山本五十六元帥銅像

ドイツでは、ヒトラーは、極右を除けば、尊敬されません。

 

ヒトラー時代の軍人も、尊敬されていないと思います。

 

ウィキペディアは次のように言います。

SS(親衛隊)は、党内で率先してユダヤ人の絶滅計画に携わり、絶滅収容所の設立・管理や、アインザッツグルッペンを編成するなどして組織的にユダヤ人の虐殺を図った。そのため、親衛隊は悪名高い組織となり、戦後のニュルンベルク裁判では、全ての親衛隊組織は「犯罪組織(英:Criminal Organization)」であるとする認定を受けた。21世紀に入って尚、元隊員達は本人の死亡が確認されるまで犯罪者として追跡され、居所が確認されれば高齢であっても逮捕、裁判に掛けられています。

1945年5月のベルリン宣言においてゲシュタポ(ドイツ警察の中にあった秘密警察部門)は軍や親衛隊とともに武装解除を命令されました。ニュルンベルク裁判ではゲシュタポは「人道に対する罪」で告発された6組織(他にナチス指導部、国防軍最高司令部、親衛隊、突撃隊、ヒトラー内閣)の一つとなりました。弁護側は「ゲシュタポは通常国にある政治警察と変わらない」「ヒムラーが警察長官となっても各州の警察はなんら影響を受けていない」と反論しましたが、認められず、有罪が宣告されました。

 

この認定により1939年9月1日以降にゲシュタポ隊員であったものは犯罪組織成員として扱われ、各種の非ナチ化法廷にかけられることとなりました。しかし一部の構成員はその経験や能力を買われ、第2次大戦後の東西両ドイツの警察機構に残る者、東側諸国ではシュタージ等、西側ではBND、CIA等の構成員となり、中東や南米では治安機関の育成にあたりました。

 

このように、犯罪者の線引きは難しいですが、「人道に対する罪」は、見逃されないようになっています。

 

軍隊についても、国防軍最高司令部は、「人道に対する罪」を犯していると判定され、ヒトラーと同じグループに属すると判断されています。

 

同様に考えれば、太平洋戦争について、旧日本軍にも、「人道に対する罪」に問われる人がいても不思議ではありません。

 

太平洋戦争では、ホロコーストはありませんでしたが、特攻という「人道に対する罪」がありました。皮肉なことに、東京裁判では、<特攻という「人道に対する罪」>は問われていません。

 

山本五十六元帥は、1943年に戦死しています。なので、東京裁判には登場しません。しかし、海軍は、特攻に関与しています。山本五十六元帥は、海軍中枢にいたので、特攻に関与しています。

 

脇田晴子氏は、特攻の原因は、天皇制の文化にあると主張しました。そこには、文化が不可避であるという考え方があります。しかし、文化が絶対に不可避であれば、特攻の再発を防ぐことはできません。脇田晴子氏は、特攻の再発を防ぎたいことが、中世文化研究の動機であったと言っています。筆者には、脇田氏が、例えば、山本五十六元帥が、別の行動をとっていれば、特攻は起こらなかったというような主張をもっていたように思われます。



ウィキペディアの「山本五十六」には、次のように書かれています。

1939年(昭和14年)「水から石油が採れる」と主張した科学者に海軍共済組合で実験させた。海軍省先任副官・一宮義之らは反対したが、山本は「君達のように浅薄な科学知識ではわからない。深遠な科学というものはそうではない」とたしなめたが、その科学者は詐欺だった。

 

新橋に梅龍と名乗る愛人・河合千代子をかこっており、1930年(昭和5年)のロンドン軍縮会議直前(山本は日本側代表)に深い関係になった。山本戦死後、河合千代子は海軍省から自決をせまられたが拒否、60通ほどの手紙を提出し、山本から与えられた恩賜の銀時計も没収された。河合は1989年(平成元年)に死去し、山本の遺髪と共に葬られた。

 

海軍省が、愛人に、自決をせまるのは、中国の皇帝を思い出させます。

 

明の十三陵は、中国の北京市昌平区天寿山にある明代の皇帝、皇后、皇貴妃と皇太子等の陵墓群です。このうち定陵は発掘され、内部は地下宮殿として公開されています。

 

定陵(地下宮殿)は深さ27m、地下9階、前殿、中殿、左配殿、右配殿、後殿(后殿)の5つの部屋で仕切られ、竜の飾りの付いた皇帝の玉座鳳凰の飾りが付いた皇后の玉座、そして万暦帝とその皇后の柩などが安置されています。

 

明代の半ばまでは、皇帝が亡くなると、妃や女官らも殉葬として葬られる風習があり、皇帝の死後、女性達は豪華な食事をとった後、首をくくって殉死し埋葬されました。定陵の場合は、皇后の一人は、皇帝よりも10年先に47歳で亡くなり、もう一人の皇后は、皇帝よりも3か月前に亡くなったので、幸い殉死ではないようです。

 

海軍には、人権はありませんでしたので、特攻は問題にならなかったと思われます。

 

さて、茨城県阿見町陸上自衛隊武器学校内に、山本五十六元帥銅像があります。

台座には、次のように書かれています。

山本五十六元帥銅像は、昭和18年(1943年)の秋から、昭和20年(1945年)の終戦時まで、旧土浦海軍航空隊本部庁舎前に、設置されていましたが、戦後アメリカ軍に辱められぬように、上下二つに分けて隠蔽しました。上半身は昭和23年(1948年)に、霞ヶ関湖底から発見されて、現在は広島県江田島市海上自衛隊第1術科学校にあります。下半身は平成14年(2002年)、当時の台座横の「常在戦場の碑」付近の土中から発見されたそうですが、平成16年(2004年)に、新たな銅像を建立したのがこの像です。

 

1945年から1953年の間、日本は、GHQ支配下にありました。この時には、人権がありました。

 

山本五十六元帥銅像の上半身は昭和23年(1948年)に、霞ヶ関湖底から発見されましたが、1948年に、銅像が展示できたとは思えません。GHQが、OKを出すとは思えません。

 

銅像の上半身は、山本元帥景仰会がブロンズ像に作りなおしています。

 

山本元帥景仰会のHPを見ると過程がわかります。

山本元帥景仰会

http://yamamoto-isoroku.com/?page_id=25

 

1943年

4月18日 山本五十六元帥戦死

7月29日 山本会(仮称)発足

8月27日 山本会(仮称)を、山本元帥景仰会に改名

 

1946年 

2月28日 財団法人山本元帥景仰会 解散

 

1958年

1月23日 山本元帥景仰会 設立・発足

                       (会長:内山由蔵/長岡市長)

11月3日 山本元帥胸像除幕式並びに山本記念公園(長岡市坂之上町)竣工式

 

つまり、山本元帥景仰会は、終戦後の1946年に解散しています。

 

山本元帥景仰会は、GHQの統治がなくなった1958年に再結成されています。

 

山本元帥景仰会は、胸像を2つ作り、1つは、山本記念公園に、1つは、広島県江田島市の、海上自衛隊第1術科学校にあります。

 

1958年は、法度体制(1940年体制)が復活した日であり、人権が失われた日でもあります。

 

選択的夫婦別姓制度を巡る議論が活発化する中、自民党の支持基盤でもある保守派は「日本の伝統的な家族観」を根底に反対姿勢を明確にしています。

 

根拠となる伝統が、1945年以前の制度である場合、その主張は、人権を無視しますという主張になります。

 

自民党の支持基盤でもある保守派は、法度体制を維持します。それは、人権とは相いれません。