トッド氏の正義論(3)

1)教育倫理の喪失

 

レベル2bの正義では、働くのは馬鹿だけという倫理になります。

 

働くことに価値があるという倫理は、勉強することに価値があるという倫理につながります。

 

この場合、勉強を十分にしていなくて、成績の悪い学生が、成績のよい学生に質問することには、引け目があります。

 

一方、働くのは馬鹿だけという倫理では、成績の悪い学生が、成績のよい学生に質問することは、当然の権利になります。

 

教師は、勉強を十分にしていなくて、成績の悪い学生に、勉強をしなくても、よい成績をつける責任があることになります。

 

こうして精神科医の診断書があれば、まったく、勉強せずに卒業できると考える学生が増加しました。

 

精神科医にとって、患者が増えることは、収入機会の増大になります。よほどのことがなければ、精神科医は、病気であるという診断書を作ります。

 

以前は、診断書のある学生は、普通の教室に参画することはありませんでしたが、現在は、普通の学生と一緒に授業を受ける権利があると理解されています。

 

学校には、カウンセラーが配置されていますが、カウンセラーは、落第と退学も望ましい自己実現であると考えています。17時過ぎに問題が生じると、その対応は、カウンセラーではなく、教師がしています。

 

簡単にいえば、カウンセラーは、9時から17時の間に、話を聞くだけです。

 

つまり、カウンセラーの配置に効果があるというエビデンスはないと思われます。

時系列は因果ではありませんが、カウンセラーの配置後に、精神科医の診断書を提出する学生、欠席する学生の数が減少したとは思われません。なぜなら、レベル2bの正義は、問題のある学生の増加の原因になるからです。

 

最近、得られる若干のデータは、問題のある学生の増加傾向を示しています。

 

文部科学省は、この問題に限らず、サンプリングバイアスのない前向き研究のデータをもっていません。

 

データがあると無謬主義ではなくなるので、データをとらないのです。

 

文部科学省は、カウンセラーの配置が免罪符になると考えていますが、現場の教員の負担は、レベル2bの正義によって、耐えがたく増加して、教員の希望者は激減しています。

 

文部科学省は、データに基づく問題点の分析をせず、教員の不足は、塾教師の補填で対応できると考えています。

 

少子化対策のタイムラグは20年です。教育投資(人材育成)のタイムラグも10年以上あります。

 

塾教師の補填は、タイムラグに対応した教育行政ができていない(あるいは必要であるという問題意識の欠如)という致命的な欠陥を示しています。

 

2020年の学習指導要領の改訂以降、「知識・技能」、「思考・判断・表現」、「主体的に学習に取り組む態度」という3観点に基づく評価が行われています。

 

パール流に言えば、「表現=>データ取得=>評価(推論)」というパラダイムには、例外はありません。

 

<「知識・技能」、「思考・判断・表現」、「主体的に学習に取り組む態度」>には、表現がなく、データ取得が出来ません。データがなければ、何も考えられません。

 

「知識・技能」と「思考・判断・表現」の評価は、もちろんペーパーテストの点数ではありませんが、文部科学省が、表現を与えていませんので、現場では、ペーパーテスト(これはほとんど暗記力)で代替しています。「主体的に学習に取り組む態度」は、ペーパーテストの点数で代替が出来ないので、完全に破綻しています。

 

文部科学省は、レベル2bの正義を認めているので、「主体的に学習に取り組む態度」の評価は、ほぼ、オールAになります。

 

杉浦由美子氏は、次のようにいいます。

多くの学校では「日々の宿題をしっかりやってくること」「課題を期日までにしっかり出すこと」といった、分かりやすくちゃんと真面目にやっていることを「主体性」の評価の基準にしてきました。

 

結果、どうなったかというと、真面目に提出物を出していれば、評定平均値4.0がとれる高校が増えたのです。

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「学習の主体性」が評定から外される方針と報道 推薦入試にどう影響がでる? 2025/07/07 杉浦由美子

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/d4d94e5fc8471717595b5495ec4aed631c979fcc

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その結果、大学では、内申書足切りに使えなくなり、学力試験免除が出来なくなりました。

 

読売新聞は次のように伝えています。

文部科学省は2025年7月4日、学習指導要領の改定を議論する有識者会議で、成績の基となる学習評価の観点を見直す方針を明らかにした。客観性を担保するのが難しく、機械的な評価に陥りがちだった「主体性」の比重を小さくする。

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小中高校の成績、「主体性」の比重を小さく…付け方見直し「思考」と一体で学習評価 2025/07/25  読売新聞

https://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyoiku/news/20250704-OYT1T50066/

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機械的な評価に陥りがち」は、「真面目に提出物を提出」を指します。

 

表現が先というパラダイムが理解できていれば、こうなることは自明でした。

 

教育関係者は、文部科学省の今回の評価基準の変更について、色々な評価と議論をしていますが、コンピュータサイエンティストは、パール流に考えます。コンピュータサイエンティストは、文部科学省の官僚と中教審の委員の頭の中は空っぽ(頭の中にはデータがないので、推論ができない)であると考えています。

 

現場のデータ表現は、ペーパーテストの点数(記憶力)と「日々の宿題をしっかりやってくること」と「課題を期日までにしっかり出すこと」しかありませんでした。<「知識・技能」、「思考・判断・表現」、「主体的に学習に取り組む態度」>のデータは、これだけです。中教審は、ペーパーテストの点数(記憶力)と「日々の宿題をしっかりやってくること」と「課題を期日までにしっかり出すこと」に、<「知識・技能」、「思考・判断・表現」、「主体的に学習に取り組む態度」>というラベルをつけろという指示を出しただけでした。データ表現のないキーワードには、収集されたデータがないので、全く意味がありません。

 

形而上学は、データに基づかない推論です。コンピュータサイエンス形而上学を認めません。統計学形而上学を認めません。

 

教育に、形而上学を持ち込めば、データ(生身の人間)は無視され、リアルワールドがない教育の世界になります。

 

2)表現が先

 

2-1)画像認識

 

画像認識システムの性能がよくなっていて、エラー率は、人間より低くなっています。

 

犬の画像と、猫の画像を区別する問題では、犬と猫は、デジタルカメラで撮影したJpegのビットマップデータです。アナログ写真の犬、油絵の犬は、デジタルカメラの画像に変換されます。これは、ディスプレイでみるモナリザルーブルで肉眼で見るモナリザには差がないという立場です。これは、コンサート会場のライブとデジタル録音の間には、差がないという立場です。この単純化を受け入れることで、初めて画像認識のための学習データの取得が可能になっています。

 

デジタルカメラのデータには、赤外のデータは含まれません。

 

デジタル録音のデータには、振動のデータは含まれません。

 

デジタルカメラのデータとデジタル録音のデータは、現実を単純化しています。

 

現実を単純化して、データ表現をさだめることで、データ取得が可能かつ容易になります。

 

科学は、現実の単純化の上に成り立ちます。

 

「生徒一人一人は違うので、単純化ができない」と、表現の規格化を拒否すれば、データが取得できません。データが取得できなければ、犬と猫の区別ができないように、生徒の区別ができていないはずです。

 

「生徒一人一人は違うので、単純化ができない」という主張は、科学に対する無理解(リテラシーの欠如)に他なりません。

 

「生徒一人一人は違うので、単純化ができない」という主張は、言葉とは裏腹に、生徒の違いと共通点は論じないという主張です。

 

2-2)ニュートン力学

 

ニュートン力学の基本は、質点の力学です。

 

質点は、物体の大きさを無視して、重心だけをモデル化する立場です。

 

「物体はひとつひとつ大きさが違うので、質点に単純化はできない」と主張すれば、ニュートン力学は成り立ちません。

 

質点に単純化すると、重心の周りの回転は表現されません。

 

質点には、大きさがないので、空気抵抗もありません。

 

これらの問題点は、後で補正を追加することで対応します。

 

工学の基本は、単純化です。

 

モデル化には、級数を使います。

 

モデル = 定数 + 1次の項 + 2次の項 + 3次の項 + ・・

 

これは、線形結合のモデルで、当てはまらないこともありますが、7,8割はこれでいけるので、まずは、線形結合モデルをつかいます。

 

多くの場合には、次数の高い項の大きさは、次数の低い項の大きさより小さいので、モデルの項を途中で打ち切っても、そのモデルは、近似モデルとして実用になります。

 

純化級数による分割、近似などのアイデアを使うと、データの表現を効率的に決めることができます。

 

3)アカウンタビリティの問題

 

文部科学省は、次のようにいいます。

 

評価に当たっての留意点等

 

    現在の「関心・意欲・態度」の評価に関しては、例えば、正しいノートの取り方や挙手の回数をもって評価するなど、本来の趣旨とは異なる表面的な評価が行われているとの指摘もある。「主体的に学習に取り組む態度」については、このような表面的な形式を評価するのではなく、2.(3)2.3)に示した「主体的な学び」の意義も踏まえつつ、子供たちが学びの見通しを持って、粘り強く取り組み、自らの学習活動を振り返って次につなげるという、主体的な学びの過程の実現に向かっているかどうかという観点から、学習内容に対する子供たちの関心・意欲・態度等を見取り、評価していくことが必要である。こうした姿を見取るためには、子供たちが主体的に学習に取り組む場面を設定していく必要があり、「アクティブ・ラーニング」の視点からの学習・指導方法の改善が欠かせない。また、学校全体で評価の改善に組織的に取り組む体制づくりも必要となる。

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学習評価の在り方について H27

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/siryo/attach/1364317.htm

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特に、問題は以下の点にあります。

<本来の趣旨とは異なる表面的な評価

表面的な形式を評価するのではなく>

<学習内容に対する子供たちの関心・意欲・態度等を見取り、評価>

 

ここにある主張は、パールの表現が先にあるというパラダイムの否定です。

 

表現を規格化しないで、「関心・意欲・態度等を見取り」ことを勧めています。

 

しかし、見取りの根拠となるデータと看取りの記録データはないので、アカウンタビリティはゼロです。

 

現場で、アカウンタビリティがない評価をすれば、教師は、保護者の突き上げをうけます。

 

英語版のウィキペディアには、教育評価(educational assessment )と教育評価(Educational evaluation)があります。

 

後者には、次のように書かれています。

教育評価(educational assessment )とは、知識、技能、態度、適性、信念に関する経験的データを文書化し、それらを用いてプログラムを改善し、生徒の学習を向上させる体系的なプロセスである。 評価データは、学習成果の達成度を直接評価するために生徒の学習成果を直接調べることによって得られる場合もあれば、学習について推論を行うことができるデータに基づいて得られる場合もある。評価はテストと同義に用いられることが多いが、テストに限定されるわけではない。評価は、個々の学習者、学習共同体(クラス、ワークショップ、またはその他の組織化された学習者グループ)、コース、学術プログラム、教育機関、または教育システム全体(粒度とも呼ばれる)に焦点を当てることができる。「評価」という言葉は、第二次世界大戦後に教育の文脈で使われるようになった。

 

評価は継続的なプロセスとして、測定可能な生徒の学習成果を確立し、その成果を達成するのに十分な学習機会を提供し、生徒の学習が期待にどれだけ合致しているかを判断するために証拠を体系的に収集、分析、解釈する方法を実装し、収集された情報を使用して生徒の学習の改善に関するフィードバックを提供します。評価は、生徒の達成レベルを決定する教育プロセスの重要な側面です。

 

教育における評価実践の最終的な目的は、実践者と研究者の理論的枠組み、人間の心の本質、知識の起源、学習プロセスに関する仮定と信念によって異なります。

 

特に北米における教育評価においては、教育評価基準合同委員会が3つの評価基準を公表しています。人事評価基準は1988年に公表され、 プログラム評価基準(第2版)は1994年に公表され、学生評価基準は2003年に公表されました。

 

教育効果の「経験的データを文書化する」ところからスタートします。文書がなければ、アカウンタビリティの評価はできません。

 

評価は、データに基づきます。そのデータは、文書化された教育の成果です。

 

「評価は継続的なプロセスとして、測定可能な生徒の学習成果を確立し」ます。

 

「主体的に学習に取り組む態度」を学習成果として、測定する表現を規格化する必要があります。

 

これは、読み取り可能なデータですから、「表面的な(読み取り可能な)形式で書かれたデータを評価」することになります。

 

文部科学省のように、文書(データ)を、「表面的な形式」として排除すれば、証拠が残らないので、何でもありのカルトになります。

 

2003年に公表されたアメリカの学生評価基準は、販売しているので、非公開です。

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Committee on Standards for Educational Evaluation. (2003). The Student Evaluation Standards: How to Improve Evaluations of Students. Newbury Park, CA: Corwin Press

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サマリーには、次のように書かれています。

「教師のための評価支援が到来」は、2002年5月8日付の「Education Week」紙の一面トップニュースでした。Education Week紙は、この重要な書籍の出版計画を発表しました。この書籍は米国規格協会(ANSI)の承認を受けています。この包括的な枠組みは、教育評価基準合同委員会によって作成され、公平で有用、実行可能、かつ正確な生徒評価の設計と評価において教育者を導くものです。教室レベルでの関連性を確保するよう慎重に作成されたこれらの基準は、16の専門団体の会員の支援を受けて開発されました。

 

国学校管理者協会、米国カウンセリング協会、米国教育研究協会、米国評価協会、米国心理学会、監督・カリキュラム開発協会、カナダ評価協会、カナダ教育研究協会、教育アカウンタビリティと教師評価研究コンソーシアム、州教育長官協議会、全米小学校長協会、全米中等学校長協会全米教育測定評議会、全米教育協会、全米立法プログラム評価協会、全米学校理事会協会。

 

文部科学省中教審の学習評価のガイドラインはデタラメです。

 

文部科学省中教審は、学習評価の検討をするデータを持っていません。

 

データがなければ、科学的な検討は不可能です。

 

「収集された情報を使用して生徒の学習の改善に関するフィードバックの提供」も体系的には行われていません。

 

分数ができない大学生問題が発生したときに、データを元に、どこで、躓いているのかを分析して、該当部分のカリキュラムを改善をする必要がありました。

 

しかし、文部科学省中教審は、学習を評価できるデータを持っていませんので、この問題は存在すら確認できていません。

 

ウィキペディアは、「教育評価は、評価は、個々の学習者、学習共同体(クラス、ワークショップ、またはその他の組織化された学習者グループ)、コース、学術プログラム、教育機関、または教育システム全体(粒度とも呼ばれる)に焦点を当てることができる」といいます。

 

評価対象は、生徒の成績だけではありません。文部科学省をふくむ教育機関、カリキュラムにも及びます。

 

学生評価基準は、日本のJISに相当する米国規格協会(ANSI)の承認を受けています。

 

米国規格協会(ANSI)が、学生評価基準を承認したことは、評価とは、規格化に他ならないということです。

 

マスコミと有識者は、利害関係だけしか考えていないように見えます。

 

マスコミを含めて、教育関係者は、法度体制に完全に洗脳されています。

 

データに基づかないカルトな評価基準を、発言者が、法度体制の上位者の発言であるというだけの理由で、無条件に受け入れています。

 

これをみると、「エリート主義.VS.ポピュリズム」で、ポピュリズム仮説の支持者が増えるのは、当然の結果と思われます。