現在のつくば市のエリアには、江戸時代に入ると、天領、藩領、旗本の知行地などが入り乱れていました。ほぼ江戸時代を通してつくば市のエリアに存続し、 幕末まで続いた藩は谷田部藩のみです。城はありませんでしたが、陣屋がありました。
領主細川家は肥後細川家の分家で、現在、谷田部陣屋跡は、二車線道路挟んで、谷田部小学校と、住宅地になっています。この城址の中を貫通している道路が千歳通りです。
記録がないので、地理院の航空写真と今昔マップの古い地理院の地図から、推測します。
1975年1月6日の航空写真には、道路はありません。
1975年に新しい谷田部町役場が完成していますので、1975年中に、道路が建設された可能性があります。
今昔マップの1972年から1982年の地図には、道路があります。
1984年11月26日の航空写真には道路があります。
千歳通りにある石碑には、命名の日付が昭和60年10月(1985年)と書かれています。1985年3月から9月には、科学万博が開かれたので、それに合わせて、道路を改修して、千歳通りと命名したと思われます。
1875年(明治8年)に谷田部小学校が、谷田部陣屋後に建てられます。陣屋の大松(千歳松)は、学校のシンボルツリーになります。この松は、1993年に枯れてしまいましたが、千歳通りは、この松にちなんでいます。
谷田部には、不動町にある大渡山不動尊の前から南へ向かう道に沿って200mにわたり大小合わせて約200本の松並木(不動並木)がありました。説明板には「約300年前、時の谷田部藩主細川興昌が参勤交代の便宜上細川氏の領地の中で江戸に最も近いこの場所に茂木(栃木県)より居所を移したとき、城下町の形態を整えるため松を植樹したのがはじまりと推定される。松の成長はきわめて順調で、幕末の頃にはすでに一偉観を示すようになり、当時の人々に「谷田部に過ぎたるもの」としてほめたたえられるようになっていた。」と書かれていました。
2003年11月17日に、不動並木を訪れた人が、「不動並木の200本の松並も今は最後の1本が残るのみ」と書いていましたが、不動並木は、その頃、消滅したと思われます。
1987年のつくば市発足後に、谷田部町役場は対外的につくば市役所本庁舎(谷田部庁舎)になります。市議会はここで開かれましたが、その他の機能は、合併前の旧町村役場に振り分けられたていました。
2010年5月6日にはつくば市役所が研究学園駅前(旧谷田部町)へ移り、つくば市役所谷田部庁舎は廃止され、新たにつくば市役所谷田部窓口センターが設置されました。
2011年の東日本大震災で、谷田部庁舎には、ひびが入り、強度が足りないことがわかり、取り壊されています。
千歳通りの景観は一見するとよいのですが、中央を自動車が通過するので、現在の間隔では、受け入れがたいものがあります。