論理と科学(6)

6-1)教育と洗脳

 

英語版のウィキペディアで、民主主義の項を引用した時に、次の文章がありました。

教育と経済成長の間に想定されているつながりは、実証的証拠を分析する際に疑問視される。各国で、教育達成度と数学のテストの点数の相関は非常に弱い(0.07)。生徒一人当たりの支出と数学の能力の間にも同様に弱い関係がある(0.26)。さらに、歴史的証拠は、一般大衆の平均的な人的資本(識字率で測定)は、反対の意見があるにもかかわらず、1750年から1850年にかけてのフランスにおける産業化の始まりを説明できないことを示唆している。これらの調査結果を総合すると、一般に主張されているように、教育が必ずしも人的資本と経済成長を促進するわけではないことがわかる。むしろ、証拠は、教育の提供が表明された目標に達しないことが多いこと、あるいは、政治主体が教育を利用して経済成長や発展以外の目標を促進していることを示唆している。

 

「政治主体が教育を利用して経済成長や発展以外の目標を促進していること」は、堀江貴文氏の「すべての教育は「洗脳」である~21世紀の脱・学校論~」に対応します。

ただし、「教育達成度と数学のテストの点数の相関」を調べているように、数学教育が洗脳である可能性は低いと思われます。

 

同様に考えれば、物理学教育が洗脳である可能性も低いです。

 

さらに、考えれば、科学には、客観性があります。

 

客観とは、主観から独立していることになります。

 

これは、言い換えれば、誰が推論しても同じ結論になることを指します。

 

科学は、「データと実験のみ」に基づくので、客観になります。

 

科学は、推論の主体の影響を受けません。

 

したがって、科学教育を通じて、洗脳することは不可能です。

 

堀江貴文氏の発言は、<すべての教育は「洗脳」である、ただし、科学教育を除く>と但し書きをつけるべきであると思われます。

 

6-2)論理的思考の問題

 

随分、遠回りをしましたが、ここで、再び「論理的思考とは何か」を取り上げます。

 

「論理的思考とは何か」では、4つの論理的思考の類型を取り上げています。

 

「経済(アメリカ)」、「政治(フランス)」、「法技術(イラン)」、「社会(日本)」の4つです。

 

引用している4つの内容は、英語版のウィキペディアの記述を標準と考えている筆者のメンタルモデルとは一致しません。

 

さて、その点は無視して、先に進みます。

 

執筆者は、宗教の法技術の論理を持ち出します。宗教の論理は、堀江貴文氏の「洗脳」そのものです。ウィキペディアの「政治主体が教育を利用して経済成長や発展以外の目標を促進していること」に相当します。

 

これは、数学的な論理思考ではありません。

 

「論理的思考とは何か」には、驚くべき記述があります。

 

「思考する目的が異なれば、その手段としての結論を導く手順が変わり、論理的であることの基準が変わる」(p.i)

 

世界を目的によって分類するのは、アリストテレスの世界観です。進化論でいえば、ダーウィンではなく、ラマルクになります。近代は、目的論的世界観を否定するところから始まっています。目的論的世界観は、人権思想の否定になります。なぜなら、王様は王様の目的を持って生まれ、奴隷は、奴隷の目的を持って生まれていることになるからです。人権思想は、世界には、アプリオリな目的はないところからスタートします。

 

引用文献をみると、著者が、アリストテレスの思考パターンを継承していることが確認できます。

 

しかし、「論理的であること」が多くの小論文の指南書が指摘するように単に証拠を示したり、帰納や演繹、因果を使って説明することだと受けとめると、この文化の衝突はその原因をが全く見えないまま、能力の高低の問題にすり替えられてまう。

>(p.viii)

 

この大胆な表現には、言葉を失います。「証拠を示したり、帰納や演繹、因果を使って説明すること」(科学的であること)を回避することは、科学を否定することです。

 

筆者は、「文化の衝突」を理解するよりも、「科学を理解する」ことが重要であると考えます。

 

ガリレオ裁判では、「文化の衝突」が起きました。バチカンキリスト教の論理と、ガリレオの「データと実験のみをもとに推論する」という科学の論理が衝突しました。

 

しかし、筆者は、「文化の衝突」があったから、バチカンキリスト教の論理を理解すべきであるとは思いません。「データと実験のみをもとに推論する」という科学の論理を習得する方が、重要であると考えます。

 

バチカンキリスト教の論理を理解すれば、バチカンが正しく、ガリレオが間違っていることになります。キリスト教の論理は、「データと実験のみをもとに推論する」客観の論理ではなく、主観の論理ですから、そうなります。主観の論理では、推論の主体によって、結論が異なります。

 

しかし、主観の論理を認めれば、魔女狩りは正しくなり、太平洋戦争の特攻もよい行いになります。そこには、「文化の衝突」はありませんが、膨大な人的犠牲が生じます。

 

アメリカは、資本主義の旗手として経済が重視されているのは自明のことと受け止められているが、学校で教えているのはいかに利益を上げて資本を蓄積しているかではない。学校で、教えているのは、資本主義経済で重視されてるものの見方・考え方とその表現法である」(p.viii)

 

アメリカの基本思想は、パースが始めたプラグマティズムです。これは、哲学を含む形而上学を排除して、データにもとづく科学的な意思決定をする方法です。学校教育では、デューイを通じて、プラグマティズムが普及しています。ブッシュ政権から、エビデンスに基づく教育(エビデンスに基づく教育政策の選択)も普及しています。また、ロックの財産権を優先する民主主義が浸透しています。例えば、福祉にお金を投資する場合にも、税金という財産権侵害ルートではなく、個人の寄付という財産権を優先するルートが好まれます。これが、リバタリアンの思想になります。財産権は、民主主義の基本ですから、学校教育のテーマになります。アメリカの学校教育が、民主主義を教育するのは、当然ですが、アメリカの学校教育が、「資本主義経済で重視されてるものの見方・考え方とその表現法」を教えていると考える根拠はありません。

 

日本の国会論戦では、野党は、公的負担を増やす要求を繰り返します。その財源は、税金なので、野党は、財産権の侵害をそそのかしています。アメリカの学校教育では、財産権の侵害は、民主主義に反する(ロックの主張)と教えているはずです。日本の学校教育では、民主主義と財産権の関係を教えませんので、リバタリアンが生まれません。

 

6-3)五パラグラフ・エッセイ

 

アメリカの)五パラグラフ・エッセイ(p.66)が、アメリカの論理の典型として取り上げられています。

英語版のウィキペディアの説明は以下です、

五パラグラフ・エッセイ(Five-paragraph essay)

 

五パラグラフ・エッセイは、5 つの段落(1 つの導入段落、サポートと展開を含む 3 つの本文段落、および 1 つの結論段落) で構成されるエッセイの形式です。この構造のため、ハンバーガー エッセイ、ワン スリー ワン、または3 層エッセイとも呼ばれます。

 

概要

5段落エッセイは、5つの段落を持つエッセイの形式です。

 

導入文1つ、

 

裏付けと展開を盛り込んだ3つの本文段落、および

 

結論の段落が 1 つ。

 

序論は、読者に基本的な前提を伝え、次に著者の論点、つまり中心となる考えを述べる役割を果たします。論点は、各本文段落の主題を指摘するためにも使用できます。論点エッセイをこの形式に適用する場合、最初の段落は通常、物語のフック、その後に一般的なテーマを紹介する文、そして前の段落の焦点を絞る別の文で構成されます。(著者がテキストベースの論点にこの形式を使用している場合、エッセイの筆者の主張を裏付けるテキストを引用した文が、テキスト名と著者名とともに、通常ここに配置されます。例:「本『夜』の中で、エリ・ヴィーゼルはこう言っています...」)。この後、著者は問題を述べるか特定することでトピックの議論を絞り込みます。多くの場合、ここでは論文のレイアウトを説明するために構成文が使用されます。最後に、このようなエッセイの最初の段落の最後の文で、著者が証明しようとしている論点を述べます。論文は、エッセイの「ロードマップ」にリンクされることが多く、これは基本的に、3 つの本文段落で扱う内容を正確に記述し、プレゼンテーションの順序で項目を示す、埋め込まれたアウトラインです。構成文と混同しないでください。論文は単に「本『夜』は、エリ・ヴィーゼルの無邪気さから経験への旅を追う」と述べるだけですが、構成文はエッセイの構造と順序を直接記述します。基本的に、論文のステートメントはエッセイ全体を通して証明される必要があります。3 つの本文段落のそれぞれで、論文のステートメントを裏付ける 1 つ以上の特定された (証拠/事実など) が議論されます。そして結論では、すべてが分析され、要約されます。たとえば、スポーツに関するエッセイの結論部分は次のとおりです。「スポーツは、一般的な健康、血液循環、全体的な体力の向上など、若者に多くの利点をもたらします。スポーツは、人々の身体的、社会的、組織的スキルを開発および向上させます。これらは、個人的および職業的な生活に有益であり、常に習得する必要があります。」

 

批評

トーマス・E・ナナリーとキンバリー・ウェズリーによると、ほとんどの教師や教授は、5 段落形式はアイデアを十分に展開するのに最終的に制限的であると考えています。ウェズリーは、この形式は決して適切ではないと主張しています。ナナリーは、この形式は分析スキルを養うのに良いものであり、その後拡張されるべきであると述べています。同様に、アメリカの教育者デビッド・F・ラバリーは、「5 のルール」は「機能不全で...不快で、幼児的で、知的に無味乾燥」であると主張しています。これは、エッセイの形式に対する要求がその意味を不明瞭にし、その結果、5 段落エッセイの作成と読み取りがほぼ自動化されるためです。 5 段落エッセイ形式はその堅固な構造のために批判されており、一部の教育者はそれが創造性と批判的思考を阻害すると考えています。批評家は、それが定型的な執筆アプローチを促進し、学生がより複雑なアイデアを表現し、独自の執筆スタイルを開発する能力を制限する可能性があると主張しています。

 

五パラグラフ・エッセイが、アメリカの代表的な論理展開である主張することには無理があります。




校正や編集、盗作やAI コンテンツのチェック、引用の生成、役立つナレッジ ベースの記事の執筆など、私たちの目標は、学生がより優れた学術ライターになるための旅をサポートするScribbrでは、エッセイを次の4タイプに分けえています。

議論型(Argumentative )

説明型(Expository)

物語型(Narrative)

描写型(Descriptive)

<< 引用文献

The Four Main Types of Essay | Quick Guide with Examples

https://www.scribbr.com/academic-essay/essay-types/

>>

 

五パラグラフ・エッセイは、論理型に、なります。

 

Scribbrは、論理型が多いが、全てではないといいます。

大学ではどのようなタイプのエッセイが最も一般的ですか?

 

大学で書かれるエッセイの大半は、何らかの議論文です。ほぼすべての学術的な文章には議論の構築が含まれますが、作文の授業では他のタイプのエッセイが課されることもあります。

 

エッセイでは、さまざまなトピックについての議論を提示できます。

 

例:

 

文学分析エッセイでは、テキストの特定の解釈を主張することがある。

 

歴史エッセイでは、特定の出来事の重要性について議論することがある。

 

政治論文では、特定の政治理論の妥当性を主張するかもしれない。

<< 引用文献

What type of essay is most common at university?

https://www.scribbr.com/frequently-asked-questions/most-common-essay-type/

>>

 

6-4)根拠

 

「論理的であること」(p.70)には、次のように書かれています。

 

何が証拠となるのか

 

五パラグラフ・エッセイでは、主張の正しさを証明する根拠には、科学的なデータや統計の数字、歴史的な事実などの経験的な事実が好んで提示される。経験的な事実はそれ自体に議論の余地を残さず、またその正誤も検証可能であるために、主張を論証する材料として適切かつ強力なものだと考えられている。

 

この記述「経験的な事実はそれ自体に議論の余地を残さず、またその正誤も検証可能である」は、間違いです。

 

経験的な事実を根拠に使うために必要な条件は、次の2つです。

 

経験的な事実が、将来もおこるという再現性の担保。

 

経験的な事実には、見落とされている交絡因子がないこと。

 

執筆者は、人文科学の論文を書く時に、統計学の知識は不要であると考えているように思われますが、それは、無理です。

 

また、筆者は、五パラグラフ・エッセイでは、実際に、経験的な事実が好んで提示されていると思います。それは、「経験的な事実に議論の余地がない」ためではなく、五パラグラフ・エッセイが、入門用のトレーニングツールであるためと考えます。

 

五パラグラフ・エッセイは、作文の練習としては有効ですが、それ以上の価値はないと思われます。それにもかかわらず、五パラグラフ・エッセイが多用される理由は、採点が簡単なためです。

 

「導入文がダメ」であれば、その先を読む必要はありません。

 

五パラグラフ・エッセイの根拠には、科学的バックアップがありません。

 

これは、五パラグラフ・エッセイが、洗脳のツールに使える可能性を示しています。