話せばわかる

「話せばわかる」は、5.15事件における、犬養の最期の言葉とされています。



「話せばわかる」という英語はあるのでしょうか。

 

それとも、これは、日本語独自のローカルな表現でしょうか。

 

ここでは、ウィキペディアを読んでみます。

 

日本語版のウィキペディアの「5・15事件」の一部を引用します。

5・15事件(ごいちごじけん)は、1932年(昭和7年)5月15日に日本で起きたクーデタ事件。

 

井上日召の影響を受けた海軍青年将校陸軍士官学校生徒や愛郷塾生らと協力し、内閣総理大臣官邸・立憲政友会本部・日本銀行・警視庁などを襲撃し、第29代内閣総理大臣犬養毅を暗殺した。

 

背景

 

大正時代、衆議院第一党の党首が内閣総理大臣になるという「憲政の常道」が確立したことで議会政治が根付き始めた。しかし、1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況により企業倒産が相次ぎ、失業者は増加、農村は貧困に喘ぎ疲弊する一方で、大財閥などの富裕層は富を蓄積して格差が広がり社会不安が増大するが、それらの問題に対処できず富裕層を守るばかりと見られた政党政治が敵視されるようになり、政治の革新が強く求められるようになっていた。国家革新を求める者の中には過激化し、時の首相を暗殺しようとする動き(濱口首相遭難事件)が起こったり、昭和維新を標榜し、政党と財閥を倒し軍事政権の樹立を目指す陸軍将校らによるクーデター未遂事件(三月事件、十月事件)も相次ぐなど、世情は緊迫していった。

 

海軍でも、ロンドン海軍軍縮条約を締結した内閣に不満を抱いた一部の将校らは、クーデターによる国家改造計画を抱き始める。計画の中心人物だった海軍の藤井斉は、陸海軍共同での決起を目指して一部陸軍将校や民間の井上日召西田税らと連携し計画を練っていた。しかし、主力と期待された皇道派の陸軍若手将校らは1931年12月成立の犬養内閣で皇道派荒木貞夫陸相となったところから必ずしも決起の必要はないと考える者も増え、陸軍将校(後に二・二六事件を起こすメンバーら)は時期尚早であるとして決裂、また、井上日召は、海軍将校らに軍務による制約があり憲兵の監視も受けるなど十分な活動ができないことに見切りをつけ、社会不安を引き起こすための要人テロを民間人側で起こすことに主眼を置く(血盟団事件)など、運動の方向性は分裂していく。藤井は折しも起こった第一次上海事変に出征、実行を目にしないまま戦死することになるが、藤井の同志らは計画実現を目指して行動を続ける。まず、2月11日の紀元節に宮中参内する政府要人らを襲撃、一挙に殺害して社会不安を起こし戒厳令を布告させ、それにより軍が実権を握り、昭和維新・国家改造につなげられることを期待した計画が立てられた。後に血盟団関係者が裁判で語ったところによれば、井上の提案により、このとき海軍軍人らが一部陸軍軍人とともに決起し陸軍側がやった形にみせかけて犬養首相を殺害し、そうすれば大川周明派の陸軍軍人らも座視できず合流、西田税・菅波三郎派の陸軍軍人も呼応させられるのではないかという計画であったという。しかし、海軍軍人らは各地に散らばっていて、また、憲兵らの監視もあり、その意志を確認することにも困難があり、連絡がうまく行かず、この計画は中止となる。

 

読んでも、事実が羅列してあるだけで、よくわかりません。

 

引用は、途中までですので、関心のある人は、続きを読んでもらえば分かりますが、いくら読んでも、何が、ポイントかがわかりません。

 

次に、英語版のウィキペディアの「5・15事件(May 15 incident)」を引用します。

 

5・15事件(ごいちごじけん)は、 1932年5月15日、大日本帝国において、大日本帝国陸軍士官候補生と極右団体「血の同盟」の残党の支援を受けた大日本帝国海軍の反動分子によって起こされたクーデター未遂事件である。犬養毅首相は11人の若い海軍士官によって暗殺された。その後の裁判と日本国民の支持により、暗殺者への判決は極めて軽く、日本の軍国主義の台頭が強化され、大日本帝国における 民主主義(democracy)と法の支配(the rule of law)は弱体化した。

 

背景

 

主要記事:血の同盟事件

 

大日本帝国海軍の規模を制限するロンドン海軍軍縮条約の批准の結果、下級将校団の中に政府を打倒し軍政に置き換える運動が起こった。この運動は、大日本帝国陸軍内に組織された秘密結社「桜会」と類似していた。海軍将校たちは超国家主義者の 井上日勝と彼の「血の同盟」と接触し、「昭和維新」をもたらすには主要な政財界人(財閥)を暗殺する必要があるという彼の哲学に同意した。

 

1932年の「血盟団事件」では、井上一派は2月9日に元大蔵大臣で立憲民政党の代表だった井上準之助、3月5日に三井ホールディングス取締役社長の団琢磨を殺害しただけだった。殺害されたのは高名な指導者2名だけだったが、当初このグループは他の20名の金融・政治指導者の暗殺を計画していた。

 

事件

 

1932年5月15日、海軍将校たちは陸軍士官候補生の支援を受け、右翼民間人(大川周明頭山満、立花孝三郎ら)とともに、血の同盟事件で始まった計画を完遂しようと独自の行動を起こした。

 

犬養毅首相は、首相官邸で11人の若い海軍士官(ほとんどが20歳になったばかり)に銃で撃たれた。犬養の最後の言葉は「話せば分かる」だったが、殺害者たちは「問答無用」と答えた。

 

当初の暗殺計画には、犬養首相が計画したチャップリン歓迎会で、1932年5月14日に日本に到着した イギリス人映画スター、チャーリー・チャップリンを殺害することが含まれていた。「これらの活動家は、土着の大和魂を政治に注入することに熱心で、大衆文化の政治的性質が深刻であることを認識していた」。チャップリンの殺害は、米国との戦争と日本の不安を促進し、天皇の名の下での「維新」につながるだろう。首相が殺害されたとき、息子の犬養健チャーリー・チャップリンと相撲を観戦しており、それが二人の命を救ったとみられる。

 

反乱軍はまた、立憲政友会党首で内閣総理大臣牧野伸顕氏の邸宅を襲撃し、東京の三菱銀行本店といくつかの変電所 に手榴弾を投げ込んだ。

 

首相殺害以外、クーデター未遂は失敗に終わり、反乱全体としては失敗に終わった。参加者はタクシーで警察本部に行き、抵抗することなく 憲兵隊に投降した。

 

結果

 

犬養首相を殺害した11人の将校は軍法会議にかけられた。裁判中、被告らは裁判を天皇への忠誠を宣言し、政府と経済の改革を訴えて国民の同情を集める場として利用した。裁判の終わりまでに、裁判所は全国の同情者から寛大な判決を求める11万通の恩赦嘆願書を受け取った。さらに、新潟の9人の若者は被告の代わりに裁判所で裁判を受けるよう求め、誠意のしるしとして自分たちの切断された小指9本の漬物が入った瓶を裁判所に送った。

 

裁判所が言い渡した刑罰は極めて軽く、犬養首相殺害の犯人は早ければ数年後には釈放されるだろうと日本のマスコミは疑っていなかった。5月15日事件の首謀者を厳しく処罰しなかったことで、日本の法の支配(the rule of law)と軍に対抗する民主政府(democratic government)の力がさらに弱まった。間接的に、それは2月26日事件と日本の軍国主義の台頭につながった。

 

「話せば分かる」の部分の英語原文が以下です。原文には、日本語を示しています。

 

Prime Minister Inukai Tsuyoshi was shot by eleven young naval officers (most were just turning twenty years of age) in the prime minister's residence. Inukai's last words were roughly "If I could speak, you would understand" (話せば分かる, hanaseba wakaru) to which his killers replied "Dialogue is useless" (問答無用, mondō muyō)..



つまり、「話せば分かる」という英語はありません。

 

また、英語版のウィキペディアは、5・15事件を次のように評価しています。



クーデター未遂事件(5・15事件)は、その後の裁判と日本国民の支持により、日本の軍国主義の台頭が強化され、大日本帝国における 民主主義と法の支配(the rule of law)は弱体化した。間接的に、それは2月26日事件と日本の軍国主義の台頭につながった。

 

つまり、英語版のウィキペディアは、「民主主義(democracy)と法の支配(the rule of law)」の視点で、歴史を記述していますが、日本語版のウィキペディアは、このような視点がありません。

 

英語版のウィキペディアの「犬養 毅(Inukai Tsuyoshi)」を引用します。

 

首相として

 

犬養毅が首相に

 

若月内閣が軍部統制の失敗と経済政策の失敗により辞任した後、日本で唯一生き残った元老、西園寺公望は犬養に新政府を樹立するよう頼んだ。犬養は任命後、外交政策と経済のいずれにおいても急激な変化を避けるよう西園寺から指示を受けた。政友会が国会の多数党ではなかったことですでに不利な状況にあった犬養は、極右の陸軍大臣荒木貞夫から自由主義の蔵相高橋是清に至るまでの競合する派閥で構成された内閣も背負わされた。分裂した内閣と敵対的な国会の中で、犬養は枢密院の支援を受けて統治し、枢密院は国会の通常の予算手続きを回避するために緊急勅令と予算措置を可決した。

 

犬養首相は直ちに経済を膨張させ、日本を金本位制から外す措置を取り、保護貿易政策を実施して日本の貿易赤字を食い止めようとした。これらの措置により円安が進み、世界市場での日本製品の価格が下がり、輸出が増加した。

 

しかし、犬養は、1931年12月23日には昭和天皇から九カ国条約に基づき国際的信頼を保ち中国を攻撃しないようにという指示があり、1931年12月27日には関東軍による錦州占領のいかなる動きも承認しないようにという指示があったにもかかわらず、満州と天津への追加派兵という日本帝国陸軍の要請に応じざるを得なかった。しかし、この時までに日本帝国陸軍は完全に文民統制下にはなく、1932年1月から3月にかけて第一次上海事変により紛争は上海に拡大した。1932年の総選挙 では、中国における日本軍の成功による世論の高まりに支えられ、立憲政友会が圧倒的多数を獲得した。

 

1932年1月8日、桜田門外の変で李鳳昌という韓国の独立運動家が昭和天皇の暗殺を企てた。犬養内閣は直ちに辞任を申し出たが、昭和天皇は事件を軽視することを望み、辞任を拒否した。

 

しかし、犬養は軍部を抑え込もうとしたことで依然として強い批判にさらされ、改革派からは不十分だと批判された。中国へのさらなる軍の展開を制限し、中国政府との交渉を通じて上海事変を鎮圧しようとする犬養の努力は、軍国主義者だけでなく一般大衆からもますます怒りを買った。これはすぐにテロ活動へと変貌し、血の同盟事件では過激派が裕福な実業家や自由主義政治家を標的にした。このグループは20人の犠牲者を選んだが、殺害に成功したのは元財務大臣で立憲民政党代表の井上準之助と三井ホールディングス取締役社長の団琢磨の2人だけだった。

 

3月1日、満州国が正式に建国された。象徴的に、犬養は日本軍内の過激派に対する不快感と、原材料や資本投資の多くを日本が依存していた米国との国際関係が急速に悪化していることへの懸念から、正式な外交承認を保留した。

 

暗殺

 

主要記事: 5月15日事件

 

5月15日 東京朝日新聞で事件が報道される

 

犬養は軍と争った結果、1932年の5・15事件で暗殺された。この事件は、第二次世界大戦後まで政府の決定に対する文民の政治統制が事実上終焉したことを意味した。犬養は東京の首相官邸で11人の海軍の下級士官(ほとんどが20歳になったばかり)に銃殺された。犬養の最期の言葉はおおよそ「話せば分かる」であり、暗殺者たちは「問答無用」と答えた。 反乱軍は内閣官房長官牧野伸顕の邸宅、西園寺公望の邸宅と事務所、立憲政友会の本部も襲撃し、東京の三菱銀行本店といくつかの変電所に手榴弾を投げ込んだ。当初の暗殺計画には、 5月14日に日本に到着し犬養の客であったイギリスの映画スター、チャーリー・チャップリンを殺害し、米国との戦争を引き起こすことが含まれた。しかし、当時チャップリンは首相の息子、犬養健と相撲を観戦しており、逃亡した。犬養の殺害者たちは、その行為に対して軽い刑罰しか受けなかった。

 

「話せば分かる」の部分の英語原文は以下です。

Inukai's last words were roughly: If we could talk, you would understand (話せば分かる, hanaseba wakaru) to which his killers replied Dialogue is useless (問答無用, mondō muyō).

 

次の部分は、現在の日本に対応しています。

 

犬養首相は直ちに経済を膨張させ、日本を金本位制から外す措置を取り、保護貿易政策を実施して日本の貿易赤字を食い止めようとした。これらの措置により円安が進み、世界市場での日本製品の価格が下がり、輸出が増加した。

 

アベノミクスは、経済を膨張させ、円安を進め、世界市場での日本製品の価格を下げ、輸出を増加させようとしました。

 

トランプ大統領は、保護貿易政策を展開しています。アメリカは、日本には、非関税障壁があると主張しています。日本に、貿易黒字(あるいは国際収支の黒字)がある場合には、日本は、自由貿易を主張することが可能です。

 

しかし、最大の貿易黒字の稼ぎ手である自動車産業の黒字は、黄色信号が灯っています。デジタル赤字は拡大しています。

 

1931年のように、日本の貿易赤字を食い止める必要が出てくる可能性が高いです。

 

こう考えると、「民主主義(democracy)と法の支配(the rule of law)」の視点で、歴史を見ることが必要になります。



2025年4月4日、韓国の憲法裁判所は、裁判官8人(9人のうち欠員1)の全員一致で罷免を決定しました。

 

このことから、韓国には、法の支配があることがわかります。

 

政治資金規正法は、明らかに法の下の平等に違反しています。

 

しかし、日本の裁判所は、個別法が憲法違反であるという判断をだしません。



韓国憲法裁判所は、韓国の1987年の憲法改正を受けて設置された憲法上の独立機関です。法律の違憲審判や弾劾の審理に加え、政党解散や国家機関間の権限争議などに関する審判をします。裁判官9人の任命権は大統領にあります、大統領、国会、大法院長(最高裁長官)が3人ずつ指名します。つまり、指名権が分散していることで、大統領の罷免が可能になっています。



ウィスコンシン州で2025年4月1日に行われた州最高裁判事の選挙で、リベラル派のスーザン・クロフォード判事が勝利しました。

 

裁判官を誰が任命するかは、法の支配の根本にかかわる問題です。

 

アメリカのように、裁判官を選挙で選出すれば、日本社会も大きく変わります。

 

そうなると、法度体制の支持者は困るので、反対しています。

 

つまり、法度体制(年功型雇用)と法の支配は相いれません。

 

フジテレビの問題の根底には、法度体制があります。

 

法度体制のもとでは、社員は、忖度(人権無視)で出世を目指すか、退職するかを選択することになります。しかし、年功型雇用が定着した社会では、退職(転職)には、大きな計税的なリスクが伴います。

 

フジテレビの幹部の一人は、「企業風⼟は私⼀⼈で作れるものではなく、⻑い時間をかけて作られていくものである」といいます。これは、(人権無視の)企業風⼟には、順応することが当然であるという発言です。

 

企業風⼟が人権無視であれば、社員が人権無視をしても、責任は問われないのが当然であるという発言です。

 

フジテレビの幹部になった人は、退職ではなく、忖度を選択した人なので、このような発言になるのでしょう。