注:これは、ジューディア・パール、ダナ・マッケンジー「因果推論の科学―「なぜ?」の問いにどう答えるか」のコメントです。
(9)正しい問い
1)ケーススタディ
「正しい問い」を発することは、問題の解決より優先します。
例をあげます。
Case 1)経済財政諮問会議
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経済財政諮問会議の2022年3月の調査で、バブル崩壊後の1994年と2019年を比べると、30代半ばから50代半ばの世帯の所得が100万円以上減少しています。
こうした結果を受けて岸田総理大臣は「所得向上と人的資本の強化に向けて、それぞれのライフステージに応じたきめ細かな『人への投資』に取り組む」と強調するとともに、女性活躍や子育て支援などの分野で包括的な施策を取りまとめるよう野田担当大臣に指示しました。
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<< 引用文献
30代半ば~50代半ばの世帯所得 20年余前と比べ100万円超減少 2022/03/03 NHK
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220303/k10013512681000.html
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2022年3月平均の円ドルレートは、118.70です。
2024年3月平均の円ドルレートは、149.82です。
2年間で、円ドルレートは、79%まで下がっています
2022年3月の円ドル実効レートは、88.65です。
2024年3月の円ドル実効レートは、75.12です。
2年間で、実効レートは、85%まで下がっています。
つまり、発言通りに解釈するのであれば、2022年3月に岸田首相は、30代半ばから50代半ばの世帯の所得が100万円以上減少を回復するという問題を設定しています。
これは、「どうすれば、30代半ばから50代半ばの世帯の所得が回復するか」という問いです。
論理は不明ですが、岸田首相は、「それぞれのライフステージに応じたきめ細かな『人への投資』」で所得は回復すると主張しています。
2023年の調査では、収入は、10万円程度増えています。
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今回の年代別の平均年収は「20代」が352万円、「30代」が447万円、「40代」が511万円、「50代以上」が607万円でした。前回からの変化は、20代が10万円アップ、30代が12万円アップ、40代が16万円アップ、50代以上が11万円アップと、全年代で平均年収は10万円以上増加しています。
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<< 引用文献
平均年収ランキング(年齢・年代別の年収情報)【最新版】 2023/12/4 doda
https://doda.jp/guide/heikin/age/
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単純にみれば、100万円の減少が90万円に縮まったと言えます。
しかし、円安によって、所得が30%減っています。
30代の平均所得447万円の30%は、134万円です。
つまり、大まかにみれば、100万円の減少が220万円(=100+134-34)に拡大しています。
2年間で、これだけ、賃金が下がれば、与党の支持率が低下するのは当然であるとおもわれます。
2024年6月25日に発表された国連が支援する食料安全保障の調査「総合的食料安全保障レベル分類(IPC)」の報告書は、次のように言っています。
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パレスチナ自治区ガザ地区でイスラエルとイスラム組織ハマスとの戦闘が続く中、約50万人が「壊滅的な飢餓」に直面すると予測されている。
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<<
ガザ、50万人が「壊滅的飢餓」に直面か 報告書予測 2024/06/25 CNN
https://news.yahoo.co.jp/articles/a3b873718c644d9d1b603377f0142dcbf90ecc2d
>>
同様に考えれば、今回の円安によって、今後「出生率の壊滅的減少」が引き起こされると予測できます。
所得の減少幅と子育て支援金の金額を比べれば、子育て支援金には、「出生率の壊滅的減少」を止める効果はありません。
「どうすれば、30代半ばから50代半ばの世帯の所得が回復するか」という問いは、価値のない問いに見えます。
Case2)専門家の話
おそらく、労働経済学の専門家だと思いますが、30代半ばから50代半ばの世帯の所得の分析をしている人がいて、テレビで説明していました。
その人の結論は、非正規雇用の拡大が、過去20年の世帯の所得の減少の原因であるという説明でした。
非正規所得の低賃金の原因は、強欲資本主義にあるという説明でした。
おそらく、この人は、マルクス経済学(中抜き経済学)の信奉者と思われます。
市場経済では、企業が賃金を抑える理由は、競合企業との価格競争にあります。
賃金を上げれば、企業の存続は難しくなります。
しかし、労働市場があれば、労働者は賃金の高い企業に移動するので、賃金は上がります。
賃金の低い企業は、労働力不足で、淘汰されます。
一方、年功型雇用では、労働は、独占されていて、労働市場がなく、労働移動がおきません。
資本主義では、市場原理を妨げる独占や寡占を排除する必要があります。
非正規雇用と正規雇用の身分制度が発生している原因は、市場原理を否定して、中抜き経済を進めているからです。
非正規所得の低賃金の原因は、中抜き経済の強欲社会主義にあります。
労働市場のない国は、日本だけですから、高度人材の流出はとまりません。
専門家は、「どうすれば、30代半ばから50代半ばの世帯の所得が回復するか」という問いを発しています。
この問いに対する答えは、「強欲資本主義を追い出して、賃金をあげればよい」というものです。
端的にいえば、「収入が少ないから、賃金をあげればよい」と言っていることになります。
これは、「収入が少ないので、収入を増やせばよい」という命題と等価で、トートロジーです。
この結論を出すためには。労働統計のデータを分析する必要はありません。
しかし、専門家は。この解決策を研究成果であるとして、真顔で説明しています。
「どうすれば、30代半ばから50代半ばの世帯の所得が回復するか」という問いは、価値のない問いに見えます。
Case3)農林中央金庫
現代ビジネスの報道の一部を引用します。
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農林中央金庫が外国債券の運用で2兆円を超える含み損を抱え、2025年3月期に1兆5000億円の最終赤字に転落する見通しとなり、全国の農協関係者や農林水産省幹部らの間に激震が走っている。
農中を共管する農水省と金融庁は「連携して経営を注視していく」とアピールしている。だが、両省庁はすでに農中の経営管理委員として皆川芳嗣元農水次官(1978年旧農林省)と、佐藤隆文元長官(1973年旧大蔵省)を送り込んでおり、事態を静観するだけでは単なる「天下りポスト目当て」とのそしりを免れない。
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<< 引用文献
農協に激震…!農林中金「1兆5000億円のとんでもない赤字」リーマンよりヤバい「海外投資で大失敗」の本当の原因 2024/06/21 現代ビジネス
https://gendai.media/articles/-/132144
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Case3は、企業のガバナンスの問題です。
ここには、「企業のガバナンスを改善するにはどうしたらよいか」という問いがあるようにみえます。
Case4)海外交通・都市開発事業支援機構
朝日新聞の報道の一部を引用します。
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企業の海外インフラへの投資を支援する官民ファンド「海外交通・都市開発事業支援機構」(JOIN)が、巨額の累積赤字を抱えていることがわかった。ミャンマーやブラジルなどの事業が失敗し、2024年3月期決算で799億円の損失を計上した。従来分を含めると955億円にのぼる。採算性が疑問視されてきた官民ファンドの是非が問われる。
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<<
海外インフラ投資の官民ファンド、累積赤字1千億円 各国で事業失敗 2024/06/26 朝日新聞
https://news.yahoo.co.jp/articles/a01435a603559aa6620a902a6b26c4a20a8cdc7e
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農林中央金庫と類似の「企業のガバナンスを改善するにはどうしたらよいか」という問いがあるようにみえます。
この件については、経済の専門家が次のようなコメントを出していました。
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海外のインフラ投資はリスクが高く、見極めが難しいところがあります。日本の海外インフラ投資も採算性を厳密に見極める方向に変わるべきでしょう。
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このコメントは、「海外インフラ投資の採算性が悪いので、採算性を厳密に見極め」ましょうと言っています。
しかし、採算性を考えずに、海外インフラ投資をすることはありませんし、手続きでも、FSなどによって採算性を点検するルールになっています。
つまり、このコメントは、「収入が少ないので、収入を増やせばよい」という命題と同じ論理構造をしています。
2)不適切な問いの課題
以上の4つのケースでは、Aという問題があり、「Aが起きないためには、どうしたらよいか」という問いが設定されています。
しかし、この問いでは、解説策の点検ができません。
世帯収入の減少問題に対して、<『人への投資』」で所得は回復する>は有効な解決策であるか否かが判定できません。
義務教育や高等教育を通じて、既に、多額の『人への投資』が行なわれています。
『人への投資』が何を意味するのか不明です。
しかし、問いが、「Aが起きないためには、どうしたらよいか」のように、「どうしたらよいか」という問いであれば、どの回答も、正解のように見えてしまいます。
しかし、過去の事例をみると、「どうしたらよいか」という問いでは、問題は解決しないことがわかります。
問題が解決できないばかりか、問題点の絞り込みも進みません。
つまり、「どうしたらよいか」という問いは、正しい(適切な)問いではありません。
考えてみれば、Aという問題があるときに、「Aを解消するにはどうしたらよいか」という問いは、AIどころから、文字列の繋ぎ合わせが出来れば作成できます。
この問いを作成するためには、問いの内容を理解している必要はありません。
経済財政諮問会議が、「30代半ばから50代半ばの世帯の所得が100万円以上減少を解消するにはどうしたらよいか」という問いを発した時に、経済財政諮問会議が、「30代半ばから50代半ばの世帯の所得が100万円以上の減少」という問題を理解していたとは、言えません。
問題を理解せずに作った解決策が成功する確率を論じることは、宝くじがあたる確率を論じることと同じレベルの問題なので、検討の対象外と言えます。
3)正しい問い
問題は、正しい(適切な)問いを設定することにあると言えます。
この正しい問いは、問題を理解していなければ作ることができないものになるはずです。
正しい問いは、問題の構造を反映したものになるはずです。
パール先生は、「まだ、実行されていない政策の効果を予測するという難問」(p.338)は、介入を使えば答えを出すことができると主張します。
「まだ、実行されていない政策の効果を予測するという難問」とは、「この政策を実施したら効果があるか」という問いです。
これは、正しい問いの例と言えます。
「この政策を実施したら効果があるか」という問いは、因果モデルでは、次のように書けます。
この政策(原因)=>政策効果(結果)
記号言語を使えば次のようにかくことができます。
P((結果)|do(原因))
P((効果)|do(政策))
パール先生は、「do演算子を定義したおかげで、私たちは適切な問いを立てられるようになった」(p.24)といいます。
適切な問いとは、介入(do)効果を問うものでなければなりません。
適切な問いとは、この介入(原因)は、効果(結果)を生み出すかという形式になります。
計算上は、条件付き確率の値を求めるプロセスになります。
適切な問いには、原因と結果に関するメンタルモデルを反映した因果ダイアグラムが必要になります。
因果ダイアグラムを共有できないと適切な問いをつくることが出来ません。
2024年には、あるメーカーは、新卒の初任給に差をつけています。
その差は、学生時代に起業した経験があるか否かに基づいています。
経験に価値があるというメンタルモデルは、年功型雇用に特有のものです。
「この政策(経営)を実施したら効果があるか」という問いを作るためには、因果ダイアグラムを作る必要があります。
因果ダイアグラムを作る力は、能力主義における脳力の大きな部分を占めています。
年功型雇用では、ポストが上の人が出す指示を疑問を持たずに実行する原則になっています。これは、法度制度です。
しかし、因果推論の科学では、ポストが上の人が出す間違った因果ダイアグラムからは、正しい問いが生まれることはありません。
パール先生は言います。
「因果分析は、その使い手に主観的な関与を要求する。使い手は、因果ダイアグラムを描く訳だが、そのダイアグラムは、分析すべき因果プロセスのトポロジーについての自身の質的な信念を反映したものになる。(中略)因果関係を問題にするのは、あくまで客観的であろうとする姿勢を捨てて、主観的な知恵に頼るということだ。それによって、現実世界のありようをより広く、深く理解できる」(p.143)
「希望が持てるのは、ある一つの極めて重要な点において、因果推論は客観的だということだ。つまり、もし仮に、二人の研究者がまったく同じ仮定(因果ダイアグラム)を持つことに合意したとすれば、あらゆる新しい証拠(あるいはデータ)について、100パーセント客観的な解釈ができるようになるのだ」(p.145)
ホームズは、犯人を推理します。ホームズは、机の上でまず、推論を組み立てます。その推理は主観的な推論です。しかし、読者は、ホームズの主観的な推論に間違いはないだろうと賛同します。これは、ホームズと読者が、因果ダイアグラムを共有していることを意味します。