(ドキュメンタリズムとは、「文書の形式が整って入れば、その内容は問わない」というルールを指します)
ここでは、ドキュメンタリズムについて考えます。
ここで、「ドキュメンタリズム(文書形式主義、documentalism)」とは、「文書の形式が整って入れば、その内容は問わない」というルールを指します。
似たような用語に、「官僚主義」があります。
「goo 国語辞典」は、次のように、書いていますが、極めて曖昧です。
「官僚制や官僚政治における、権威主義、独善性、秘密主義、形式重視などの側面を批判的にいう語」
ドキュメンタリズムは、官僚主義の形式重視に相当すると思われますが、今まで、単独では、ほとんど分析されていません。
ドキュメンタリズムの問題点は、形式を問題にして、内容を問わない点にあります。
ドキュメンタリズムの文書は、紙媒体が原則ですが、口頭や動画も含みます。
ドキュメンタリズムは、科学とは相いれません。
科学には、検証のプロセスが入り、検証によって、科学の正しさが担保されます。
ドキュメンタリズムは、形式主義ですから、検証を排除します。
エビデンスデータをとって、検証をすれば、ドキュメンタリズムは崩壊します。
これを避けるために、ドキュメンタリズムは、検証をさけ、形式主義の温存を図ります。
なお、聖書の「はじめに言葉ありき」は、「根源的原理は、キリスト(神の言葉logos)である」という意味です。この場合の言葉は、キリストの意味であり、実体で、形式ではありません。
一方、ドキュメンタリズムは、文書、単語の形式を重視することです。
日本語には、言霊という単語があり、日本人は、お題目を唱えるのが好きですが、西洋では、言葉documentは信仰の対象にならないので、言霊の英訳はKotodamaであえて英語にすれば、「the miraculous power of language」、「the spirit of language」になります。
ここでは、ドキュメンタリズムを問題にする理由は、日本の経済や社会の閉塞の第1の原因が、ドキュメンタリズムにあるからです。
筆者は、ドキュメンタリズムの性質を把握して、それを乗り越えることが出来れば、日本の経済や社会が、再び活性化すると考えます。
日本の経済や社会の閉塞には、複数の原因があります。
筆者は、前著で、ヒストリアンが跋扈して、ビジョナリストを追放していることが問題であると主張しています。
しかし、筆者は、それにも増して、最大の原因は、ドキュメンタリズムにあると考えています。
その理由を以下で、検討していきます。
現在、日本中で、ドキュメンタリズムが、跋扈しています。ホラーゲームの悪玉のように、ドキュメンタリズムは、日本中に増殖しているように見えます。