前⽥裕之氏は、<経済学の壁:教科書の「前提」を問う >と<データにのまれる経済学 薄れゆく理論信仰>の著者です。
アマゾンのリンクを示します。
データにのまれる経済学 薄れゆく理論信仰
経済学の壁:教科書の「前提」を問う
2冊目の内容紹介は、以下です。
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学派の「壁」を越える、初めての知的冒険
現代経済学への批判が絶えない。日本の大学では、標準的な履修コース(ミクロ経済学、マクロ経済学、計量経済学)が普及しているが、学生の間からは数式やグラフばかりで学習する意味を見出せないとの声をよく聞く。「経済学は役に立たない」と切り捨てるビジネスパーソンも少なくない。
経済学とはどんな学問で、根底にはどんな考え方があるのか? 経済学の「前提」をよく理解せずに教科書や入門書を手に取り、経済学を学ぶ意義が分からないまま、消化不良を起こしてしまう人が多いようだ。
そこで、本書では主流派と異端派の諸学説の原典や基本的な考え方を網羅し、経済学という学問の本質を掘り下げたうえで、経済学との付き合い方を提言する。
著者は日本経済新聞で、日本銀行や大蔵省をはじめとした経済官庁や銀行などさまざまな業界を取材する一方、岩井克人『経済学の宇宙』を手掛けるなど、ジャーナリズムとアカデミズムを自由に行き来してきた、経済論壇では稀有の存在だ。正統派と異端派の学派の壁を軽やかに飛び越え、一冊で経済学のすべてを描き切った渾身の経済学案内。
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前⽥裕之氏が、財務省で行った講演「経済学はどこに向かうのか」のパワーポイントが、以下にあります。
経済学はどこに向かうのか 前⽥裕之
https://www.mof.go.jp/pri/research/seminar/fy2023/lm20231102.pdf
講演「経済学はどこに向かうのか」は、2冊の著書のうち、特に2冊目の要約になっていると思われます。
2)解説
以下では、講演「経済学はどこに向かうのか」のポイントを解説します。
視点は、パールの「因果推論の科学」におきます。
2つのポイントがあります。
第1は、「(形而上学にならない)言葉があるか」、つまり、名詞(変数名、オブジェクト)に対する要素(値、インスタンス)の有無を判断しているかという点です。
第2は、因果モデルになっているか、あるいは、弱形でいえば、数式やアルゴリズムで評価されているかという点です。
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「科学とは計測なり」
投資情報会社を運営していたアメリカの実業家、アルフレッド・コウルズ(1891〜1984)は1932年、コロラド州コロラドスプリングスに数理経済学と計量経済学の研究所、コウルズ委員会を設⽴した。基本理念は「科学とは計測なり」。経験と感覚に基づく経済予測を排し、客観的な経済予測の⼿法を開発するのが狙い。
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この部分は、コウルズ委員会の基本理念は「科学とは計測なり」を説明しています。
しかし、「言葉があるか」という視点で見れば、値がない変数名は、形而上学です。
第50回衆議院選挙は10月27日に投開票されました。投票日が迫る中で発覚した自民党が非公認候補の政党支部に2000万円を支給した問題が、結果を左右したと言われています。
この場合の名詞は「政治とお金の問題についての不信感」であり、その値が、「非公認候補の政党支部に2000万円を支給」でした。この2000万円という数字が、「政治とお金の問題についての不信感」の内容になりました。
「2000万円という数字」の有無が、推論の決定的な差を生み出します。
レーダー雨量計が出てきたときには、地上の転倒マスの雨量計に比べれば、精度が悪いので、使いものになるかという議論がありました。しかし、レーダー雨量計は、地上の転倒マス雨量計のない地点のデータもつくります。その結果、現在では、線状降水帯という新しい言葉が生まれています。
したがって、ポイントは計測ではなく、数字(インスタンス)の有無になります。
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「信頼性⾰命」の衝撃
RCTや統計的因果推論(⾃然実験や擬似的実験)は必ずしも理論の裏付けを必要としない。「理論ありきの実証」の伝統を守ってきた経済学界にとっては「⾰命的」といえる。
- 「信頼性⾰命」はビッグデータとも相まって経済学界を席巻し、今やデータ分析のない理論研究だけでは学術誌(ジャーナル)に論⽂を掲載できない状況に。
経済理論やモデルは不要?
かつては経済を分析する基礎となるデータがなかった。→経済理論を作って経済現象の
因果関係やメカニズムを解明しようとした。
- マクロの集計データが集まるようになると、経済理論(マクロ理論)の正しさを裏付け
るためにデータを活⽤した。(回帰分析)
- ビッグデータ時代を迎え、ミクロデータが集まるようになると、ミクロ理論をベースに
した計量経済学に加え、統計的因果推論、RCT(ランダム化⽐較試験)といった新⼿法
を活⽤して、因果関係を解明する研究が活発になった。
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ここで、「信頼性⾰命」と呼ばれている内容は、ルービン流の因果モデルです。
前⽥裕之氏は、「今やデータ分析のない理論研究だけでは学術誌(ジャーナル)に論⽂を掲載できない状況」と言いますが、インスタンスのない変数は、形而上学なので、プラグマティズムの公準では、科学にはなりません。つまり、今までの経済学は、科学ではなかった(おそらくイデオロギー)ことになります。
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すれ違う官と学の思惑
研究者=⽇本の⾏政データ、とりわけ⾏政記録情報がオープンになり、研究の⽬的を満たせるデータを⾃由⾃在に⼊⼿できるシステムを望む。⾏政データをフル活⽤できれば論⽂を書きやすい。
→現状では⽇本版EBPMは論⽂の材料にはなりにくい。
⾏政官=情報漏洩のリスクを冒してまで研究者に論⽂の材料を提供する意味はない。⾏政データを活⽤した研究者の論⽂が予算要求の裏付けとして役⽴つ可能性も低い。
→EBPMは予算編成の作業⼯程を増やすだけの存在になりかねない。
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⾏政官は、インスタンスのない変数で、政策決定ができると考えているか、変数にインスタンス(値)があると、利権の維持ができなくなるので、都合が悪いと考えていると思われます。
講演「経済学はどこに向かうのか」は、財務省で行われていますので、仮に、分かっていても、前⽥裕之氏は、「変数にインスタンス(値)があると、利権の維持ができなくなるので、都合が悪いと考えている」とは言わなかったと思われます。
EBPMには、データが必須です。このデータは、観察研究ではなく、前向き研究で得られたものである必要があります。
つまり、⽇本版EBPMは、いまのままでは、実現は不可能です。
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経済学の「社会実装」に注⼒する若⼿研究者たち
「使える!経済学―データ駆動社会で始まった⼤変⾰」(⽇本経済研究センター編、2022)では、実証分析の応⽤例として、商品の価格付け、信⽤審査、商品のおすすめ、教育・広告の効果測定、セールス⼈員へのタスク配置(仕事の割り振り)、景気の健康への影響を挙げている。
⺠間ビジネスへの応⽤がほとんどであり、政策決定に関与するような事例は同書には、ほとんど出てこない。
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「⺠間ビジネスへの応⽤がほとんどであり、政策決定に関与するような事例は同書には、ほとんど出てこない」理由は、政策決定に関与するような事例に使えるデータが皆無であるためです。
ここには、値(インスタンス)のない変数は、言葉ではないという理解が働いていません。
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経済学はどこへ向かうのか
理論から実証へ、マクロからミクロへという潮流はさらに顕著になる公算が⼤きい。
- 経済学の花形である経済理論を⽀える実証分析という基本は守られてはいるが、RCTに代表される新⼿法を駆使した研究は必ずしも経済理論の助けを必要としない。⼤学の経済学部はやがて「データサイエンス学部」の⼀部⾨になるのでは、と語る研究者も。
- 「よいデータが集まったから、これで論⽂を書ける」といった声もよく⽿にする。→「ヤッコー研究」(とにかくRCTをやったらこうなったという研究)の乱造→「理論なき計測」との批判も。
- こうした現状を憂慮するベテラン研究者らからは「実態認識」(研究対象となる社会の経済的・社会的構造、重⼤な出来事や社会が直⾯する重要な問題に関する知識)や「ドメイン知識」(個別具体的な制度や政策に対する深い理解)が重要だとの声も出ている。
- 経済理論による演繹的な研究が⼤勢を占めていた時代に⽐べると、なお溝はあるにせよ、EBPMの中で官と学が歩み寄り、協⼒できる場⾯はもっとあるのではないか。
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経済学が(因果モデルを含む)数学モデルで記述可能であれば、⼤学の経済学部はやがて「データサイエンス学部」の⼀部⾨になるのは当然と思われます。
筆者は、経済学の学説史には関心がありません。
前⽥裕之氏は、ケインズについて、次のように書いています。
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マクロ経済学の始祖、ジョン・メイナード・ケインズ(1883〜1946)は、⼿の込んだ計量モデルを「悪夢」、「錬⾦術」と批判した。→「回帰分析は⾃然科学では有効かもしれないが、経済現象の場合には推定しようとする係数も⼀定ではない。計量経済学の分析⼿法は将来が過去の統計の確定した関数になっていると仮定している。もしそうなら、期待や将来に対する確信の程度の役割は考慮されていないことになる。発明、政治、労働争議、戦争、地震、⾦融危機など数字で表せない要因も考慮されていない」
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短期日本経済マクロ計量モデル(2022 年版)は、方程式数 152 本(うち推定式 47 本)の中型モデルで、そのパラメータには、(原則)2020 年迄の四半期マクロ時系列データを用いて得られた推定値を活用しています。
ケインズは、<⼿の込んだ計量モデルを「悪夢」、「錬⾦術」と批判>しています。しかし、ケインズが亡くなった1946年には、コンピュータはありませんでした。
内閣府は、方程式数 152 本、つまり、パラメータ数153の短期日本経済マクロ計量モデルを中型モデルとよんでいます。経済モデルでは、価格は、相対値でよいので、パラメータ数は、方程式数+1になります。
しかし、ChatGPT4のパラメータ数は、1兆個です。
パラメータ数153のモデルが、中型モデルであるというのは、何かの間違いであると思われます。
仮に、パラメタ―数が1万個から1億個の経済モデルがあったとしたら、その場合でも、ケインズは、<⼿の込んだ計量モデルを「悪夢」、「錬⾦術」と批判>したでしょうか。
筆者は、リオサミットの後で、地球温暖化問題が出現したときを思い出します。
そのころのGCMの1メッシュは、300kmでした。この解像度で、GCMの結果を政策に反映すれば、「悪夢」になりそうでした。地上のデータの解像度も、1㎞または、250mでした。現在のアメリカのハザードマップは、補間も含めれば解像度は3mになっています。
このような問題を整理するのは、煩雑なので、筆者は、学説史には、触れない方針です。
数学で書けない問題には、深入りしないという方針です。
なお、データサイエンスと因果推論の科学では、回帰分析にはこだわりはありません。
非線形モデルでもかまいません。
しかし、パラメータ数が増え、データにノイズがのっている場合には、線形モデルが一番扱い易いです。このため、まず、第1に、線形モデルを試して、それから、次のステップを考えることが、基本手順になっています。
前⽥裕之氏は、「合理的期待形成仮説」を次のように説明しています。
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ケインズ経済学を打ちのめした「ルーカス批判」
家計や企業は⾃ら⼊⼿した情報に基づいて⾃⼰の期待を変化させ、合理的に⾏動する。(=合理的期待形成仮説)。例えば、政府が国債を発⾏して公共投資を増やしても、⼈々がその財源を賄うために将来の増税を予想するとそれに備えて貯蓄を増やす。政府の財政⽀出は⺠間消費の減少で相殺され、総需要には影響しない。
- マクロ計量モデルによる予測は、企業や家計の⾏動が変化しないような短期では通⽤するかもしれないが、企業や家計の⾏動を左右するような政策の変化には対応できない。
- ケインズ経済学には「ミクロ的な基礎づけ」が⽋けているとの主張が学界を席巻し、新古典派のミクロモデルをマクロにも拡張する分析が主流となって今⽇に⾄っている。
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データサイエンスの視点でみれば、「合理的期待形成仮説」には、致命的な間違いがあります。
第1に、「合理的期待形成仮説」には、生産性の向上(生産関数)に関する言葉がありません。つまり、ここには、経済成長がありません。
ここには、言葉がないので考えられない問題があります。
第2に、疫学の立場でみれば、「合理的期待形成仮説」は、プラセボ効果の研究になります。プラセボを飲んでも、病気は治りません。これは、「合理的期待形成仮説」では、生産性の向上がおこらないことに対応します。
第3に、因果関係は、「生産性の向上(原因)=>経済成長=>インフレ(結果)」になります。結果を変えても、原因は変わりません。これは相関と因果を取り違えた間違いの典型になっています。
3)ルービン氏を超えて
前⽥裕之氏の「信頼性⾰命」は、ルービン流になります。パール流ではありません。
日本の因果推論の科学の99%はルービン流です。
筆者は、パールとその弟子(黒木氏)を除けば、日本語の文献で、パール流の因果推論を暑かった文献をみたことがありません。
その原因は、パール流の因果推論は、メンタルモデルの共有を前提としているためと考えています。
経済政策の効果は、政策のwithと政策のwithoutの差をとる必要があります。
ルービン流では、この問題は、欠測値の問題ですが、パール流では、反事実の問題になります。
因果推論が、反事実の問題であることは、政策の効果は、政策が行われる前、あるいは、政策の途中で、前向き研究データが得られた時点で評価できることになります。
大規模緩和のように、10年経っても、政策評価ができない場合は、ありえません。
因果推論の科学では、このようになった原因は、日銀が、因果推論の科学を無視したことに原因があると言えます。
経済学がデータサイエンスの因果モデルを無視した科学的に間違った推論をするのであれば、⼤学の経済学部が「データサイエンス学部」の⼀部⾨になるのは科学的に望ましいことです。