マンモス狩りのメンタルモデル(p.48)

お断り:これは、パール「因果推論の科学」のコメントです。

 

因果推論の一番簡単なモデルの例として、「マンモス狩りのメンタルモデル」が示されています。

 

このモデルは、一番最初のパス図になっていて、パス図の説明の導入に役割も果たしています。

 

テーマは、マンモス狩りを成功させるためには、どのような推論がなされるかという思考実験です。

 

図には、「マンモス狩りの成功に関係し得る要因」というタイトルがついています。

 

開いた扇の形をしたパス図が示されています。

 

図の中心、扇の要の位置には、結果(目的)の「成功の可能性」が書かれています。

 

この要に向かって、開いた扇の縁(頂点)の位置に、「ハンターの数」、「マンモスの大きさ」、「天候」、「地形」、「攻撃の方向」、「その他の要素」が書かれ、各要素(原因)から、要の位置にある「成功の可能性」(結果)に向かって、矢印が引かれています。

 

「天候」と「地形」は、マンモス狩りを実行するか、延期するかの判断に使います。

 

「ハンターの数」と「攻撃の方向」は、状況を見て、制御する変数です。

 

パール氏は、「ハンター=8」と「ハンター=9」に変更するハンターの数の成功率への影響をモジュール化して、検討する例をあげています。

 

モジュール化は、ハンターの数だけを変化させますので、偏微分に対応します。

 

モジュール化は、構造方程式モデリングのアイデアにつながります。

 

マンモスは、氷河時代(氷期旧石器時代)に生きていたゾウで、大変寒い地域に生える草原の草を主な食料としたため、10,000年前に氷期が終わると絶滅してしまいました。

 

「マンモス狩りのメンタルモデル」レベルの因果推論は、旧石器時代の人類が行なっていたことになります。

 

パール氏が、「マンモス狩りのメンタルモデル」を取り上げた理由は、このレベルの因果推論のは、旧石器時代の人類が獲得していたノウハウであり、人類の思考の根幹をなす推論であると主張するためと思われます。

 

目的(結果)の「マンモス狩りの成功の可能性」を、「経済成長の可能性」または、「所得の向上の可能性」に置き換えれば、「経済成長のメンタルモデル」をつくることができます。

 

「経済成長の可能性」(結果)を実現するための原因は、「経営者」、「労働者」「資金」、「技術革新」、「教育」等に分かれます。

 

「経営者」、「労働者」では、能力が問題になり、能力は、「経験」、「スキル」が影響を与えます。

 

「資金」は、「金利」の影響を受けます。

 

「経済成長の可能性」<=「資金」<=「金利

 

「教育」は、「初等・中等教育」と「高等教育」に分かれます。

 

「経済成長の可能性」<=「教育」<=「初等・中等教育

 

「経済成長の可能性」<=「教育」<=「高等教育」

 

あるいは、「教育」では、「エンジニア教育」、特に、「データサイエンス教育」の要素の影響が大きいでしょう。

 

「経済成長の可能性」<=「教育」<=「エンジニア教育」<=「データサイエンス教育」

 

これらの矢印は、1枚のパス図に集約できます。

 

旧石器時代に、人類が獲得していた因果推論のレベルで、「経済成長の可能性」を推論すれば、こうなります。

 

一方、政府は、インフレになれば、経済成長する(インフレ成長)と主張してきました。

 

インフレ成長の因果推論は、明らかに、旧石器時代の人類の「マンモス狩りのメンタルモデル」に、劣ります。

 

例えば、経済成長への教育の効果は検討されていません。

 

政府は、「初等・中等教育」の「文系・理系の区分」(数学の軽視)を温存したままで、唐突に、「リスキリング」が重要であると主張します。

 

つまり、専門教育を受けて、大学を出た経済の専門家の因果推論は、大学どころか、新石器すらなかった旧石器時代の人類に負けています。

 

「マンモス狩りのメンタルモデル」をレベルアップした成果が、「因果推論の科学」の内容です。

 

パール氏は、経済の専門家の因果推論は、「因果推論の科学」を使うべきであると考えています。

 

経済の専門家の因果推論が、「因果推論の科学」のレベルに達していないことは、当然と言えます。

 

しかし、経済の専門家の因果推論は、「マンモス狩りのメンタルモデル」の因果推論にも達していません。

 

その理由を、パール氏は、経済の専門家(p.21、少なくとも物のわかった経済学者を除く)は因果推論を封印しているからであるといいます。

 

つまり、パール氏は、経済の専門家の因果推論が、「マンモス狩りのメンタルモデル」の因果推論にも達していない理由は、経済の専門家が、因果推論を拒否しているからであり、当然の結果であるといいます。