法の支配ー正しい推論のため基本用語集(1)

英語版のウィキペディアの「法の支配Rule of laws」を引用します。

法の支配とは、立法者、政府関係者、裁判官を含む政治団体内のすべての人々と機関が同じ法律に責任を負うという政治的および法的理想である。法の支配は、単に「誰も法の上にはない」または「法の前にすべての人が平等である」と表現されることもある。ブリタニカ百科事典によると、法の支配は「法の下のすべての市民の平等を支援し、恣意的でない政府形態を確保し、より一般的には権力の恣意的な使用を防ぐメカニズム、プロセス、制度、慣行、または規範」と定義されている。

 

このフレーズの使用は16世紀のイギリスにまで遡る。次の世紀には、スコットランド神学者サミュエル・ラザフォードが、王権神授説に反対する議論でこのフレーズを使用した。ジョン・ロックは、社会における自由とは、すべての人に適用される立法府によって制定された法律にのみ従うことを意味し、それ以外は政府と私的な自由の制限から自由であると書いた。「法の支配」というフレーズは、19世紀に英国の法学者AVダイシーによってさらに普及した。しかし、フレーズ自体ではないにしても、その原則は古代の思想家によって認識されていた。アリストテレスは次のように書いている。「市民の誰かよりも法律が統治する方が適切である。」

 

法の支配という用語は、立憲主義(Constitutionalism)や司法国家(Rechtsstaat)と密接に関連している。これは特定の法的ルールではなく、政治的状況を指す。これとは別に、一人の人または集団が恣意的に支配する人による支配がある。

 

なお、日本語のウィキペディアでは、Rechtsstaatは、法治国家と和訳されています。

 

日本語のウィキペディアには、司法国家(Rechtsstaat)と法治国家(État_légal)の区別がありません。

 

英語版のウィキペディアの「司法国家 Rechtsstaat」を引用します。

大陸ヨーロッパの法的思想では、司法国家(Rechtsstaat)は警察国家(Police_state)および法治国家(État_légal)と対比される。

 

英語版のウィキペディアの「法治国家 État légal」を引用します。

法治国家( État légal)は、「立法中心国家」とも呼ばれ、フランスの憲法学に由来する大陸ヨーロッパの法思想の原則であり、憲法上の権利よりも法律が優先されると主張しています。

 

警察国家(法律が恣意的で、不平等に適用され、非国家の管理外で制定される)や、憲法上の権利が法律の権威に先行し、法律に取って代わるものとみなされる司法国家(Rechtsstaat、state of rights)とは対照的に、法治国家( État légal)は、法律が国民と国家に平等に適用され、決定されたとおりに適用される法治の一形態であり、つまり、立法者の意志に対する憲法上の制限がない、または制限が緩和されている。

 

要約します。

 

法の支配とは、人による支配ではなく、支配は法律に基づきます。

 

つまり、許認可や行政指導のような官僚の裁量権(人による支配)は、最小限にする必要があります。この点で、日本には、法の支配がありません。

 

次のステップでは、法の支配では、だれが、どのように法律を作るかが問題になります。

 

法律を守るべきであるという点では、法治国家(État_légal)と司法国家(Rechtsstaat)と同じです。

 

法治国家( État légal)では、憲法上の権利よりも法律が優先されると主張しています。

 

デイヴィッド・S・ロー氏は、「日本の最高裁ほど違憲立法審査権の行使をためらう裁判所を世界中でほかに見出すことは困難」と言います。

 

<<

デイヴィッド・S・ロー著、西川伸一訳「日本の最高裁を解剖する──アメリカの研究者からみた日本の司法」現代人文社

>>

 

このことから、日本は、法治国家(État_légal)と司法国家(Rechtsstaat)の間では、限りなく、法治国家(État_légal)に近い位置にいることがわかります。

 

日本が、司法国家ではなく、法治国家になった構造的な原因があります。

 

1946年に、日本国憲法が公布されます。(施行は、1947年)

 

日本国憲法の実態は、GHQが作成した人権中心の法体系です。

 

従来の個別法は、明治憲法を前提に作成されています。

 

つまり、日本国憲法が出来た時点で、個別法の多くは、憲法と矛盾したはずです。

 

法治国家( État légal)では、憲法上の権利よりも法律が優先されると主張しています。

 

法治国家であれば、個別法を憲法に合わせて改定する必要はありません。

 

司法国家(Rechtsstaat)では、憲法は個別法より優先します。

 

つまり、日本が司法国家であれば、1946年以降、膨大な数の個別法の改定がおこなわれていたはずです。

 

その場合には、法律が改定されるだけでなく、裁判官、弁護士などの法律家は、再学習が必要になります。

 

GHQは、1953年まで、日本を統治していたので、1953年までは、日本が、司法国家になる可能性がありました。しかし、朝鮮戦争が始まり、GHQの関心は、朝鮮戦争になって、日本の憲法と人権重視は、どこかに行ってしまいました。

 

その結果、日本は、法治国家( État légal)になりました。

 

国会議員の仕事は、法律をつくることです。

 

ところが、日本では、議員立法は例外です。

 

新しい法案は、法制局が、既存の法律と矛盾しないかを点検して、矛盾があれば、法案提出できないルールになっています。

 

司法国家(Rechtsstaat)では、憲法は個別法より優先します。

 

司法国家(Rechtsstaat)では、新しい法案は、憲法に違反するか否かが問題であって、個別法に矛盾してもかまいません。

 

議員は、既存の法律と矛盾する法案を国会に提出し、場合によっては成立させることができます。

 

裁判所は、既存の法律と新しい法案が矛盾する場合には、どちらが憲法違反であるかを判断します。

 

たとえば、アメリカの大統領令は、議会の審議を経ませんが、場合によっては、法案同等の効力を持ちます。

 

そこで、裁判所は、問題のある大領領令に対して、無効の判断をします。

 

トランプ大統領大統領令には、裁判所によって、無効の判断が出されたものがあります。

 

マスコミは、「裁判所によって、大統領令の無効の判断が出された」ことを、あたかも、アメリカには、法の支配がないように報道しますが、事実が全く逆です。法の支配がないのは、違憲判断がない日本の方です。

 

アメリカには、法の支配があるので、憲法は個別法より優先します。

 

法制局の既存の法律とのチェックは、憲法上の権利よりも法律が優先されることを指しています。

 

法制局は、裁判所ではないので、既存の法律とのチェックには透明性がありません。官僚の裁量権で結果が変わる可能性があります。つまり、この方法は、人の支配であって、法の支配ではありません。

 

法の支配から考えれば、議員立法は、法制局とは、独立して認められるべきです。

 

議員立法の妥当性は裁判所が判断すべきであることになります。

 

法の支配の根拠は憲法にあります。

 

憲法は改正されることがあります。

 

つまり、憲法の上位概念が必要になります。

 

筆者のこの辺りの理解は曖昧ですが、憲法を改正する根源の一つは人権にあります。