犬の哲学

犬の世界

犬と散歩していると、犬にとって、世界はどのように見えているのか、考えることがあります。

(写真が一緒に散歩している犬です。ちなみに、犬と散歩しているというのは、おそらく、人間(自分)は、犬を散歩に連れて行っていると思っていますが、犬の顔を見ると、犬は、リードを使って人間を散歩に誘導していると考えているように見えます。)

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一緒に散歩する犬


 

 

犬は散歩するときに、盛んににおいをかぎます。鼻がよいので、そんなに鼻を摺り寄せなくとも、匂いがかげるように思われるのですが、鼻をこすりつけるようにして、匂いをかぎます。まったく、新しい場所に連れて行ったときに、散歩の途中で、急に180度向きを変えてもとの場所に戻りだしたことがありますが、難なく、出発点に戻りました。これから、犬はルートをにおいと、大まかな歩数で覚えているのだろうと思います。こうした、道筋の記憶は、雨が降ると流されてしまうので、短期記憶にとどまっているのだろうと思われます。一方、飼い主のにおいは長期記憶に保存されているようです。目は色を識別できす、あまり能力は高くないとも言われます。また、耳はかなり良いようです。

毎日同じ道筋を散歩すると、道筋は覚えているようなので、これは、視力によるのか、匂いの記憶が変化しにくいものは長期記憶に、変化しやすいものは短期記憶に識別されているのかもしれません。人間は周辺世界を表す場合には、視力を中心に地図を作製しますが、犬は、匂いを中心とした地図を持っているのだろうと思います。

デカルトは「我思うゆえに我あり」といいましたが、ここでは、目をつぶっていても、思考している自分がないとおかしいから、自分は存在するのだと考えたのではないでしょうか。デカルトが人間でなく、犬であったら、目をつぶっていても匂いがすれば、それがなんなのさ(何が疑問かわからない)というのではないかと思います。

どうも、昔の哲学者は五感の問題には深入りしていなかったように思われます。

センサーの劣化する人間の世界

人間は年をとってくると、老眼になり、目が悪くなります。また、耳も遠くなります。自分は、年をとってきて、老眼になり、近くが見えにくくなっています。また、聴力に片方の耳は、高音が聞こえなくなりました。しかし、自然音は倍音を含んでいるので、高音は低音の倍音の成分であること多く、低音を聞いて、高音も聞こえているつもりになっています。嗅覚は、花粉症が騒がれる前からアレルギーで、鼻水がとまりませんでした。現在は、アレルルギー症状はなくなりましたが、嗅覚はほとんど失われてしまい、微妙な匂いを嗅ぎ分けることは困難です。3年ほど前に、毛細血管に副作用のある薬を使っていました。その結果、毛細血管の多い指先と舌の感覚が失われました。味覚と触覚の一部が失われたのです。

自分は犬ではないけれど、このように、年をとると五感のセンサーの範囲が段々と狭くなっていきます。人間も犬に生まれ変わるほどの大変化ではないにしても、5感センサーの範囲が変化すると世界観が変わるのだろうと思います。ただし、目が色を認識できるのは中央だけで、周辺は白黒しか見えないのに、センサーの不足はアルゴリズムで補完されます。年をとると、五感のセンサーが劣化します。そうすると、センサーの劣化を補うように補完アルゴリズムが強く働きます。よく、年をとると頑固になるといわれますが、これは、センサーが劣化したために、過去に習得した補完アルゴリズムが強く働くためと思われます。

年をとっても頑固ものとは言われたくないものです。これを避ける方法はあるでしょうか?老眼鏡を使うなどのセンサーの劣化を補う方法があれば、積極的に使うことを心がければよいと思われます。犬は色々なことを教えてくれます。

昼の異界

秋になって、だんだん日が短くなり、散歩の途中でくらくなることがあります。でも、犬は歩みをかえません。まるで、闇が問題でないかのように、昼間と変わらない速度で歩きます。考えてみれば、犬は夜行性なのかもしれません。獲物をとるのに最も適した時間は、闇の世界であり、その時こそが正常な時間かもしれません。人間にとって、夜の闇は異界で、避けるべきものになります。人間の目は使えなくなります。犬は、闇でも嗅覚は問題がありません、視覚ももともと白黒の世界ですから問題がないのでしょう。犬にとっては昼が危険は異界であり、できるだけ活動を抑えて、危険を避けるべき時間かもしれません。そうであれば、色が見えないことは問題にはならないと思われます。