(ビジョナリストは、ビジョンのヒストリーを再構築します。古典は、そのビジョンが、時代を経てきたから価値があるのではなく、ビジョンが時代に合わせて再構築され続けた場合には価値があります)
ビジョンのヒストリーについて検討します。
歴史的に、大きな影響を与えたビジョンは、アリストテレスの学説です。
ガリレオやニュートンが出てくる前に、アリストテレスは、運動とは何か、どうして、ものは動くのかという問題を提示しました。
ガリレオやニュートンは、アリストテレスのビジョンのうち、使える部分は残して、使えない部分は、別のサブビジョンに差し替えて再構築をしたと見ることができます。
アリストテレスが生きている間は、アリストテレスのビジョンは、新しいエビデンスが入手できれば、更新される生きているビジョンであったと思われますが、アリストテレスが、亡くなったあとでは、アリストテレスの学説は、更新されないビジョンのヒストリーになります。
そして、ヒストリーになったビジョンが更新されるまでには、ガリレオやニュートンの出現を待たねばなりませんでした。
これは、極めて、常識的な話ですが、世の中には、常識で推し量ることのできない世界がありますので、あえて取り上げる価値があります。この「常識で推し量ることのできない世界」には、次の2パターンがあります。
1)宗教の聖典
宗教に聖典がある場合には、ビジョンの更新は困難です。
聖典の解釈によって、宗派が分かれることがありますが、宗派の中では、その解釈(ビジョン)は固定化されます。
時代によって、聖典の解釈に変更が行われることがあります。
例えば、進化論との整合性などが問題になります。
仏教は、例外的に、少数の優先される聖典を持ちません。
これは、教えは、聞く人に合わせて行われるべきであるという原則に基づいています。
しかし、開祖が亡くなってしまうと、この方針を維持することができなくなるので、教義が不安定になります。
そこで、特定の聖典が、特に重要であるという選別を行うか、禅のように聖典に依存しないことで、安定化が図られます。
2)古典
中国の古典の典型は、四書五経なので、宗教の聖典との境界は曖昧です。
シェイクスピアの戯曲は、古い英語で書かれていますが、現在、上演する場合には、現代英語に置き換えられています。
つまり、ビジョンの再構築が行われています。
アリストテレスの論理学は、フレーゲによって再構築されるまで、2000年近く、最初のビジョンのままで使われてきました。
古典は、歴史に耐えて残ってきたから価値があるという人もいますが、データサイエンスの世界観では、この主張はナンセンスです。ビジョンは、時代に合わせて再構築されて初めて利用可能になり、価値が生じます。
どのように再構築すべきかが、推論の課題なので、第2章で扱います。
3)ビジョンの再編成
ビジョンの再構築は、要素を分解して、新しい要素を加えて、組み直す方法です。
再構築するためには、古いビジョンの中で、残すべき部分と廃棄すべき部分が区別できている必要があります。
ビジョンの幹と枝を区別して、枝を払って、幹を残す必要があります。
この幹の部分だけをビジョンの要点として記述することがビジョンの再編成です。
執筆者が、ビジョンをどれだけ理解しているかは、再編成ができるか否かで判断できます。
物理学者のファインマンはビジョンの再編成の名手でした。彼は、物理法則を、幾何学的なイメージに変換(再構築)することを多用しています。
これも、極めて、常識的な話ですが、世の中には、ビジョンを理解できていない人が多いので、あえて取り上げる価値があります。
ビジョンを理解できていない人は、ビジョンのコピペをします。デジタル時代では、コピペは容易です。そうなると、ビジョンを理解できていない人のビジョンのコピペが蔓延します。
学生の頃、いくら繰り返し教科書を読んでも理解できない部分があり、自分は、よほど頭が悪いのではないかと思ったことがあります。
そのあと、いろいろな教科書を読むことがあって、最近では、教科書の半分は、コピペで出来ていて、執筆者が理解できていないので、読んでも理解できないのは当たり前であることがわかりました。
古い世代のオーケストラの指揮者や、ピアニストは、著名な作曲家の作品でも、自分で、納得して理解できたものしか取り上げないのが普通でした。
最近では、録音が容易になったため、全集に対するニーズが高まり、よく言えば、楽譜のコピペ演奏はしない、悪く言えばえり好みをする演奏家はいなくなりました。
ビジョンは、再構築や再編成されないとヒストリーになってしまい、後の時代には、そのままでは、使えなくなります。
これは、ビジョンを理解する上で、重要な視点です。