1)マックス・ヴェーバーの間違い
1-1)ダーウィンの間違い
ダーウィン氏が「種の起源」を出版したときには、DNAは、まだ、発見されていませんでした。
このため「種の起源」のDNAに関係する記述は、曖昧で、場合によっては間違いがふくまれています。
間違いが含まれていても、その間違いを訂正すれば、「種の起源」の仮説の大筋は、使えます。
したがって、「種の起源」は、間違いだらけのトンデモ本ではなく、科学の古典になっています。
ただし、科学の初心者は、「種の起源」を読みながら、自分で、間違いを訂正することができませんので、初心者が、「種の起源」で、生物学を学習することはすすめられません。
「種の起源」の間違いを訂正して、コンパクトに要約した内容が生物学の教科書に含まれています。
初心者は、「種の起源」ではなく、生物学の教科書で学習すべきです。
最新の研究内容を参照して訂正された記述を含む教科書は、重要です。
教科書がなければ、メンタルモデルの共有ができませんので、コミュニケーションが成立しません。
メンタルモデルの共有ができ、コミュニケーションが成立するレベルの定評のある教科書は、日本語には、ほとんどありません。
定評のある教科書は、最新の研究内容を参照して訂正が繰り返されます。
改訂されている回数の多い標準的な教科書は、メンタルモデルの共有の基準になっている教科書です。そのほとんどは英語版で、日本語の翻訳があっても、改訂回数が多いと、最新版には対応していません。したがって、ファースト・チョイスは、英語版の標準的な教科書を使って学習すべきです。
OpenStaxなどのフリーの教科書は、改訂されている回数の多い標準的な教科書には及びませんが、標準的な教科書の代わりになることを意識して編集されています。OpenStaxなどのフリーの教科書はベストではありませんが、セカンド・チョイスとしては、推奨できます。
ファースト・チョイスとセカンド・チョイスの教科書は、メンタルモデルの共有の基準を目指しています。つまり、あるテーマについて議論する場合に、教科書を見れば、メンタルモデルの共有ができることが、編集の基準になっています。このため教科書の厚さは、1000ページ以上が一般的です。講義に使われる部分は、100ページ前後で、残りは、学生が自習することが前提になっています。
Bookboonの教科書は、OpenStaxなどのフリーの教科書より劣りますが、最低限の内容を手っ取り早く理解するためには便利です。Bookboonの教科書の内容は、玉石混交で、内容が古いものが多いです。Bookboonの教科書を使うメリットは、網羅する分野や大変広く、OpenStaxではあつかっていない、あるいは、標準的な教科書が存在しいない分野をカバーしていること、記述がコンパクト(100ページ程度)で、最短に時間で読むことができる点にあります。
日本語の教科書は、Bookboonの教科書レベルの内容の教科書がほとんどです。日本語の教科書で、学習しても、標準的な教科書によるメンタルモデルの共有ができませんので、国際的なジャーナルに投稿しても、受理されない可能性が高くなります。つまり、日本語の教科書は、専門家養成の教育としては問題があります。
以上は、大学レベルの教科書の話ですが、高等学校までの教科書にも同じ問題があります。
教科書は、ある程度評価の定まった知識の内容に基づいて改訂します。
分野によっては、変化速度が大きく、教科書では対応できません。
そのような場合には、特定のテーマのレビュー論文や、クラウド上の情報共有サイトが使われます。
まとめれば、最新の研究内容を参照して訂正された記述を含む教科書か、その代替がなければ、メンタルモデルの共有ができなくなり、学問の進歩が止まってしまいます。
最新の研究内容を参照して訂正された記述を含む教科書は、ある学問分野が正常に進歩(進化)している証になっています。
マックス・ヴェーバー氏の「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、社会学の名著になっています。
なお、日本語では、ヴェーバーとウェーバーの2種類の表記がありますが、引用もあるので、表記の統一はしていません。
しかし、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、「種の起源」と同様に間違いを抱えています。
生物学の教科書は、「種の起源」の間違いを訂正した内容を記述しています。
一方、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の間違いを訂正した議論を聞いたことがありません。
これは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に固有の問題はなく、マルクス氏の「資本論」にも、共通する問題です。
「種の起源」に、DNAの記述がないことで、ダーウィン氏が責任を問われることはありません。
同様に、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に、間違いがあっても、ヴェーバー氏が責任を問われることはありません。
問題は、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を利用する人にあります。
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の前の世代の社会学では、コント氏が活躍していました。コント氏の研究方法は、事例を列挙する方法で、帰納法ではありませんでした。
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、ベーコン流の帰納法を使っていますので、時代の最先端の手法を駆使しています。
しかし、フィッシャー氏が、交絡因子の問題を取り上げる前の時代です。
1890年頃には、ゲオルク・カントール氏が、集合論を提案して、数学の対象を、数以外に拡張しています。
集合論を使えば、社会学の問題は、数学の問題に置き換えることが可能です。しかし、ヴェーバー氏は、社会学の問題が、数学で解けるとは想定していなかったと思われます。
ちなみに、集合論を使って、社会科学の問題を数学の問題に置き換える方法が、AIの基礎理論の一部になっています。
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、1905年に出版されていますが、1930年にアメリカの社会学者タルコット・パーソンズによって初めて英語に翻訳されています。つまり、世界的な評価は、1930年以降に得られたと思われます。
ここでは、簡単な反事実の推論を行ない、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の間違いを分析します。
最初に、英語版のウィキペディアで、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」をおさらいします。
次の前提があります。
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ウェーバー氏は、宗教的信仰は通常、富や財産の追求を含む世俗的な事柄の拒絶を伴うと主張している。
彼は資本主義の精神を、経済的利益の合理的な追求を支持する考えと精神と定義している。
資本主義の特殊性にうまく適応した生活様式が他のものを支配するためには、それがどこかで発生し、孤立した個人だけではなく、人類全体に共通する生活様式として発生しなければならなかった。
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3番目の前提の「孤立した個人だけではなく、人類全体に共通する生活様式」は、メンタルモデルの共有に対応しています。
筆者は、「人類全体に共通する」は、言い過ぎであると思いますが、少なくとも、企業を経営する場合には、複数の幹部の間で、メンタルモデルの共有が出来なければ、先に進みません。
内容の要約は、次のとおりです。
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ウェーバーが簡単に主張したことは次の通りです。
新しいプロテスタントの宗教によれば、個人はできる限りの熱意をもって世俗的な職業 (ドイツ語: Beruf ) に従うよう宗教的に強制されていました。この世界観に従って生きる人は、お金を蓄積する可能性が高かったのです。
新しい宗教(特にカルヴァン主義や他のより厳格なプロテスタント宗派)は、苦労して稼いだお金を無駄遣いすることを事実上禁じ、贅沢品の購入を罪とみなした。特定のプロテスタント宗派が偶像崇拝を拒否したため、個人の教会や会衆への寄付は制限されました。最後に、貧者や慈善団体への寄付は、物乞いを助長するものとみなされ、一般的に好ましくありませんでした。この社会状況は怠惰であり、同胞に負担をかけ、神を侮辱するものとみなされました。働かないことで、神に栄光を帰すことができませんでした。
ウェーバーは、このジレンマを解決する方法は、この資金を投資することであり、それが初期の資本主義に極めて大きな推進力を与えたと主張した。
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現在の日本でいえば、補助金をもらうことは、「同胞に負担をかけ、神を侮辱するもの」に相当しますので、リバタリアンの思想になります。
補助金を増やせば、資本主義の経済発展の大きな推進はなかったという主張になります。
最後に、受容を引用します。
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受容
このエッセイは、カール・マルクスとその理論に対するウェーバーの批判の一つとしても解釈できる。マルクスの歴史的唯物論は、宗教を含むすべての人間の制度は経済的基盤に基づいていると主張しましたが、多くの人は「プロテスタンティズムの倫理」は、宗教運動が資本主義を育てたのであって、その逆ではないと示唆することでこの理論を覆すものだと見ている。
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受容をみれば、スタート時点で、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」には、問題があることがわかります。
マルクス氏は史的唯物論で、宗教を含むすべての人間の制度は経済的基盤に基づいていると主張しました。
「プロテスタンティズムの倫理」は、宗教運動が資本主義を育てたのであって、その逆ではないと示唆しています。
しかし、原因を1つに限定する根拠はありません。
マルクス氏の経済的基盤は、あまりに曖昧で、検証が困難です。
資本主義の大量生産には、エネルギーが必要でした。
エネルギーは、水力、石炭、石油に変化しています。
反事実の推論をすれば、石炭と石油のエネルギーが見つからなければ、資本主義の発展は、限定的であったことがわかります。
つまり、全ての原因を1つに限定する根拠はありません。
必要原因と十分原因を考えるべきです。
つまり、マルクス氏とヴェーバー氏はどちらも、間違っています。間違いを訂正する科学的な方法は、既にあります。
歴史的唯物論は、宗教を含むすべての人間の制度は経済的基盤に基づくと主張しますが、これはエビデンスに反します。
仮に、得られる資金が同額であっても、建築の設計図は、1つに限定されません。
この問題は、人間には、どこまで自由意思があるかという問題になります。
すべての人間の制度には、設計の自由度がないと考えると、自由意思が存在しないことになり、何をしても無駄になってしまいます。
社会主義活動家は、革命を起こしても、昼寝をしていても、得られる結果に変わりはないという主張になります。
「プロテスタンティズム」は形式的には、神の意志ですが、実務上は、宗教家が作成しています。
自由意思によって、原因(制度)を作ることがポイントになります。
1-3)白猫・黒猫理論
鄧小平氏は、白猫・黒猫理論を提案しました。
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」では、「プロテスタンティズム」が原因で、「資本主義」が結果です。
「プロテスタンティズム」は、宗教家が作った社会制度です。
「資本主義」(結果)を生みだす原因となる社会制度は、「プロテスタンティズム」に限りません。
中国には、キリスト教の信者は多くありませんが、そのことが、資本主義的な経済活動の制約にはなりません。
鄧小平氏は、白猫・黒猫理論があれば、「プロテスタンティズム」がなくとも、社会主義国で、資本主義的な経済活動が可能であると考えていたことになります。
白猫・黒猫理論は、メンタルモデルの共有を可能にします。
その結果、企業を作るというメンタルモデルを共有したグループが出来上がります。
企業を作るというメンタルモデルを共有(必要原因)しても、運営資金が不足(十分原因)するといった条件がクリアできなければ、企業は生まれません。
しかし、アイデアがなく、考えられないものは、実現する可能性が、ゼロなので、自由意思の存在を前提とすれば、メンタルモデルの共有が、スタートに必要な条件になります。
企業を作るというメンタルモデルを共有(必要原因)して、運営資金が充足(十分原因)されれば、企業が生まれますが、企業が成功するとは限りません。
ホンダが浜松で、バイクを初めて作ったこと、類似のバイク企業は200社あったと言われています。この中で、生き残ったのは、数社に過ぎません。
2024年現在、中国では、多数のEV起業が誕生し、生き残るのは数社であろうと言われえています。この状況は、創業期のホンダに相当します。
2024年現在、起業ができるメンタルモデルの共有は、中国では出来ていますが、日本では出来ていません。
日本の起業数は、中国どころか、欧米と比べても低いことは、リチャード・カッツ氏も指摘しています。
これは、ケインズ氏流にいえば、アニマル・スピリッツの欠如に相当します。
企業が少ない原因として、起業ができるメンタルモデルの共有の欠如は第1に、疑うべき事項です。
起業ができるメンタルモデルの共有の欠如の原因としては、年功型雇用と市場経済の欠如が考えられます。
フレイザー・ハウイー氏は、最近の中国では、白猫・黒猫理論のメンタルモデルが失われたと言います。(筆者要約)
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習近平氏は鄧小平時代の実際的な改革開放路線の根本的な転換を図った。
中国の補助金とダンピング(不当廉売)を警戒する国が増えるにつれ、中国の貿易黒字問題は、経済摩擦だけでなく大きな政治摩擦の原因になっている。IMFが先ごろ発表した報告書(報告書4、付属文書7)には、中国当局は2022年以降、「工場を持たない製造(factoryless manufacturing)」という概念を掲げ、実質的に貿易黒字を減らしてきたと記されている。工場を持たない製造とは、データを改ざんして黒字幅を縮小する中国の意図的な企てであり、こうした詐欺的手法をきちんと指摘しないIMFにも問題がある。
工場を持たない製造によって、中国は中国で製造され、中国で販売されたモノを輸出品と輸入品として記録してきた。これは、経済的観点から言えば「ごまかし」であるが、政治的な面で、貿易大国の中国が自国産業に及ぼす影響を懸念する欧米とグローバルサウスの国々からの圧力を軽減できる。
工場を持たない製造を架空のシナリオを例に説明する。米国に本拠を置くHappy Jeans社が、中国に本拠を置くWe Make Jeans 社に、1本5ドルで100万本のジーンズを発注する。この中国のメーカーはその後、Happy Jeans社の上海倉庫に100万本のジーンズを納入した。中国当局はこれを500万米ドルの輸出として記録する。Happy Jeans社はその後、このジーンズを自社ブランド名で、中国全土において1本10ドルで販売し、1,000万ドルの売上を上げる。これは、1,000万ドルの輸入として記録される。その結果、モノが一切、国境を越えて移動していないにもかかわらず、中国の貿易黒字幅は500万ドル縮小する。
経済の現実的問題に関する議論はもはや求められていない。政府に消費刺激策を求める人たちは、家計消費を低く抑えることこそが、国が支持するモデルだと知らないのだ。各世帯が経済活動で生まれる富をより多く得られるようにならなければ消費は上向かないが、中国では富の分配と権力の分配は切っても切り離せない。そして習氏は権力を分配するのではなく、自分の下に集結させることを望んでいる。
中国経済は、今後も崩壊することはないが、じわじわと続く衰退が、将来待ち受けている。今後は(国がそれを認めれば、の話であるが)中国の優秀な人材の海外流出が増え、彼らの資産も一緒に流出する。今後30年間の経済見通しはさほど悲観的なものではないが、政治を変えずして経済を変えることはできないだろう。
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<< 引用文献
中国経済で今何が起きているのか ? 2024/09/26 中国問題グローバル研究所 フレイザー・ハウイー
>>
メンタルモデルの共有ができなくなれば、問題解決はできません。
メンタルモデルの共有ができなくなって、問題解決ができなくなった状況は、そのまま、日本にもあてはまります。
ハウイー氏の解説の最後の2つの段落の中国を日本に置き換えれば、次のようになり、現在の日本にもあてはまっていることがわかります。
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経済の現実的問題に関する議論はもはや求められていない。政府が支持するモデルは、家計消費を低く抑えることである。各世帯が経済活動で生まれる富をより多く得られるようにならなければ消費は上向かないが、富の分配と権力の分配は切っても切り離せない。政府は権力(富)を分配するのではなく、自分の下に集結させることを望んでいる。
日本経済は、今後も崩壊することはないが、じわじわと続く衰退が、将来待ち受けている。今後は(国がそれを認めれば、の話であるが)日本の優秀な人材の海外流出が増え、彼らの資産も一緒に流出する。今後30年間の経済見通しはさほど悲観的なものではないが、政治を変えずして経済を変えることはできないだろう。
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1-4)坂の上の雲
坂の上の雲は、司馬遼太郎氏の歴史小説です。明治維新を成功させて近代国家として歩み出し、日露戦争勝利に至るまでの勃興期の明治日本を描いています。
司馬遼太郎氏の歴史小説は、個人が努力して、歴史が作られるという歴史観で書かれています。しかし、この歴史観には、2つの問題点があります。
第1は、創業期のホンダのようなバイク企業のように、成功例は、10%未満で、大半は失敗しています。失敗談では、歴史小説には、ならないので、無視されています。その結果、大きなサンプリングバイアスが生じています。努力して報われる可能性は、10%未満です。90%以上は失敗します。ただし、失敗を繰り返すと、全て失敗する確率は低くなります。これは、起業がビジネスになる原理です。
第2は、努力する個人が出現する前提にあるメンタルモデルの共有が無視されている点に問題があります。
司馬遼太郎氏に限りませんが、歴史小説を読むと、個人の努力で、歴史が作られるという認知バイアスを増幅することになります。