と段落( danraku)の決定的な違いにより、日本の学生は英語で文章を書くときに不明瞭で焦点の定まらないパラグラフ(paragraph)を書く可能性があります。彼らは、パラグラフ(paragraph)を段落( danraku)のように構成し、トピックセンテンスとサポートセンテンスの論理的な組み合わせを一切行いません。また、段落( danraku)ではそれが可能であるため、1つのパラグラフ(paragraph)に2つ以上の主要なアイデアを配置することもよくあります。日本の作家は、適切なサポートセンテンスが続く明確なトピックセンテンスを述べることに注意を払わない傾向があります。したがって、日本の学生は段落( danraku)とパラグラフ(paragraph)は同じではないことを理解し、段落( danraku)スタイルで英語を書いてはなりません。
効果的なライティング指導のガイドライン
1.パラグラフ(paragraph)は段落( danraku)とは全く異なる構成単位であることを覚えておいてください。
2.主題文が主張をしており、支持文がその主張を詳細に説明または証明していることを確認します。
3.パラグラフ(paragraph)内のすべての文が同じ考えを論じていることを確認します。生徒が新しい考えを論じ始めたら、新しいパラグラフ(paragraph)を始めます。
4.下書きを書き始める前に、トピック センテンスと主要な補足文を含むアウトラインを作成します。これにより、ライターは一貫性と統一性を保つことができます。
5.英語のエッセイを書く目的は、読者の感情を動かすことではなく、読者に情報を効果的に伝えることであることを強調します。
これらのガイドラインが明確に提示されれば、日本の学生が段落(danraku)とパラグラフ(paragraph)ライティングの慣習 を混同することを避けるようになると期待しています。この仮説を裏付けるために、さらに長期にわたる研究を行う必要があります。
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<< 引用文献
Effective writing instruction:From Japanese danraku to English paragraphs Kazumi Kimura and Masako Kondo
https://pansig.org/publications/pansig/2004/HTML/KimKon.htm
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ここで提示してされている仮説は、日本語と英語の違いは、段落やパラグラフの構成の違いにあるのではなく、段落とパラグラフが全く異なる文章のまとまりであることから、生じているというものです。
段落とパラグラフは異なるので、構成の比較は意味がないことになります。
日本語と英語の文化の違いは、段落やパラグラフの構成の順番にあるのではなく、段落とパラグラフの文書のまとまりの概念の違いにあることになります。
8-3)理解の可能性
「論理的思考とは何か」の執筆者は、アメリカのコロンビア大学に留学して、エッセイを段落(danraku)で書いて赤点をもらって、エッセイをパラグラフ(paragraph)で書きなおして、良い点を得ることが出来たと言っています。(p.ii、筆者の要約)そのことが、「論理的思考とは何か」を考える動機であったといいます。
段落(danraku)には、トピック センテンスがないので、アメリカ人は、理解できません。
これは、スーサイドクリフ(Suicide Cliff)とバンザイクリフ(Banzai Cliff、80m)で、身を投じて自決する日本人の行動が理解できないことと同じ認知パターンです。
「論理的思考とは何か」では、4つの論理的思考の類型を取り上げています。
「経済(アメリカ)」、「政治(フランス)」、「法技術(イラン)」、「社会(日本)」の4つです。
アメリカのコミュニケーションの基本は、パラグラフ(paragraph)です。
日本のコミュニケーションの基本は、段落(danraku)です。
フランスとイランのコミュニケーションの基本単位は、わかりません。
段落(danraku)の文化は、パラグラフ(paragraph)の文化では理解できません。
これが、バンザイクリフで起こった文化の衝突です。
もちろん、アメリカ軍は、バンザイクリフで投身自殺が起きたというファクトは理解しています。しかし、その原因は、理解できません。
キリスト教会(ディサイプルズ・オブ・クライスト)と提携していたアメリカの新宗教団体である人民寺院は、1978年11月18日にガイアナの人里離れた集落「ジョーンズタウン」で集団自殺と大量殺人により909人が死亡する事件を起こしました。
アメリカ人の多くは、人民寺院が、集団自殺と大量殺人を起こしたというファクトは、理解していますが、その原因は、理解できません。
同様に、パラグラフ(paragraph)の文化は、段落(danraku)の文化では、理解できないはずです。
筆者は、現役時代は、水資源が専門でしたが、推論は、科学の方法を使いますので、科学の推論とメタ科学である哲学の推論を理解しています。これは、パラグラフ(paragraph)の文化です。段落(danraku)の文化で、論文に、感情や共感を欠くと、それは科学技術論文ではなくなります。
つまり、筆者は、段落(danraku)の文化があることをファクトとしては、理解していますが、その推論は理解できません。これは、「人民寺院が、集団自殺と大量殺人を起こした」原因が理解できないことと同じ認知パターンです。
この認知パターンがなければ、科学技術論文はかけません。論文に、感情や共感を欠くと、それは、忖度になってしまい、科学の再現性がなくなってしまいます。それでは、学問が成立しなくなります。
水林章氏は、フランス文学者で、フランス語の本を出版しています。
水林章氏は、日本語に問題があるといいますが、これは、フランス語のパラグラフの文化からみれば、日本語の段落(danraku)の文化が理解できないという主張であると思われます。
筆者は、大陸哲学は理解できません。これは、パースが、プラグマティズムをカント哲学の否定からスタートした点に対応しています。パースは、大陸哲学を含む形而上学を否定しています。大陸哲学の一部では、形而上学で、インスタンスを無視します。インスタンスを無視すると、コンピュータコードがかけません。なので、筆者は、フランスとドイツから、有力なデジタル企業が育つ可能性は低いと考えています。簡単に言えば、プラグマティズムは、コンピュータに実装できますが、カント哲学は、コンピュータに実装できません。最近流行のフランスのポストモダン思想も、(詳しく理解していませんが)コンピュータに実装できないと思っています。
フランス人の歴史学のエマニュエル・トッド氏は、大陸哲学を言葉遊びであると批判しています。
「論理的思考とは何か」では、科学推論の方法や、プラグマティズムの推論の方法が検討されていますが、その理解は、筆者のメンタルモデルには、一致しません。
つまり、「論理的思考とは何か」は、日本語の段落(danraku)の文化で書かれています。
水林章氏の主張を継承すれば、「論理的思考とは何か」を、日本語の段落(danraku)の文化から、独立して表現するには、「論理的思考とは何か」を、フランス語か、英語で書くべきになります。
筆者は、パラグラフ(paragraph)と段落( danraku)を区別すれば、日本語でも、法度制度に制約されない表現が可能であると考えます。
水林章氏は、法度制度の確立は、江戸幕府からで、中世の日本では、契約概念が通用していたといいます。これは、中世の日本語は、法度制度に制約されない表現をしていたという主張になります。
つまり、水林章氏は、明示的には述べていませんが、契約概念が通用していた中世日本語のある要素を復活することができれば、日本語が、法度制度を強化しているという制約を解除することができます。