6)メンタルモデルがスタート
山本謙三氏の「異次元緩和の罪と罰」を読みました。
「中央銀行の使命回復の提案」について、コメントします。
6-1)石破氏の変身
石破首相は、総裁選のときの主張と首相になってからの主張に大きな隔たりがあります。
プチ鹿島氏は、次のように批判しています。
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しかしここまで総裁選と言っている内容が違うと、あらためて「総裁選とは何か」について考えねばならない。アレはやはり自民党のPRイベントであり“興行”だろう。候補者は聞こえの良いことだけをひたすら言えばよく、自民党が変わるかのような雰囲気をせっせと作り出す。
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<< 引用文献
「負けたら石破の責任、勝ったら裏金はチャラ...」石破茂(67)は自分が“使い捨て総裁”だといつ気づくのか 2024/10/08 文春 プチ鹿島
https://bunshun.jp/articles/-/73985
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プチ鹿島氏の指摘は総裁選ですが、これは総裁選に限ったことではありません。
衆議院選挙でも同様の変身が繰り返されています。
プチ鹿島氏は、「アレ(公約)はやはり自民党のPRイベントであり“興行”」といいますが、選挙のときには、内容が不明な公約でPRイベントを繰り返し、当選してから自分に都合の良い政策を決める議員も多数います。
当選したあとで、自由勝手に政策を決めるので、エンジニアのメンタルモデルでは、このような政治システムは、制御不可能です。飛行機であれば、何時墜落してもおかしくないと言えます。
アメリカでも、ヨーロッパでも、議員は、公約に従って行動します。天変地異がおこって、公約を変更する場合には、その旨を説明します。これは、途上国でも同じです。
公約に従って行動する理由は、政治と議員活動は何かというメンタルモデルが、有権者と議員の間で共有されているからです。
日本では、政治と議員活動は何かというメンタルモデルが、有権者と議員の間で共有されていませんので、コミュニケーションが成立しません。
メンタルモデルの共有ができない人は、コミュニケーションの場からは追放されます。
自然科学であれば、データを捏造した人は、アカデミック社会から追放されます。
メンタルモデルの共有が出来ていれば、変身を繰り返す議員がいれば、政治の世界からは追放されます。
商品の購入前の能書きと、購入後の効果が異なっていれば、詐欺になります。公正取引委員会が販売の差し止めを命令します。
6-2)言葉で繕う政策変更
「異次元緩和の罪と罰」(p.199)には、「言葉で繕う政策変更」という節があります。
「異次元緩和の罪と罰」は、変身の理由を「期待を直接変えようとする政策の宿命」であると説明します。
しかし、プチ鹿島氏の指摘にあるように、変身は、「期待を直接変えようとする政策の宿命」ではなく、日本では、広くみられる現象です。
その原因は、議論や検討には、メンタルモデルの共有が必須条件であるという前提が理解されていないためです。
「異次元緩和の罪と罰」は、異次元一級緩和の問題点を丁寧に分析しています。
しかし、リフレ派とメンタルモデルの共有が出来ていない場合には、何を書いてもむだです。
状況は、宗教戦争のような非難の応酬にしかなりません。
仮に、メンタルモデルの共有ができていないのであれば、日本の経済学は、科学としては、致命的な問題点を抱えていることになります。
この問題点は、経済学だけでなく、政治学などの他の学問にもあることになります。
国際的な政治学と経済学は、メンタルモデルの共有を前提としています。
このことから、日本の外交が蚊帳の外に置かれている可能性があることがわかります。
例えば、日本が民主主義を主張しても、人権におけるジェンダー格差は少しも減りません。これは、国際的な政治学と経済学のメンタルモデルでは説明がつきません。なので、日本は、メンタルモデルの共有ができていない、議論しても話が通じることがない国に分類されているはずです。
6-3)人権のメンタルモデル
世界経済フォーラムが、2024年度版の「世界の男女平等ランキング」を発表した。日本は146カ国中118位と依然として低い順位のままでした。
英国エセックス大学人権センターフェローを務め、国際人権を専門とする藤田早苗氏が、日本の人権教育について、次のように言っています。(筆者要約)
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国連と日本の人権教育の「ズレ」
私は普段は英国にいて、年に数カ月、日本で講義や講演を行っている。まず「そもそも人権とは?」ということを話す。すると、多くの人がそれまでの人権へのイメージや理解との違いに驚く。それは、国連が提唱する「本来の人権教育」が日本では行われていないためだろう。
日本の教育では人権について「視覚障害者が道路を渡れず立ち往生していたら、手を引いて渡らせてあげよう」といった個人のアプローチだけに頼り、構造的な問題に目を向けないので、制度や法律が引き起こす人権問題を克服できない。
国連は人権を「生まれてきた人間すべてに対して、その人が能力・可能性(potential)を発揮できるように、政府はそれを助ける義務がある。その助けを要求する権利が人権。人権は誰にでもある」と説明している。人権の実現には、政府が義務を遂行する必要がある。
政府の義務と自分が持つ権利を教える必要性
各種の国際人権条約は義務の内容を具体的に示している。各条約には政府が保障すべき権利が規定されている。われわれは、それを学ぶ必要がある。例えば本来、学校では子どもの権利条約が保障する権利を生徒に教えなければならない。英国はじめ、多くの先進国ではそういう教育がされている。ところが日本の学校では教えられていない。
人権について理解していなければ、自分の人権が侵害されても「被害を受けた」と気づけず、声を上げることができない。ジャニーズ問題でも、被害を受けた人たちが「当時は性被害だと気づかなかった」「性被害だとわかっていたら逃げ出していた」などと発言していた。
英国ではバイト先のマクドナルドでセクハラを受けた高校生が声を上げ、社会問題となった。「自分には人権がある」と認識し、その権利の内容を理解していることは重要なのだ。そして、それを教えることが本来の人権教育だ。
「思いやりアプローチ」の教育の危険性と本来の人権教育
1993年に採択された国連の決議文は、人権教育を「あらゆる発達段階の人々、あらゆる社会層の人々が、他の人々の尊厳について学び、またその尊厳を社会で確立するためのあらゆる方法と手段について学ぶ、生涯にわたる総合的な過程である」と定義している。
本来の人権教育では、自らの権利を知り、自分たちが権利の主体として、人権の実現のために行動するための知識を学ぶ。そして、そのような知識が人権実現への活動につながり、人権侵害を引き起こしている社会構造などを変えてきた。
日本の「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」には、人権教育とは「人権尊重の精神の涵養を目的とする教育活動」であると定義されて、個人が優しさや思いやりをはぐくむことを目的としたいわゆる「優しさ・思いやりアプローチ」の教育が強調されている。そして多くの人が、人権とはそういうものだと理解している。
人権について思いやりを強調するときに起こる第一の問題は、「政府の義務」の議論が抜け落ちることだ。そのため人権問題が起これば、それは「自己責任」だといわれる。「政府の義務」の議論から注意を逸らすには、優しさ・思いやりと自己責任論の強調は好都合だろう。
実際、以前新聞に掲載された政府広報に「子どもの貧困 あなたにできる支援があります」として子ども食堂などを例にあげるものがあった。本来、政府には「子どもの貧困」という重要な人権問題を改善する義務があるにもかかわらず、この政府広報は、人々の「優しさ」に貧困問題を丸投げし、自らの義務を放棄しているといえる。
菅義偉首相(当時)は2020年の就任会見で「自助・共助・公助」という、自助を重視したキャッチフレーズを掲げていた。人権について「思いやり」を強調することで、政府は義務を回避し、人々への自己責任論を強固にしているのではないか。
また、優しさ・思いやりアプローチは普遍的な人権概念から見ても問題がある。人は自分の仲間に思いやりを持つことはさほど難しくはないだろう。しかし自分と異質な人たち、好きになれない、偏見を持つ相手には違う態度で接したり、差別的な扱いをしたりする傾向があるのではないか。それが特定の民族集団への人種差別政策となった究極のものが、ナチスによるホロコーストだった。
当時の世界では、一国の人権問題は国内問題で内政不干渉だと解されていたため、あの大規模人権侵害を食い止められなかった。その反省に基づき第2次世界大戦後、国連を作るときに国際社会は「一国の人権問題は国際関心事項」と決めた。
そして、1948年に、世界人権宣言が採択された。人権の主体は「すべての人」である。この「普遍的」な人権概念が社会に根付かなければ、差別などの人権問題の改善は困難だろう。仲間への「思いやり」だけでは不十分なのだ。
118カ国で設立されている「国内人権機関」が日本にない
人権教育について大きな役割を担うのが「国内人権機関」だ。これは英語の National Human Rights Institutionのことで「国家人権機関」と訳されることもある。国際人権基準を国内で実施するために重要な役割を担うもので、人権機関の地位に関する原則(パリ原則)に従い、独立性を確保したものが求められる。2024年6月現在、すでに世界の118カ国で設立されているが、日本はいまだに設立への見通しが立っていない。
国内人権機関の役割の1つが人権教育で、例えばフィリピンではそのスタッフがジープで山村を訪問し、「自分たちの人権にはどういうものがあるのか」について授業をするという。そして、小学校でも子どもの権利条約の内容が掲示されている。
英国にも国内人権機関があり、そのウェブサイトにあった動画を見ると「人権とは?」「差別とは?」という質問に対し、6歳くらいの子どもたちが「ただ単に信条が理由で、違った扱いを受ける人もいるよね」「もし権利というものがなかったら、人々は世界中でいじめに遭っていたと思う」という具合にみんなしっかり答えていて、人権についてきちんと教えられていることがわかる。
自分の権利を理解し、ほかの人の権利行使も尊重する、そういう人権教育を受けた子どもたちが大人になり社会人となっていく。その中に、政治家、教師、ジャーナリスト、企業の重役など、影響力のある立場の人も多く含まれる。その政策決定過程や発信に人権意識が反映され、さらに社会に影響を与える可能性も大きい。教育の役割は重大だ。日本でも本来の人権教育の普及が望まれる。
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<< 引用文献
「優しさ・思いやり」が強調される日本の人権教育、世界と大きくズレている深刻 政府の義務が自己責任にすり替えられる危険性 2024/09/28 東洋経済 藤田早苗
https://toyokeizai.net/articles/-/828629
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このように、日本では、人権のメンタルモデルの共有ができていません。
日本政府は、人権のメンタルモデルをもっていません。
「世界人権宣言」は、「人権の定義=>人権教育によるメンタルモデルの共有=>不平等を解消する活動」というフレームワークでできています。
「世界人権宣言」にかぎらず、教育(知識の獲得)が世界を変えるためにはメンタルモデルの共有が不可欠です。
日本政府は、人権のメンタルモデルをもっていません。
人権は、民主主義の一部ですから、日本政府は、民主主義のメンタルモデルを持っていないと言えます。
人権教育の目的は、人権が理解できている状態を作ること、言い換えれば、人権のメンタルモデルで推論して行動できるようになることです。
「1948年に、世界人権宣言が採択された」と解答用紙に書くことではありません。
人権のメンタルモデルで推論して、政府の政策の問題点を指定して、改善に向かって活動する人が出てきて、人権教育の目的が達成されたことになります。
この基準で考えれば、日本の人権教育、政治学の教育には問題があります。
6-4)ジョブ型雇用に向けて
筆者は、年功型雇用と天下りの受け入れは、人権宣言に違反していると考えます。
年功型雇用は、世界基準のメンタルモデルの共有を不可能にし、メンタモデルのバージョンアップを停止するので、科学に対立します。これが、DXが進まない(生産性が向上しない)原因です。
人権宣言は、能力を発揮する機会の平等と(能力と成果に対する)差別の禁止を求めます。
日本では、能力と成果の評価がなされていません。能力と成果の定量評価ができれば、年功型雇用は成立しなくなります。このため、日本の人事評価は、同期入社の中の順位付けにすぎません。基準も曖昧なので、忖度が横行します。能力と成果の評価をするためには、能力と成果とは何かというメンタルモデルの共有が不可欠です。この基準でみれば、日本企業がジョブ型採用と呼んでいるものは、ジョブ型雇用とはまったく別のものです。
冷泉彰彦氏は、次のようにいいます。(筆者要約)
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少なくとも1990年代において、電算化と国際化の中で、対応のできない人材を別の分野に適正化させる一方で、新しい世代の若い労働力に入れ替える必要があったのです。仮にそうなっていたら、これだけの超長期にわたって日本経済が衰退することもありませんでした。
解雇規制の緩和(労働力の産業間移転)を成功させるのには、スキルの標準化が必要です。
第1に、それぞれの企業や産業、あるいは官庁などが「自己流」でやっている仕事の進め方の標準化が必要です。
第2には、仕事の目的と手段、そして技術革新の流れと現在位置など、もっと大所高所からの理解が必要です。批判的な観点も含めてです。その上で、自分の過去職の経験を次の環境で、あるいは技術革新や国際化がさらに進んだ次の時代でも「応用できる」ような人材を育てるし、自分も目指すという社会的なクセをつけるのです。
職業教育における原理原則と経験則のダブル化とでも言ったらいいのかもしれませんが、これは公教育から始めるべきです。
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<< 引用文献
解雇規制緩和はジョブ型雇用とセットでなくては機能しない 2024/09/25 Newsweek 冷泉彰彦
https://www.newsweekjapan.jp/reizei/2024/09/post-1367.php
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仕事を批判的な観点も含めて、標準化できることは、仕事というメンタルモデルの共有に他なりません。
メンタルモデルとは、コミュニケーションを可能にして、議論と検討を可能にする知識の共通フレームワークです。科学の基本です。
プラグマティズムの原則によれば、科学の方法(科学的なメンタルモデルの共有)を妨げる要素には、固執の方法、権威の方法、形而上学があり、これらが出現した場合には、無視すべきです。
「異次元緩和の罪と罰」のなかで、山本謙三氏は、ボルカー氏とラジャン氏を引用します。(p.97)しかし、リフレ派は、クルーグマン氏を引用しています。このように、権威の方法をつかって、推論をすすめるとコミュニケーションは成り立たなくなります。
プラググマティズムの原則は、このような非科学的な推論を禁止しています。
メンタルモデルの共有ができれば、冷泉彰彦氏のあげた、2つの条件は、クリアできます。メンタルモデルの共有は、欧米の教育の目的にもなっています。
7-5)メンタルモデルの再編
メンタルモデルは、政治だけでなく、学問分野毎にあります。
そして、ノーベル賞の自然科学の3賞の境界が曖昧になっているように、学問分野毎のメンタルモデルは、相互にダイナミックに再編が進んでいます。学問分野の縦割りの根拠は、人間のメモリー容量の制約にありました。学問は、情報とメンタルモデルに基づく情報操作で構成されます。現在、情報はコンピュータ上のビッグデータにあるので、学問分野の縦割りを温存する理由は、分野毎のメンタルモデルの違いに限定されます。
一方、AIは、メンタルモデルに基づく情報操作を研究対象にしています。つまり、AIは、メンタルモデルに基づく情報操作を一般化して、コンピュータ上に実装する試みです。AIの研究によって、メンタルモデルに基づく情報操作の一般化が実現しても、学問分野毎の差がゼロになることはありません。しかし、パラメータが学問分野毎の違いを吸収して、標準メンタルモデルで多くの問題が解決できるようになると思われます。
実学が、基礎学問と異なる点は、学問分野独自の情報にあります。ビッグデータによって、学問分野独自の情報の価値は、なくなっています。標準メンタルモデルができれば、実学が独立して存在できる生息域は、小さくなります。これは、AIを活用できる社会の姿になります。ロボット裁判官やロボット意志が活躍できる世界は、そのような世界になります。ロボット裁判官はイメージしにくいかもしれません。
自動運転車が実用化すれば、ロボット・ドライバーが人間に替わって活躍することになります。自動車学校で教えていた実学は、その時点で消滅しています。自動車学校で教えていた実学の内容は、人間に教えるのではなく、AIに教えればよくなります。AIは、人間と異なり、学習内容を他のAIに移植できるので、同じ内容を別のAIに教育する必要はなくなります。
外科手術をサポートするロボットがあります。2024年時点では、自動運転車が実現していないように、外科手術をサポートするロボットは、人間を必要としています。しかし、単純な手術であれば、自動運転車と同じように、無人で手術することが合理的な時代がくると思われます。
AIを使っていくためには、AIと共存できるメンタツモデルを共有して、それをバージョンアップしていくことが必要になります。
前回、筆者は、次のように書きました。
<
国民のメンタルモデルが、AIと共存でき、数学で、結果が決まるのが当然であると考えるようになれば、文系への進学希望者はなくなります。ITエンジニアへの進学を希望する人が増え、ITエンジニアが不足しなくなります。ITエンジニアへの進学希望が増えて、文系のコースを廃止して、AIエンジニアコースの増設を希望する人が増え、それは、政治の公約になるはずです。このようなメンタルモデルを早く作ることのできた国だけが、先進国として生き残るはずです。
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読者の多くは、これは絵空事と感じたかも知れません。
しかし、インドやベトナムのような途上国では、このようなメンタルモデルを共有している人が、既に、多数出現しています。