論理と科学(3)

3-1)形而上学の課題

 

形而上学を排除することは、英語圏では、基本です。

 

例えば、次のような政治家の発言があります。

 

丁寧に意見を聞き、可能な限り幅広い合意形成が図られるよう真摯に、謙虚に取り組む

 

ここには、インスタンスはありません。

 

つまり、答弁は、形而上学です。

 

英米の政治家が、答弁で形而上学を使えば、マスコミにたたかれて、確実に落選します。

 

トランプ次期大統領は、かなり、差別的な発言を多発します。

 

しかし、その発言が差別的であると判断できる根拠は、発言には、インスタンスが含まれているからです。

 

インスタンスがあれば、ファクトとのクロスチェックが可能になります。

 

差別的発言は、形而上学よりはマシです。間違いも起きますが、間違いを修正すれば、先に進みます。

 

形而上学では、現状から全く動けません。

 

3-2)可謬主義

 

英語版のウィキペディアは、次のように言います。

可謬主義(かびゅうしゅぎ、Fallibilism)は、「知識についてのあらゆる主張は、原理的には誤りうる」という哲学上の学説です。

 

可謬主義は、「経験的知識は、さらに観察をすることによって修正されうる」ということを理由に、我々が知識とみなしているものはどれも、誤りであることが判明する可能性があるということを承認することです。

 

今日の哲学者のほとんどは、ある意味では可謬主義者です。知識には絶対的な確実性が必要だと主張したり、科学的主張が修正可能であることを否定したりする人はほとんどいません。

 

絶対確実な信念の有力な候補としては、論理的真実(「ジョーンズは民主党員であるか、そうでないかのどちらか」)、即時の現象(「青い斑点が見えるようだ」)、そして矯正不可能な信念(つまり、信じられていることによって真実となる信念、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」など)が挙げられます。しかし、他の多くの人は、これらのタイプの信念でさえ誤りがあると考えています。

 

これは、ヒュームが指摘した問題です。「さらに観察をすることによって」は、言い換えれば、「将来起こることによって」という意味です。あるいは、「さらに観察をすることによって」は、「知識についての主張」の再現性を述べています。

 

現在の知識を否定するような現象が、将来、おこらないという説明は不可能です。

 

もちろん、ファクトと独立した形而上学であれば、将来何が起きても、「知識についての主張」を変える必要はありません。しかし、それは、形而上学が、ファクトに対して何もいっていないからです。「xは、xである」というトートロジーは、xの値が何でも成立しますが、意味のない知識です。

「論理的思考とは何か 」では、可謬主義は、科学の方法に分類されていますが、標準的な用語の定義である英語版のウィキペディアでは、可謬主義は、哲学の常識にもなります。

 

なお、「さらに観察をすることによって」には、技術進歩の問題もあります。がんの治療が進んだ原因には、CTスキャンがあります。GISデータが取得できるようになった原因には、GPSがあります。生物種の特定が容易になった原因には、DNAのシーケンスの解析技術の進歩があります。こうした技術革新によって、「観察」データは、爆発的な変化をします。

 

 

3-3)知識の更新

 

科学は、「将来起こることによって」、現在の知識を更新する必要があるので、観測を続けます。

 

現在の知識を更新するデータが得られれば、形而上学ではない哲学(の伝統)も、修正が必要になります。



「論理的思考とは何か 」(p.36)では、科学的方法のアブダプションについて、次のように書かれています。

むしろ常に誤りが見つけられる可能性を残しておかなければならないとする「可謬主義」という新しい知識の見方を提示した。

 

この説明は、かなり特異です。「常に誤りが見つけられる可能性を残しておかなければならない」という説明は、他では見たことがありません。

 

3-4)A引用とB引用

 

科学も、哲学も、「可謬主義」です。

 

「可謬主義」から、自動的に導かれるルールがあります。

 

それは、文献の引用の仕方です。

 

「A引用とB引用」は、筆者の造語です。

 

同じような用語が既にある可能性もあります。

 

とりあえず、過去の文献では、同じアイデアを見つけられていないので、ここでは、「A引用とB引用」を使います。

 

論文やウィキペディアのような解説を書く場合に、過去の文献を引用します。

 

科学論文では、同じテーマについての既往の論文のレビューを付け加えることが原則です。

 

「可謬主義」で考えれば、過去の論文は、その論文の発表時には正しくとも、現在は間違っている可能性があります。

 

その論文の発表時に、データの捏造等を行った論文は、ジャーナルから、取り下げられます。しかし、その論文の発表時のデータで、間違いが確認できなかった論文で、その後のファクトで間違いが見つかった論文は、取り下げられません。

 

現実問題として、時間が経てば、論文の著者が既に亡くなっていることも多いので、修正論文を再投稿することも出来ません。

 

つまり、古い論文は、間違っている点があるのが普通です。

 

科学では、文献を引用するときに、論文の正しさを前提にしません。

 

論文の引用は、知識のアイデアを、執筆する論文のバックグランドを明らかにするために、行われます。これが、B引用です。

 

一方、科学で否定されている引用が、論文の権威に基づA引用です。

 

アリストテレスが言ったから正しいというような引用は、A引用であって、科学では、認められません。

 

この問題は、ウィキペディアで、顕著です。

 

英語版のウィキペディアの引用は、基本的には、B引用になっています。

 

ところが、日本語版のウィキペディアでは、A引用が多発しています。

 

大規模金融緩和の時にも、アメリカのノーベル経済学賞を受賞した経済学者の発言であるから正しいというA引用が乱発されました。これは、経済学には、科学の「可謬主義」がないことを意味しています。

 

筆者には、「論理的思考とは何か 」にも、A引用が散見されるように思われます。

 

これは、「論理的思考とは何か 」が、「可謬主義」で執筆されていないことを示しています。