(日本には、2種類の学会があります)
前回、廣瀬教授はウクライナ侵攻の予測を取り上げました。
廣瀬教授は、ビジョナリストよりは、ヒストリアンに見えます。
これは、廣瀬教授個人の問題ではなく、学会の問題だと思います。
1)大学の業績主義
1980年代に、日本の大学で業績主義が始まります。准教授や教授になるときに、論文の本数が何本以上というルールです。(注1)このルール自体に問題はありませんが、運用については、多くの問題が発生しています。
(1)採択基準と大学のビジョンの関係
大学が職員を採用することで、どのような大学を作っていくかというビジョンが実現します。教育が主体の大学では、論文の数に価値があるとは思えません。また、研究大学でも、教育を誰が担うかという問題はあります。旧教養学部がなくなりましたが、全体としては、ビジョンは明確ではありません。
この本で繰り返し述べているように、ビジョナリストは追放され、ヒストリアンが多数になると、ビジョンより、単純な過去のルールが好まれますので、必然的な流れではあります。
(2)論文審査の厳格化
論文は、レビューを通ったものです。論文の本数のカウントが始まると、レビューのルールが厳格化されました。ここで問題が生じます。多くの学会で、レビューを通った論文は、正しい記載がされているものというガイドラインが導入されます。そして、そこでは、帰納法が正しいという前提でレビューが行われます。ラッセルの七面鳥の定理で述べたように、帰納法は正しく機能しないことが多いのです。一方、ビジョンは、正しさが確認できないとして、レビューに通らなくなります。つまり、論文の本数主義は、研究者に、ヒストリアンになることを強要し、ビジョナリストを絶滅させます。
百科全書のように、観察したらこうでした、これは事実でしたというメモはレビューを通りますが、ビジョンは、レビューを通りません。
これが不合理な例をあげましょう。石油会社のシェルはシナリオ分析の専門のセクションをもっていて、将来シナリオを作成しています。研究者は、本来は、シェルに準じてシナリオを作成する研究をすればよいのですが、シナリオはビジョンであって、客観性は担保されません。帰納法でも客観性が担保されない点は同じなのですが、帰納法は客観的であるという間違った前提をとる学会では、ビジョンは論文ではないとして、レビューを通りません。シェルの発表したシナリオは、ヒストリーですから、シェルのシナリオを対象とした分析論文は、レビューを通ります。こうして、肝心のビジョンはないがしろにされ、将来の問題解決に役立たないヒストリーの論文が乱造されます。
2)2種類の学会
ヒストリアンか、ビジョナリストかという視点でみれば、日本には、ヒストリアンの学会とビジョナリストの学会が存在します。
新しいものを作ることを仕事としている研究者が作る学会は、ビジョナリストの学会になります。建築は、新しい建築に客観的な正しさを求めることはありませんので、ビジョナリストの学会になります。だれも、建築のデザインに正しさを求めません。
ものをつくらない、または、作るものが限定されている学会は、ヒストリアンの学会になりがちです。建築に比べれば、土木は、ヒストリアンの学会になる傾向をもっています。かわったデザインの構造物をつくることは歓迎されません。どこかに、正しい基準があると考える人が多くなっています。(注2)
3)本書の立場
筆者が、ここで本を書いている理由は、2種類の学会しかないことによります。
ビジョナリストの学会にいって、ヒストリーより、ビジョンが大切であるといっても、それは、自然体で受け入れられていることですから、今頃、なぜ、当たり前のことをいうのと怪訝な顔をされます。
ヒストリアンの学会にいって、ヒストリーより、ビジョンが大切であるといえば、それは、学会のアイデンティティにかかわる問題で、パージされるか、無視されるだけです。
なお、ヒストリアンの学会になってしまうと、問題、特に、新しいタイプの問題に対する解決能力は失われます。
ヒストリアンの学会に属している学者は、問題解決よりも、論文を作成することで、所得を確保することを優先するからです。そして、この論文には、問題解決をするビジョンは含まれていません。
注1:
公共事業の費用対効果分析でも、同じ傾向が見られます。
注2:
将来の問題を解決するには、正解のない問題を解くこと、有益な問題を見つけることが重要だと言われます。しかし、ヒストリアンの学会の論文の審査基準は、正解のある問題を解くルールになっています。