「因果推論の科学」をめぐって(1)

注:これは、ジューディア・パール、ダナ・マッケンジー「因果推論の科学―「なぜ?」の問いにどう答えるか」のコメントです。

 

(1)哲学の問題

 

20世紀後半は、アメリカを中心に世界が動きました。

 

学問と芸術の世界も、アメリカを中心に動きました。

 

パール先生は、自分のことをAI研究者で、パートタイムの哲学者であるといっています。

 

この哲学とは、プラグマティズムを指します。

 

アメリカで哲学といえば、基本的に、プラグマティズムを指します。

 

プラムマティズムとは、哲学の伝統に従って、科学の方法を拡大する試みです。

 

プラグマティズムは、形而上学ではありません。

 

形而上学であるカント哲学は、アメリカでは、基本的に哲学ではありません。

 

カント哲学が語られる場合には、例外的な哲学の扱いを受けます。

 

パートタイムの哲学者は、日本の哲学者とは全く異なった作業をしています。

 

因果推論の基本は、「原因=>結果」です。

 

「原因」と「結果」は、観測、または、実験(介入)される変数です。

 

「=>」は、観察される変数に付帯していますので、形而上学ではありません。

 

「=>」は、リアルワールドの「原因」と「結果」がなければ、存在しませんので、リアルワールドに付帯しています。

 

因果推論を考える場合に、「=>」を無視できません。

 

どうして、「原因=>結果」であって、「原因<=結果」ではないと言えるのでしょうか。

 

この問題は、哲学者のヒュームが問題にしました。ヒュームは、原因は、結果より前に発生すると主張しました。一方では、ヒュームは、「=>」は、習慣に基づくとも主張しました。

 

「=>」を決定する万能の方法はありません。「原因」と「結果」の時間順序は、測定可能ですが、「=>」を直接測定している訳ではないので、曖昧さが残ります。時間順序は、万能ではありません。

 

パール先生の主張は、次の2点になります。

 

第1に、因果推論のモデルは、パス図で正確に表現可能です。

 

第2に、パス図をつくる客観的な方法はありません。パス図の作成は、主観によります。

 

第2には、補足がつきます。

 

人々の間で、パス図が共有できなければ、因果推論の科学は成立しません。

 

パス図は主観によりますが、パール先生は、パス図を共有することは可能であるといいます。

 

なぜ、パス図の共有が可能であるかについては、パール先生は、多くを語っていません。

 

パス図の共有は、プラグマティズムの問題なので、パール先生は、実際に試してみて、パス図の共有が可能であれば、それでよしとする考えであると推測します。

 

ヒントは、メンタルモデルが共有されることが多い点にあります。

 

その先は、恐らく、アメリカ社会では、自明なので書いていないと、筆者は推測しています。

 

メンタルモデルが共有されるためには、モデルの比較改良が、常に行なわれている必要があります。

 

メンタルモデルに反例があれば、反例を説明できるように、モデルを改良する必要があります。

 

もちろん、モデルの検証も必要です。

 

日本政府の「消費者マインドを喚起し、消費の拡大や、さらに次の投資や賃上げにつながる経済の好循環実現」は、1970年代に流行した「合理的期待形成理論(rational expectations hypothesis)」を表わしています。

 

これは、「消費者マインドの喚起(原因)=>経済成長(結果)」という因果推論です。

 

これに対して、生産性が2倍になれば、賃金は2倍になります。賃金が2倍になれば、消費も拡大するので、経済成長が実現します。

 

これは、「生産性の向上(原因)=>経済成長(結果)」という因果推論です。

 

この推論は、合理的期待形成理論の反例になっています。

 

ここで、モデルに反例があれば、反例を説明できるように、モデルを改良する必要があります。

 

政府は、「消費者マインドの喚起(原因)」と「「生産性の向上(原因)」という2つの原因の候補の関係を整理して、統一したメンタルモデルをつくる必要があります。

 

しかし、日本では、法度制度の文化(ミーム)が生きていて、空気を読んで、反例を封印しています。

 

つまり、パール先生は、メンタルモデルが共有されることが多いといっていますが、その条件が常に満たされるとはいっていません。

 

パール先生は、メンタルモデルとパス図を共有することで、因果推論の科学は成立可能であるといいます。



しかし、この条件は、アメリカにはあてはまりますが、日本には、あてはまらないわけです。

 

日本では、科学的な因果推論がなされず、まちがった政策が行なわれていることになります。

 

因果推論の科学が、従来の科学とは、異質なものであることを理解するには、観測可能性の理解が必要です。

 

パール先生は次のように書いています。(p.286)

 

「科学の新発見による文化の動揺は、その発見に合わせて文化の方を再調整しない限り収束しない」