「因果推論の科学」をめぐって(12)

注:これは、ジューディア・パール、ダナ・マッケンジー「因果推論の科学―「なぜ?」の問いにどう答えるか」のコメントです。

 

(12)因果推論の基本

 

1)経済政策

 

毎日新聞は次のように伝えています。

財務省の神田真人財務官は2日、日本経済の課題を巡る私的懇談会の報告書を発表した。輸出産業の国際競争力低下や、新しい少額投資非課税制度(NISA)の影響もあって個人金融資産の海外流出が増加している現状を示した上で、こうした状況を打破するため、産業の新陳代謝や成長分野への労働移動の円滑化を提言した。

 

報告書は「国際収支から見た日本経済の課題と処方箋」と題した懇談会の議論をまとめた。ここ数年の円安進行は日米の金利差のほかに、海外との資金のやり取りを示す国際収支の構造変化が背景にあるため、学者やエコノミスト20人を集めて議論してきた。

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貿易赤字解消のため、原発再稼働を 神田財務官の私的懇談会が報告書 2024/07/02 毎日新聞

https://news.yahoo.co.jp/articles/1cdfa08bb6cf17a9a3da6bd3bd32872e7fc4adbf

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「学者やエコノミスト20人」は、恐らくベスト・アンド・ブライテスト(The Best and the Brightest)であると思われます。

 

しかし、得られた結論の「産業の新陳代謝や成長分野への労働移動の円滑化を提言」は、アベノミクスの第3の矢と変わりません。

 

筆者が、いい加減に因果推論をしても、次のような因果モデルをつくることができます。

 

(M1)

(DX、レイオフ、倒産)(原因)=>(産業の新陳代謝、成長分野への労働移動)(結果)

(M2)

(産業の新陳代謝、成長分野への労働移動)(原因)=>(生産性の向上、賃金の上昇、経済成長)(結果)

 

私的懇談会は、恐らく、(M2)を考えているようにみえます。

 

私的懇談会は、(M1)については、何も語りません。

 

パール先生は、次のように言っています。

 

「経済学者たちは、因果方程式と回帰方程式を区別できるような表記手段を持たない。そのため、(中略)政策に関連する問いにはこたえることができない」(p.138)

 

経済学者の多くは、データが全てであるという前提で、分析を進めています。

 

このため、データからは、導き出せない(M1)と(M2)のような因果モデルは、科学的でないとして、検討の対象外になっています。

 

(M1)と(M2)を数式で書けば、因果方程式になります。

 

コンピュータサイエンスでは、数式は、右辺の計算結果を、左辺の変数に代入する意味です。因果方程式は次のような形になります。

 

(結果)<=関数(原因)

 

y<=f(x)

 

簡単な関数例をあげます。

 

y <= 2 * x

 

*はxとの混乱を避けるために使用する「かける」の記号です。

 

通常の数学記号では、次になります。

 

y= 2 * x

 

この式は、次に変更できます。

 

x = 0.5  * y

 

回帰方程式では、このような式の変形がなされます。

 

しかし、左辺が結果で、右辺が原因である場合には、左辺と右辺を入れ替えれば、結果から、原因が発生することになってしまいます。

 

このような問題を避けるために、経済学では、モデルを作成するときに、ある変数が、他の変数の原因であるか、結果であるかという情報を付与しません。

 

変数の因果関係の情報は、データには含まれないため、科学的な客観的な情報ではないとして、排除されます。

 

ベスト・アンド・ブライテストの20人の学者とエコノミストが、日本経済の課題の原因を考えていないとは素人目では信じられません。

 

しかし、パール先生は、主流の経済学者は、因果推論を封印しているといいます。

 

「(因果関係を記述する)パスダイアグラムの作成にいは、主観がどうしても必要なのだがそれが、(計量経済学者を含む主流の統計学者には、)なかなか認められないのだ。(中略)主観性は、(ベイズ統計のように、時間とともに)減らない。二人の研究者がそれぞれまったく別の因果ダイアグラムを作って同じデータを解析することも可能であり、その場合は、おそらく両者の得る結論は同じにならないだろう。(中略)科学は絶対に客観的なものであるべきという考えを持つ人にとって、これは、恐ろしいことに違いない」(p.145)

 

労働移動という変数があった場合、因果推論では、この変数は、どの他の変数の原因になるかを考えます。あるいは、労働移動という変数は、どの他の変数が原因になって生じた結果であるかを考えます。これが因果推論のスタートです。

 

ところが、計量経済学統計学)の専門家は、「科学は絶対に客観的なものであるべきという考え」から、因果推論を封印しています。

 

因果関係を放棄した学問では、この経済政策(原因)は、どれだけ効果(結果)があったのかという質問に答えることができません。

 

2)疫学の学習

 

筆者は、因果推論の学習をするために、疫学を学習しました。

 

疫学分野に各段の関心があったわけではありませんが、他の分野では実例ののっているテキストがなかったためです。

 

「因果関係の科学」にも、疫学分野の実例が多数登場します。

 

これは何を意味しているのでしょうか。

 

計量経済学統計学)の専門家は、因果推論を封印してきました。

 

疫学の専門家は、因果推論を封印できないことを意味しています。

 

因果ダイアグラムが異なれば、異なった結論が得られます。

 

これば、同じ病気に対して、異なった治療法をが選ばれることを意味します。

 

歴史的に、医学では、同じ病気に対して、異なった治療法が用いられています。

 

医学以前には、病気は悪い精霊がのりうつったものと考えられていました。

 

こうしたメンタルモデルは、現在では、主流ではありませんが、神社にお参りするメンタルモデルとして生き残っています。

 

漢方のメンタルモデルは、西洋医学とは異なります。

 

EBMが普及して、漢方のメンタルモデルをRCTで検証する研究が行なわれました。

 

結果は、漢方のメンタルモデルを支持しませんでした。

 

漢方薬に含まれる化学成分は、合成薬と同じ薬効がありますが、それ以上の効果は確認できませんでした。

 

疫学の世界に、パール先生の「因果推論の科学」は、部分的にしか浸透していません。

 

疫学の世界では、RCTが、ゴールドスタンダードです。

 

ただし、RCTが使えない場合も多く、工夫がなされています。

 

疫学は、部分的な「因果推論の科学」です。しかし、因果推論には向き合っています。

 

疫学や医学の場合には、因果の説明が求められます

 

パール先生の「因果推論の科学」を参考にサンプルを創作してみます。

 

2-1)肺がん患者のサンプル

 

夫を肺がんでなくした未亡人と医師の会話

 

未亡人:主人の病気は、肺がんでした?

 

医師:ええ、肺がんです。

 

未亡人:タバコが原因ですか。

 

医師:ええ、おそらく。

 

未亡人:主人は、たばこ会社と統計学の専門家が、たばこは肺がんの原因ではないという説明を信じて、たばこを吸い続けていました。あれは、間違いだったのですか。

 

医師:間違いです。

 

未亡人:主人はかかりつけ医として、先生に10年以上先生にみていただいていました。先生は、なぜ、10年前に、たばこはがんの原因であるから吸わないように、いって下さらなかったのですか。先生が、たなこをやめるように主人にいったのは、症状がひどくなった3年前からです。もっと前に、何故アドバイスできなかったのしょうか。

 

医師:(無言)

 

未亡人:抗がん剤の効果はあったのでしょうか。主人は、副作用に大変苦しんでいました。

 

医師:抗がん剤の効果はあったと思います。ただし、がんの治療薬のなかでは、肺がんの治療薬は、他のがんに比べると効果が低いのです。

 

未亡人:あんなに副作用に苦しんでも、効果が薄いのであれば、抗がん剤を投与しない方がよかったのではないですか?

 

 

これは創作ですが、医師は、患者やその家族から、常に、「なぜ(why)」という質問をうけてこたえる必要があります。

 

抗がん剤を投与しない方がよかった」といった反事実に関する質問にもこたえる必要があります。

 

医師は、質問にこたえなければ、誠意がないと批判されます。

 

最近では、インフォームドコンセントによって、他の医師のこたえと比較されます。

 

2-2)20人の学者とエコノミストへの質問

 

「国際収支から見た日本経済の課題と処方箋」と題した懇談会の議論は、「産業の新陳代謝や成長分野への労働移動の円滑化を提言」しています。

 

しかし、「産業の新陳代謝がないこと」と「成長分野への労働移動がないこと」は、日本経済の病状を述べているに過ぎません。

 

疫学のレベルで考えれば、次のような「なぜ」に、こたえられなければ誠意がないと判断されても仕方がないと思います。

 

Q1:なぜ、キシダノミクズではだめですか。

 

Q2:アベノミクスの第3の矢が失敗した原因は何ですか。

 

Q3:輸出産業の国際競争力が低下した原因は、失敗した金融緩和政策にあるのでないですか。

 

Q4:個人金融資産の海外流出が増加している原因が、新しい少額投資非課税制度(NISA)であると判断できる根拠は何ですか。

 

Q5:数年前には、老後資金が2000万円必要であるという説明がありましたが、現在では、円安で、3000万円必要になっているのではないですか。政府は、労働者の生活をみすてたのではないですか。

 

Q6:「国際収支から見た日本経済の課題と処方箋」という報告書を出していますが、この報告書が必要になっていることは、今までの政府の「日本経済の処方箋」が間違っていたからではないですか。間違いはどこにあったのですか。

 

Q7:「日本経済の処方箋」のインフォームドコンセントはどこで手に入りますか。



有権者は、このような「なぜ」の質問を出す権利があります。

 

政府には、「なぜ」の質問に答える説明責任があります。

 

そして、パール先生の見立てでは、20人の学者とエコノミストが因果推論が出来る可能性は低い(質問には答えられない)ことになります。