2ー1)哲学の問題
今回は、哲学について考えます。
20世紀のはじめに、哲学は大きく変わりました。
パースが、革命のスタートを切りました。
パースは、形而上学である哲学を否定しました。
具体的には、カント哲学からスタートして、カント哲学を否定しています。
日本人は、八百万の神が好きなので、ソクラテスから、ロールズまで、全て有難い教えであると考えます。しかし、一神教の世界では、正解は1つだけです。
新しい哲学者は、古い哲学者を否定しています。その否定が全否定になるか、部分否定になるかは、ケースバイケースですが、古い哲学を丸のみすることはありません。
日本の書店に並んでいる教養としての哲学の本には、八百万の神のように、哲学者が並んでいますが、古い哲学で十分であれば、新しい哲学が出現するはずはありません。
2-2)メンタルモデルの基本
あなたが、友人と会話をしていたとします。
あなたは、「最近、犬が食欲がなくって」といいます。
友人は、「あら、犬はよく食べているわ」といいます。
このとき、あなたの犬は、「柴犬のタロー」であり、友人の犬は、「プ―ドルの花子」であれば、話は納得できます。
このとき、あなたの犬(オブジェクト)のインスタンスは、「柴犬のタロー」であり、友人の犬(オブジェクト)のインスタンスは、「プ―ドルの花子」です。犬というオブジェクトは、インスタンスを参照するキーワードであって、オブジェクト名には、意味はありません。犬をdogに置き換えても、会話の内容は変わりません。
会話の内容は、オブジェクト名が、どのインスタンスを参照しているかという点に左右されます。
あなたと友人の会話は、あてになりません。これは、同じ「犬」というオブジェクト名が、別々のインスタンスを参照しているためです。コミュニケーションが成立するためには、同じオブジェクト名が、同じインスタンスを参照する必要があります。これは、メンタルモデルの共有と呼ばれます。メンタルモデルの共有ができていない状態では、理解やコミュニケーションの評価自体ができません。
哲学の基本は、「考えればなんとかなるはず」という信念にあります。しかし、この信念には、インスタンスを無視するという問題点があります。
パースは、形而上学、つまり、インスタンスを無視した推論はやめることを提案しました。プラグマティズムの誕生です。
プラグマティズムは、科学的推論を目指しています。
プラグマティズムは、哲学の伝統を継承していますが、形而上学ではないので、哲学ではありません。
パースは、非常に不遇な人だったので、生前に出版された論文は限られています。
パースのプラグマティズムは、心理学者のジェームズを通じて、ウィトゲンシュタインに影響を与えました。
ウィトゲンシュタインは、「論理哲学論考」を書いて、形而上学としての哲学にできることは、全て書き終えたと考えました。
哲学の基本は、「考えればなんとかなるはず」という信念にあります。ここには、言葉の完全性の仮定があります。言葉が不完全であれば、考えたことに、間違いが混入してしまいます。
ウィトゲンシュタインは晩年に、言葉は、不完全であるという前提での推論に取り組んでいます。
2-3)哲学の現状
ウィトゲンシュタインは、イギリスで活動しました。パースの影響をうけたアメリカとイギリスは、哲学史のなかでは、イギリスの経験論にあたります。カナダ、オーストラリアも含めて、英語圏の哲学は、形而上学の哲学ではなく、哲学の伝統のプラグマティスムが基本になっています。
フランスとドイツの大陸哲学の伝統は、まだ健在です。
橘玲氏は、「テクノリバタリアン」(p.260)で、「日本でヨーロッパ哲学やフランス現代思想(ポストモダン)については、数えきれないほどの本がでているが、リバタリアニズムは無視され」ているといいます。リバタリアニズムは、プラグマティズムの一部です。
つまり、日本では、プラグマティズムは理解されていないことがわかります。
フランス人の歴史学者エマニュエル・トッド氏は、イギリス流の経験論に従って研究していて、現在のフランス哲学は言葉あそびであると批判しています。
科学の中心が、室内実験の場合には、科学と哲学の間には、齟齬はありません。
しかし、因果推論の科学の進歩によって、科学は、実験室の外にでることに成功しました。
この場合、形而上学の哲学ではなく、因果推論の科学を教育する必要があります。
なぜなら、形而上学では、オブジェクトとインスタンスの区別がないので、形而上学の哲学を使って、コーディングすることができません。
因果推論の科学では、オブジェクトとインスタンスを区別するので、コーディングすることができます。
2-4)哲学の論理
「論理的思考とは何か 」(p.38)は、次のように言います。
<
哲学の目的は、物事の本質を捉えることである。具体的には、「・・・とは何か」という問いに、「・・・とは、・・・である」と定義することと言い換えることもできる。
>
しかし、この方法では、オブジェクトとインスタンスを区別できません。
「論理的思考とは何か 」(p.37)は、次のようにも、言います。
<
証拠の基準や判定の基準は、「何について論じるのか」、「どのような視点に立っているのか」によってその正しさは変わる。
>
「何について論じるのか」とは、インスタンス(メンタルモデル)を共有しないと、コミュニケーションが成り立たないことを意味します。
一方、インスタンスが、明示されれば、「・・・とは何か」という問いは、あり得ません。なぜなら、解答のインスタンスが、与件になっているからです。
インスタンスを明示しなければ、コミュニケーションが成立しません。
「論理的思考とは何か 」(p.39)は、次のように言っています。
<
哲学的な問いとは、(中略)立場によって違う答えであるような問いである場合が多い。
>
これは、インスタンスを明示しなければ、コミュニケーションが成り立たないので、当然の帰結です。
プラグマティズムでは、インスタンスのない形而上学は、排除されます。
したがって、プラグマティズムでは、「立場によって違う答え」が出ることはありません。
「論理的思考とは何か 」が、哲学と呼んでいるものは、形而上学の大陸哲学をさしています。
ここでは、英語圏の経験主義の哲学やプラグマティズムは無視されています。
日本には、英語圏の経験主義の哲学やプラグマティズムの哲学者がいませんので、日本語の文献を引用すれば、自動的に、このような結論が得られます。