5-1)民主主義と科学
英語版のウィキペディアで、民主主義を点検してみます。
一部の引用で、太字は、筆者がつけています。
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民主主義(Democracy、古代ギリシャ語:δημοκρατία、ローマ字表記: dēmokratía、dēmos「人民」、kratos「統治」に由来)は、国家権力が国民または国家の一般住民に委ねられている政治体制である。 民主主義の最小限の定義では、統治者は競争的な選挙を通じて選出されるが、より広範な定義では、民主主義は競争的な選挙に加えて市民の自由と人権の保証と結び付けられている。
民主主義の原則は、すべての有権者が法の前に平等であり、立法プロセスに平等にアクセスできることに反映されています。国連によると、民主主義は「人権と基本的自由を尊重し、人々の自由に表明された意志が実行される環境」を提供します。
ロックは「統治二論」 (1689年)で、すべての個人は生命、自由、財産に対する奪うことのできない権利を有していると仮定した。ロックによれば、個人は自らの権利を守るために自発的に集まり国家を形成する。ロックにとって特に重要だったのは財産権であり、その保護が政府の第一の目的であるとロックは考えた。さらに、ロックは政府が正当であるのは被統治者の同意がある場合のみであると主張した。ロックにとって、市民は自分たちの利益に反する行動をとったり、専制的になった政府に対して反乱を起こす権利を持っていた。ロックの著作は生前に広く読まれなかったが、自由主義思想の創始文書とみなされ、アメリカ独立戦争、そして後のフランス革命の指導者たちに多大な影響を与えた。彼の自由民主主義的な統治の枠組みは、今でも世界で最も優れた民主主義の形態となっている。
教育と経済成長の間に想定されているつながりは、実証的証拠を分析する際に疑問視される。各国で、教育達成度と数学のテストの点数の相関は非常に弱い(0.07)。生徒一人当たりの支出と数学の能力の間にも同様に弱い関係がある(0.26)。さらに、歴史的証拠は、一般大衆の平均的な人的資本(識字率で測定)は、反対の意見があるにもかかわらず、1750年から1850年にかけてのフランスにおける産業化の始まりを説明できないことを示唆している。これらの調査結果を総合すると、一般に主張されているように、教育が必ずしも人的資本と経済成長を促進するわけではないことがわかる。むしろ、証拠は、教育の提供が表明された目標に達しないことが多いこと、あるいは、政治主体が教育を利用して経済成長や発展以外の目標を促進していることを示唆している。
マスメディアの重要性
民主主義の理論は、有権者が社会問題、政策、候補者について十分な情報を持っているため、本当に情報に基づいた決定を下すことができるという暗黙の仮定に基づいています。20世紀後半以降、ニュースメディアが娯楽やゴシップに重点を置き、政治問題に関する真剣なジャーナリズムの調査をあまり行わなくなったため、有権者が十分な情報を持っていないのではないかという懸念が高まっています。
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今回の考察とは、直接関係がありませんが、「財産権の保護が政府の第一の目的」という点は重要です。アメリカでは、脱税は、政府の転覆と同じレベルの犯罪です。アメリカでは、巨額の政治資金が動いていますが、脱税のリスクは、最小限に抑えられています。これは、「財産権の保護が政府の第一の目的」を反映しています。課税方針が、事実上税調できまり、その根拠となるエビデンスが示されないこと、財産権の侵害になる社会保険料の改定が、国会審議の対象ではないことは、「財産権の保護が政府の第一の目的」に反しますので、民主主義ではありません。これが、ロックの「統治二論」を継承した民主主義の基本になります。
「財産権の保護が政府の第一の目的」ということは、この点において、政治学は、経済学より優先することを意味します。言い換えれば、「「財産権の保護」を守って、政治が経済に介入しないことが、民主主義の基本にあります。
東京オリンピックのとき、世論のアンケートでは、オリンピックの中止が過半数を超えていました。世論に反して、オリンピックが行われ、大きな赤字を出しました。この赤字は、税金で補填されますので、「財産権の保護」がなされていないといえます。オリンピックの強行は、市民によって選ばれた政府が行っています。これは、市民によって選ばれた政府が、何をしてもよいことを意味しません。ロックは、「政府が正当であるのは被統治者の同意がある場合のみ」と考えました。オリンピック前の政府の正当性には、疑問符が付きます。ロックは、「市民は自分たちの利益に反する行動をとる政府に対して反乱を起こす権利を持つ」といいます。つまり、東京オリンピックの例は、日本では、民主主義が機能不全になっていることをしめします。
「反乱を起こす」ことは、大きなダメージをうけるリスクがあります。優先順位としては、市民は、選挙によって、政府を入れ替えることが先です。
「財産権の保護」を最優先するのは、リバタリアンの思想で、民主主義の根幹を構成します。
日本に、リバタリアンの政党がないことは、民主主義の危機を示しています。
しかし、現状が変われば、リバタリアンの政党が出てくる可能性はあります。
さて、話を戻します。
今回のテーマは、「民主主義の理論は、有権者が社会問題、政策、候補者について十分な情報を持っているため、本当に情報に基づいた決定を下すことができるという暗黙の仮定」に関係します。
英語版のウィキペディアの「十分な情報」のインスタンスが問題になります。
「十分な情報」に基づいて、判断する点で、民主主義には、科学との共通点があります。
5-2)主観と客観
英語版のウィキペディアの「主観と客観」には、次の説明があります。
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主観と客観(Subject_and_object_(philosophy))
主観と客観の一般的な単純な区別は、観察者と観察される物です。人格(Personhood)に関わる特定のケースでは、主観と客観は、主観性と客観性の哲学的区別(the philosophical distinction between subjectivity and objectivity)に関連しています。これは、知識、アイデア、または情報の存在が、主観(subject)に依存するか (主観性、subjectivity、)、または主観(subject)から独立しているか (客観性、objectivity) という区別です。
ヘーゲルは、アリストテレス物理学から派生した立場から主体の定義を始めています。
ネーゲルによれば、科学的理解には、定義上、客観的な視点が必要です。客観的な視点は主観的な一人称の視点と正反対だからです。さらに、そもそも主観性と客観性は相互に絡み合っているため、主観性と客観性は結びついていないと定義できません。
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英語版のウィキペディアの「フランク・キャメロン・ジャクソン」には、次の説明があります。
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フランク・キャメロン・ジャクソン(Frank Cameron Jackson)
現代の哲学者のほとんどは、科学に従うか直感(intuitions)に従うかの選択を迫られた場合、科学を選択します。私はかつては多数派に反対していましたが、屈服し、今では、物理主義に対する直感(intuitions)からの議論(非常に説得力があるように見える議論)がどこで間違っているかが興味深い問題だと考えています。
ジャクソン、フランク、「心と幻想」(2003)
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客観とは、主観から独立していることになります。
これは、言い換えれば、誰が見ても同じに見えることを指します。
同じ映画を見ても、感動する人も、感動しない人もいます。
これは、映画に感動することが、主観であることを指します。
同じレストランにいっても、美味しいと感じる人も、美味しいと感じない人もいます。
食べログなどの評価は、主観の平均ですから、食べログの点数が何点でも、あなたが、レストランにいった時に予測される評価とは関係がありません。
フィギュアスケートの採点は、技術点と芸術点に分かれます。
技術点は、採点者に関係なく一律のスコアが得られるように作られています。
芸術点は、採点者の主観によります。
主観には、再現性がないので、科学とは相性が悪いです。
発熱して、医師の診断を受ける時に、あなたが、「熱があると感じた」と言う場合と、「体温計で何度あった」という場合とでは、医師は、後者を好みます。「熱があると感じた」は、主観です。「体温計で何度あった」は、客観であり、主体(患者)の影響を受けません。医学は、客観的なデータを元に構成されています。
ただし、フランク・ジャクソン氏が問題にしているように、すべてを客観で組み立てることはできません。筆者は、フランク・ジャクソン氏の見解を支持しませんが、客観に限界があることは認めます。
客観には限界があります。
フィギュアスケートの技術点の採点基準を客観的に決める方法はありません。
患者の体調を調べる時に、なぜ、体温を使うか、血圧や体重を選ばないかを客観的に決める方法はありません。
フィギュアスケートの技術点の点数は、客観です。
体温計で測定した体温は、客観です。
しかし、どうしてその項目を選択したのかを客観的に決めることはできません。
メタサイエンスの部分には、主観が含まれます。
この部分は、誰がやっても同じになる(主体に関係がない)ことはありません。
フィギュアスケートの技術点の採点項目は、協議して決めます。
協議が必要になるということは、採点項目の選択は、主観であることを示しています。
ここで、アナキストは、以上の状況から、科学は主観であるといいます。しかし、それは、現実を無視しています。体温という客観データを拒否して、「熱があると感じた」という主観を要素に医学を組み立てることはできません。
主観は、なくなりませんが、主観をどこに閉じ込めるかという問題があります。
この問題の解決に成功すれば、科学は存続できます。
フィギュアスケートの技術点の採点は、科学です。この部分では、主観を出来るだけ排除しています。
フィギュアスケートの芸術点の採点は、主観で、アートです。
主観の評価ルールは確立していません。フィギュアスケートの芸術点では、最高点と最低点を出した審査員の点数をカットします。これは、バイアスを避ける経験的な方法であり、理論的な根拠はありません。
ショパンコンクールでは、審査結果に反対して、審査の途中で、審査員を辞退する審査員もいます。
フィギュアスケートの採点ルールは、完全ではありませんが、できるだけ、主観と客観を分離することで、採点(評価)の透明性をあげることができる事例です。
有権者の情報の議論についても、できるだけ、主観と客観を分離するアプローチの効果は、検討に値します。
5-3)科学の客観性
パール氏は、「因果推論の科学」(p.142)で、次のように言います。
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客観性は統計学者にとって歴史のはじめ(ロンドンに出来た王立統計学が出来た日)から「聖杯」のようになっていた。1843年にロンドンに出来た王立統計学会の基本綱領にも、「データはいかなる場合でも意見や解釈に優先する」とうたわれている。「データは客観的だが、意見は主観的」というパラダイムは、ピアソンの時代よりもずっと以前から存在している。客観性を求めて闘うーーデータと実験のみをもとに推論するーーその姿勢こそが、ガリレオ以来、科学を科学たらしめてきたと言ってよい。
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パール氏は、「データと実験のみ」が客観であると言います。
ジム・ロジャーズ氏は、2024年12月に、<「日銀」が日本を滅ぼす 世界3大投資家が警告する日本の未来>という本を出しています。
ジム・ロジャーズ氏は、日銀から、フェイク情報を流したとして、訴えられるでしょうか。
<「日銀」が日本を滅ぼす>が、ファクトデータに基づいている限り、ジム・ロジャーズ氏は、日銀から、訴えられることはありません。一方、<「日銀」が日本を滅ぼす>が、捏造したデータに基づいていれば、ジム・ロジャーズ氏が訴えられることはありません。
もちろん、ジム・ロジャーズ氏は、<「日銀」が日本を滅ぼす>が、ファクトデータに基づいているという確信があるので、本を出版しています。
このように、データ(ファクト)に基づくという基準は、科学の「聖杯」であるだけなく、民主主義の基本をなしています。
流行語になった、ひろゆき氏の「それって、あなたの意見でしょう」という発言は、「データはいかなる場合でも意見や解釈に優先する」という王立統計学会の基本綱領に対応しています。
なお、パール氏は、科学の主観の例として、ベイズ統計学、因果推論の因果ダイアグラム、因果構造の継続性をあげています。
科学から主観は排除できませんが、これは、制約なしに、主観を受け入れることではありません。
5-4)データルール
以下では、「データはいかなる場合でも意見や解釈に優先する」をデータルールと呼ぶことにします。
山本謙三氏は、2024年9月に「異次元緩和の罪と罰」を出版して、日銀の大規模金融緩和を批判しています。この本の多くのページが、日銀の2%インフレの目的の分析に使われています。
ところで、2013年月に、日銀は異次元の金融緩和を始めました。2年以内に2%のインフレを達成するといいました。
データルールに基づけば、2年後の2015年3月に、2%を達成していない場合には、政策変更になります。これが、「データはいかなる場合でも意見や解釈に優先する」という原則です。
2015年3月に、日銀は、データルールを破棄しました。
森永卓郎氏の言葉で言えば、日銀の政策は、科学ではなく、ザイム真理教のカルトであることがわかったわけです。
山本謙三氏は、2015年3月以降の日銀の政策を丁寧に分析しています。
しかし、日銀の政策は、科学の基本のデータに基づいていないので、すべての議論は無効になります。
5-4)科学の方法
データに基づかなければ、科学にはなりません。
一方、データに基づかない政策決定は、民主主義の崩壊になります。
ロックは、「市民は自分たちの利益に反する行動をとる政府に対して反乱を起こす権利」を持つといいます。
データに基づかない政策には、「自分たちの利益に反する行動をとる政府」であるという疑惑があります。
データを公開すること、政府が、データに基づく行動をとることは、民主主義の基礎要件です。
データルールによれば、「2015年3月に2%を達成していなかった」ことが、科学的な政策のクリティカルポイントです。
そのような発言が少なかったことは、日本では、データルール(科学の方法)が理解されていないという事実を示しています。
森永卓郎氏の言葉で言えば、日本人の多くは、ザイム真理教の信者であるという表現になります。